今回のみ例外を認める〜フィギュア羽生結弦が一度だけ俳優に!映画オファー快諾の秘話 2018年8月18日放送回

放送日 2018年8月18日(土) 14:00~14:54
放送局 TBS

番組概要

オープニング (その他)
14:00~

オープニング映像。井上康生、ベトちゃんドクちゃんを救うため国家間のルールに立ち向かった日本人医師団、羽生結弦に関する、“唯一認められた例外による感動秘話”を紹介する。

キーワード
井上康生
羽生結弦

今回のみ例外を認める! ~例外が生んだ感動物語~ (バラエティ/情報)
14:01~

2016年公開の映画「殿、利息でござる!」は江戸時代の仙台藩が舞台。貧困にあえぐ宿場町を描いた実話作品。この作品に羽生結弦が出演していた。羽生はフィギュアスケートに向き合うため、メディア露出は最小限。映画・ドラマ出演はなかったが、この映画では例外。仙台藩藩主の伊達重村役として出演した。羽生はソチ・平昌五輪で金メダルを獲得。66年ぶりに日本人初の快挙をおさめた。ことし7月には歴代最年少で国民栄誉賞を受賞した人物だったが、なぜ例外の出演を行ったのだろうか?

2000年開催のシドニーオリンピックでは、高橋尚子が日本初の女子マラソン金メダルを、女子柔道では田村亮子が金メダルを獲得した。シドニーオリンピックの運営責任者によると、オリンピックには厳しいルールがたくさんあるが、中には「表彰式に個人的な物を一切持ち込んではいけない」という厳格な決まりがある。100年を超えるオリンピックの歴史の中で、唯一例外を認められた日本人がいた。それが男子柔道100kg級で金メダルに輝いた井上康生だ。その表彰式で、母かず子さんの遺影を掲げながら金メダルを授与された。6歳から柔道を始めた井上は、幼い頃から天才と呼ばれ小学生の時は全国少年柔道大会で2連覇。12歳の時すでにオリンピックで金を目指す発言をしていた。そんな井上を誰よりも応援してくれたのが、試合に勝つたびに大きなケーキを作ってくれた母、かず子さんだった。現在、柔道全日本男子監督を務める井上に、母について聞いてみると「オリンピックチャンピオンになれると信じてくれた人。優しく包んで育ててくれた」と話した。そのかず子さんはかつてのインタビューで、息子について「絶対勝つのが当たり前という意識で、一番を目標にしていた」と語っていた。

岩崎恭子さんは井上康生さんについて「年齢も一緒なのですごく親しくさせて頂いているんですが、オリンピックって世界の大イベントなんで、いろんな問題が起きるからこそ本当に厳しいルールがある。選手と観客と取材陣の導線も全部違う」など述べた。

映画には瑛太や妻夫木聡、阿部サダヲなど大物俳優が多数出演。殿様役には存在感のある人物が求められた。そこでプロデューサーらは羽生にダメ元で出演を依頼したところ、OKされた。原作者で歴史学者の磯田道史さんは「仙台の地元のために必要なものだと親子で話し合ってくれた」「これは仙台の人たちが自分で立ち上がる話。震災後、東北の人たちを勇気づけるのに一番いい作品だった」などと話した。羽生も16歳で被災。家族とともに避難所生活を送った。地元・仙台への思いは特別なものだからこそ、例外として映画出演を受けたのだという。

1980年にベトナムで誕生した下半身が繋がったままのベトちゃんドクちゃん。その原因と考えられたのが70年代のベトナム戦争で米軍が撒いた枯葉剤。日本でも戦争被害のシンボルとして数多くのメディアが注目。各地で支援団体が結成されるなど大きな話題に。様々なリスクが想定され、長生きは難しいと思われていたが、彼らが6歳の時、ベトちゃんが原因不明の昏睡状態に。ドクちゃんにも命の危険が。医療先進国での治療が必要だった。移送先に選ばれたのが当時2人の支援活動が活発となっていた日本だった。だが、そこに大きな壁が立ちはだかる。

