これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? 鑑定団の今田&福澤が歴史の新常識に迫る

放送日 2018年10月2日(火) 18:55~20:54
放送局 テレビ東京

番組概要

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
18:55~

日々の研究によって歴史は変わっており、例えば学校の教科書で聖徳太子は厩戸王という名前で教えられている。また、飛鳥時代に作られた日本最古の貨幣は和同開珎と教えられたが、今は富本銭だったことがわかっている。

それまでの貴族中心の政治から武士が政権を握った鎌倉幕府。1192年(いいくに)と教えられてたが、現在は1185年(いい箱)と教えられている。

1549年にポルトガルから伝わったとされるキリスト教。江戸時代にキリスト教徒を見つけるために用いた方法は”踏絵”だが、今では”絵踏”と教えられている。踏絵は絵踏の際に使われた絵のことを指すという。

肖像画の常識も変わっている。西郷隆盛の肖像画は実は本人ではなく、弟・西郷従道といとこ大山巌を合わせて描かれたもの。西郷隆盛は暗殺を恐れて極度の写真嫌いだったため、殆ど残っていない。2003年には大分・日田市や京都で本人だとされる肖像画が発見されている。

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徳川綱吉
聖徳太子
和同開珎
富本銭
源頼朝
キリスト教
絵踏
西郷隆盛
西郷従道
大山巌
日田市(大分)
京都府

オープニング (その他)
19:05~

オープニング映像。

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
19:05~

江戸時代、日本はキリスト教が国内に浸透することを防ぐため、諸外国との交流を禁じ長崎・出島以外での貿易を禁止した。その政策は「鎖国」と言われ、黒船で訪れたペリーの恫喝で開国させたとされている。ところが現在、鎖国という言葉が無くなっている教科書がある。多摩大学の河合敦氏によると、そもそも鎖国がなく幕府は長崎をはじめ4つの場所で貿易をしていたという。長崎ではオランダを通じてアメリカと貿易、金銀を輸出し毛皮などを輸入していた。鎖国という言葉はドイツ人のケンペルが日本の交易などについて記した論文を日本人が翻訳した時、鎖国という言葉が創作された。

日本を恫喝し開国を求めてきたと言われているマシュー・ペリー。これまでは幕府へ開国を迫るため黒船艦隊を率いて1853年6月31日に来航してきたと言われてきた。現在の教科書では開港に変化、ペリーは港を開かせに来たとされている。理由は捕鯨船の燃料や食料の補給地にするため、幕府は1年の猶予を設けた。ところがペリー戻った10日後に徳川家慶が死亡、この混乱をペリーは狙っていた。そこでペリーに対抗するため林復斎を抜擢、緊迫の交渉が行われた。

このあと、明智光秀&勝海舟にせまる。

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出島
キリスト教
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多摩大学
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ケンペル
開国
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林復斎
明智光秀
勝海舟
田沼意次

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
19:24~

ペリーとの話し合いの場に出た林復斎。外交のスペシャリストである林はペリーの心を読み切っており、江戸に近い浦賀を避けるため下田を提案した。なんとしても5つを開港したいペリー、そこで林は函館も開くことを提案、2つに抑えた。ペリーは林との交渉を終えて、「日本がひとたび文明世界の技能を手に入れれば、強力なライバルになる」と語ったと言われている。交渉が行われたのが下田にある了仙寺、ここには開国当時の貴重なものが残されている。

河合敦は当時の日本について解説。鎖国しているので文化が落ちたと言われているが、これはウソ。ペリーは蒸気機関車の精巧な模型を日本に送っており、1年後に日本人が蒸気船を造った。

1582年6月2日、本能寺の変が起こった。戦国武将 織田信長が部下・明智光秀の謀反により自害に追い込まれた事件で、主君を裏切った明智光秀は裏切り・残酷・独裁的などと言われている。裏切った理由は諸説あり、その1つが個人的な恨みによるもの。信長への積年の恨みが爆発、これが近年まで明智光秀が裏切った理由の根底となってきた。

静岡大学・小和田哲男教授によると、明智光秀と信長には信頼関係があったという。明智光秀は信長のほか、足利義昭にも仕えている状況だった。信長と義昭の関係が悪化、よりよい日本を作れるのは信長だと判断し付いていくことに決めた。信長の元で光秀は難攻不落と言われた丹波を攻略、約29万石の領主となるなど活躍。