撮影前の映像を紹介。羽生は「スケーターではない感じがする」などと話した。撮影当日まで、ほか出演者には秘密だった。羽生は撮影リハーサルで初めて姿を現し、出演者らは驚愕。羽生は初リハーサルでも堂々たる演技を見せた。フィギュアで鍛えた表現力は役者顔負け。監督と話し合い芝居を磨いた。阿部は「どんどん上手くなりたいという気持ちがある。たいしたもんだ」と話していた。妻夫木は「演技が初めてとおっしゃっていたが、貫禄さえ感じた」などと話した。羽生は「役者をやらせて頂けて大きな経験になった」と話し、挑戦をスケートの糧にする意気込み。

当時ベトナム~日本の直行便はゼロ。迅速に移動するにはチャーター機が必要。しかし、当時のベトナムと日本の間にはチャーター機を飛ばすための航空協定がなかった。だが、ベトちゃんドクちゃんは例外としてチャーター機で即座に日本へ運ばれ、その命を救われた。

86年6月10日、ベトちゃんドクちゃんの命を救ってほしいとして救援要請を受けた日本赤十字社。すぐに医師団派遣を決定。 選出された4人の石段は2日後、2人が入院するベトナムの病院へ。そこでは元気ドクちゃんに対し、ベトちゃんの脳には障害の疑いが。この時にドクちゃんを診断した麻生誠二郎医師によると、ベトちゃんは意識がなく、予断が許されない状況だった。日本人医師団の治療で一命はとりとめたが、現地の医療設備では根本的な回復は望めない。2人を救う方法は日本へ連れて行くしかなかった。

母の期待通り、中学校でも3年連続で全国大会に優勝した井上康生。高校生になると地元宮崎を離れ、名門・東海大相模高校へ進学した。一本勝ちにこだわり、攻撃的な柔道に磨きをかけた。井上の試合会場には、常に地元宮崎から応援に駆けつける母の姿があった。しかし高校3年の秋、ある試合でいつもは優しい母を豹変させることになった。それは高校最後のインターハイ神奈川県予選の決勝戦でのこと。まさかの敗北に、いつもなら優しい言葉をかけてくれる母が準優勝の賞状を破り「あなたに2位は似合わない」と言ったという。母が怒ったのは負けたからではなく、格下相手に油断し攻めの姿勢を忘れたからだった。攻めの柔道、一本取ること、それをもう一度思い出させてくれたと井上は語る。これ以降、全日本大学選手権を始め数々の大会で優勝した。

日本人医師団はすぐに行動を開始。ベトナムの病院側も移送を希望した。そこでベトナム政府に日本行きのチャーター機を要請した。だが、2人だけを救うためにチャーター機を飛ばすわけにはいかない。このまま交渉しても時間がかかるとして、日本人医師団は日本側で移送に必要な準備を整えてしまうことに。日本でその準備を担った1人が日本赤十字社の中田晃さん。日本赤十字社としても前例のない事態だった。まずはチャーター機を日本航空に依頼。飛べるかどうかもわからないチャーター機を至急用意してほしいという前代未聞の依頼だったが、依頼の結果、ジェット機を無償で運行してくれるように。しかも2人が快適に過ごせるように機内の大改造も了承してくれた。他の関係機関も移送への協力を快諾。わずか1日で移送の準備が完了。医師団と赤十字のメンバーは再びベトナム政府に打診。その答えは予想外のものだった。

シドニーオリンピックを翌年に控えた1999年、井上は見事オリンピック代表候補に選ばれた。夢だったオリンピックは、母への恩返しをする最高の舞台でもあった。しかし1999年6月、くも膜下出血によりかず子さんが急逝。この時父から、母が生前井上に渡そうとしていた手紙を渡され、そこには「初心に戻ってあなたの柔道をやりなさい」との、五輪を控える井上へのメッセージと、体を壊さないようにと気遣う優しい母の言葉があった。シドニーオリンピック初戦では、遺影の母が見守る中、開始16秒での鮮やかな一本勝ち。続く3回戦でも開始12秒で1本背負いを決めるなど、すべて一本勝ちで勝ち進み、ついに決勝の舞台へ。