このあと、勝海舟のその後の人生。

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鎖国
ペリー
開国
林復斎
下田市(静岡)
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明智光秀
本能寺の変
織田信長
ルイス・フロイス
徳川家康
足利義昭
勝海舟

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
19:44~

明智光秀を高く評価していた織田信長。そんな中、光秀の目には信長の傲慢なやり方が非道に写っていた。土佐では長宗我部元親が勢力を拡大、そこで信長は同盟を組もうと考え、交渉役に光秀を抜擢した。四国全土を長宗我部のものにして良いと交渉、これにより同盟を組んだ。長宗我部は四国全土を支柱に収めようとした矢先、信長は約束を破り二国を明け渡すよう要求。それを聞いた長宗我部は激怒、光秀は天下をとるため手段を選ばない信長に疑問を抱いていった。

信長の暴走は加速、国の行事などを決める”こよみ”は当時の天皇が定めていた。信長にこのみにまで変更を要求した。更には甲州市にある恵林寺が織田軍に敵対する武将をかくまっているとの情報が入ると、成敗するため引き渡しを要求。ここの僧侶である快川紹喜は天皇も認める高僧、要求を拒否した。

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明智光秀
本能寺の変
織田信長
長宗我部元親
甲州市(山梨)
快川紹喜

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
19:55~

恵林寺が織田軍に敵対する武将をかくまっていると聞きつけた信長。武将の引き渡しを要求したが快川紹喜が拒否、すると光秀に焼き払うよう命令。光秀は天皇の否定だと主張、すると代わりに息子・織田信忠に命令を下した。これは本能寺の変の2ヵ月前の出来事だった。

かくして1582年6月2日、光秀率いる軍勢1万3000人が本能寺を包囲。明智軍はまたたく間に制圧、燃え盛る炎の中で天下統一を目前に信長は自害に追い込まれた。国立公文書館には本能寺の変当日、光秀が信長の家臣宛てに書いた手紙の一文が残されている。信長親子たちの悪行は平和の妨げになると書かれている。信長に追放された足利義昭が京へ戻ることを承知した手紙も残っている。本能寺の変の11日後、光秀は後に豊臣秀吉となる羽柴秀吉に破れた。こうして1582年6月13日、光秀は生涯に幕を閉じた。

河合敦によると教科書には明智光秀による謀反の理由は書かれておらず、近年になり様々な説が分かってきて理由が入る可能性がある。橋本マナミは大河ドラマ「真田丸」で光秀の三女ガラシャを演じており、ガラシャは逆臣の娘ということで辛い思いをしたという。

江戸時代に活躍した発明家・平賀源内。彼の発明品は試作品ばかりで殆ど実用化されず、世間からペテン師呼ばわりされていた。晩年は建築業として武家屋敷を修理、酒に酔った彼は大工が設計図を残したと勘違いして殺害。獄中で死亡した。

明治時代に活躍した政治家・板垣退助。44歳の時に刃物を持った暴漢に襲われ、「板垣死すとも自由は死せず」と名言を残した。実は数カ所を軽く刺されただけ、その後も明治政府の要職を歴任するなど82歳まで生きていた。

欧米の侵略に対抗するため1855年に海軍学校を創設したのが勝海舟。軍艦「咸臨丸」の館長として太平洋横断を成し遂げるなど、坂本龍馬に「日本一の人物」と言わしめた人物。最も大きな功績が江戸城の無血開城、新政府軍に江戸城が攻められた時は西郷隆盛と交渉をして攻撃を中止させた。

1868年、薩摩・長州が中心となった明治新政府が誕生。勝海舟は旧幕府の代表格として海軍卿などを歴任するも辞任。徳川家最後の将軍である徳川慶喜と共に静岡・駿府に移住しようとしたが、100年以上放置されていた土地だった。農業の知識もあった海舟は土地がお茶づくりに最適だと見抜き、牧之原台地での茶畑計画が始まった。今や当たり前となっているお茶大国の静岡、その裏には勝海舟が大きく関わっていた。

日本有数の米どころである新潟では当時も米作が行われていたが、豪雪・洪水などで収穫できない土地が多かった。その状況を海舟に相談したのが大地主・川上善兵衛、このときに海舟はワイン作りを勧めた。原料のブドウは痩せた土地でも栽培することができ、田畑を潰さずに収穫できる。現在は「岩の原葡萄園」になっており、創業当時に川上善兵衛が作った石蔵が残されている。

海舟は23歳の頃に売れっ子芸者だった民と結婚。お金周りが良くなってくるとプレイボーイの本性をみせ、長崎の愛人に贈った和歌が残されている。朝帰りする海舟を江戸で待つ民は一切文句を言うことはなかった。しかし結婚から10年後、海舟は女中の2人との子どもを連れてくると、民との子供と合わせて計10人が一つ屋根の下で暮らした。更に13代将軍 徳川家定の妻・篤姫とも噂があった。

1899年1月19日、海舟は激しい頭痛に襲われ愛人である増田糸に生姜湯を持ってくるよう頼んだ。

このあと、悪徳政治家 田沼意次。

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織田信長
本能寺の変
明智光秀
甲州市(山梨)
快川紹喜
織田信忠
本能寺
国立公文書館
足利義昭
豊臣秀吉
真田丸
平賀源内
板垣退助
勝海舟
咸臨丸
徳川慶喜
西郷隆盛
駿府(静岡)
牧之原台地
川上善兵衛
上越市(新潟)
増田糸
小西かね
篤姫
徳川家定
田沼意次

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
20:24~

1899年1月19日、海舟は激しい頭痛に襲われ愛人である増田糸に生姜湯を持ってくるよう頼んだ。生姜が見つからず糸は戸棚あったブランデーを発見、海舟に飲ませたが良くなるはずもなく2日後に脳出血で亡くなった。その6年後、民は遺言で勝と同じ墓に入ることを拒否した。遺言はちゃんと守られ別々のお墓に入ったが、その後、勝の墓の隣に移された。

賄賂政治で悪名高い江戸幕府の田沼意次。将軍の命を受け政治を司る幕府のNo2、事実上全ての権力を握り政治の中心に君臨。商人たちから賄賂を受けとり、賄賂競争が行われた。

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増田糸
脳出血
田沼意次
徳川家治
大田区(東京)
足洗池

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
20:33~

賄賂政治で悪名高い江戸幕府の田沼意次、昔の教科書では”賄賂がしきりに行われ、多くの非難をあびた”とされてきた。現在の教科書では、斬新な政策を取り入れ幕府の収入を増やした功労者として評価されている。

田沼意次は10代将軍 徳川家治に仕えた老中、幕府No2の身分だった。政治の実権を握っていた当時、幕府は財政難、家臣に給料が払えず庶民は物価高で買いたい物も買えなかった。農民の年貢だけで国の運営を行っており、大儲けしている商人からは税金を取っていなかった。そんな状況を解消するため、米・味噌・酒・塩など大量に売れるものを特定の商人に扱わせる「株仲間」を作った。おかげで株仲間になった商人は以前に増して大儲け、そこから幕府が税金をとった。商人だけでなく地方大名からも税金を徴収した。

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田沼意次
徳川家治
株仲間

これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
20:42~

田沼意次は株仲間という特定の商人から税金を徴収するシステムを作り、地方大名からも税金を徴収した。当時は東西で通過が違っていたため、流通をスムーズにする「南鐐二朱銀」で通貨を統一させた。各地で商売がスムーズに行えるようになり経済が活性化、画期的な仕組みを考えた。

意次は優れた人間性も持ち合わせていた。年貢を収める農民に対して直接声をかけて労うなどした。このように素晴らしい功績があるが、明らかに大名からしたら増税、反発をうけて失脚した。財政改革のさなかである1783年に浅間山が噴火、大量の死者が出たことにより疫病が発生。追い打ちをかけるように襲った冷害で2年間で100万人の死者が出たとされる。庶民の生活はどん底になり、庶民からも反感をかってしまい財政改革は全て中止された。

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これが日本の新常識!なぜ あの歴史は消えたのか? (バラエティ/情報)
20:51~

田沼意次が幕府のために行った先進的な財政改革は全て否定され失脚。失意の意次は粗末な家でひっそりと最期を迎えた。その後、意次の悪名を広めたのが徳川吉宗の孫・松平定信、意次とはライバル関係で失脚後に実験を握った人物。意次の実績には一切触れず、悪名を広めたため後世に伝わった。一方、日本と貿易をしていたオランダの責任者イサーク・ティチングは意次の政策を高く評価していた。

田沼意次についてトーク。赤江珠緒は「晩年が気の毒ですね」、太川陽介は「税制の基本である公平さを気づいた人、それはすごいですね」とコメント。

「開運!なんでも鑑定団」の番組宣伝。

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