シドニーオリンピックの決勝戦、井上康生は得意技の内股で一本勝ち。母・かず子さんに金メダルを贈ることができた。決勝の後、表彰式直前に井上は兄から母の遺影を受け取り、そのまま表彰式へ。しかし、会場内に個人的な物を持ち込むのは禁止だと会場スタッフに止められ、会場責任者までが駆けつける事態となった。井上は後日「世界一の母を世界の人に見せたいという思いがあった」と語っている。表彰台に母と一緒に登りたい、そう伝えると会場責任者は「私は見て見ぬふりをするから、洋服の中に入れなさい」と例外を認めてくれたという。かつてオリンピックの表彰台で、遺影を抱いて金メダルを下げた選手はいなかった。当時、表彰式のアナウンスでは、母・かず子さんの死後に出てきた日記には、父・明さんの名前はほんの数回しか出てなく、毎日毎日康生のことばかり書いてあったと伝えられた。

井上は当時を振り返り、「感慨深い、ジーンとするものがあった。表彰台では母親に語りかけていた」と語った。また、今となっては担当者に迷惑をかけたが、心から感謝していると話した。あの時、例外を認めてくれたスタッフにお礼を言えなかったことが心残りだと言う。そこで、井上からのメッセージを届けるため、当時のスタッフが住むオーストラリアへ。シドニーオリンピックで柔道競技の統括責任者だったルイス・バルさんに、例外を認めた理由を聞いてみると、「オリンピック規約には違反していたが、彼の真っ直ぐな気持ちが伝わったのでOKした。本当はいけないことだったにもかかわらず、18年経った今でも多くの人の中で良い記憶として残っていることがすべてを証明している」と語った。井上は表彰式の後の食事会でも、母親の遺影を大事に持っていたという。井上の感謝の気持ちを映像で見たルイスさんは、「今でも感謝の気持ちを持ってくれているのを嬉しく思う」などとコメント。さらに「あの時、遺影の額縁に入っているはずのガラスが無かった。遺影は危険なものではないと判断し、特別にOKした。もしガラスが入っていたら許可しなかったでしょう」と語った。遺影のガラスは、井上が勝った瞬間に父が落として割れたのだと言う。井上は「母が私を連れて行けという思いでそうしたのかも」と語った。

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今回のみ例外を認める! ~例外が生んだ感動物語~ (バラエティ/情報)
14:41~

日本の医師団と赤十字のメンバーは再びベトナム政府にチャーター機の許可を打診した。すると日本への位相の許可が出た。純粋に今ある生命を救いたいという医師団の熱意がベトナム政府を動かし、例外が認められた。日本にやって来た二人は飛行機に横付けされた救急車に乗りそのまま病院へ。昏睡状態だったベトちゃんも奇跡的に回復した。元気になった二人は無事ベトナムへと帰国した。その2年後、ベトナムで日本赤十字社の協力の下17時間に及ぶ大手術の末無事二人の体を別々に分ける事に成功した。あれから30年、ベトさんは肺炎により26歳で他界したがドクさんはホーチミン市の分離手術が行われた病院で事務の仕事をしているという。ぜひ見せたいものがあると案内された先のドクさんの住まいは3階建ての一軒家で家には妻と双子の子供が居た。

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今回のみ例外を認める! ~例外が生んだ感動物語~ (バラエティ/情報)
14:47~

現在10歳になるドクさんの双子の名前はフー・シ(富士)とアイン・ダオ(桜)だという。当時世話になった日本の人たちに敬意を評して日本を象徴するものを名前につけたと語った。家族4人で幸せな生活を送っているという。

ストックホルムオリンピック日本代表の金栗四三選手はある例外によりオリンピック史上類を見ない記録を樹立したという。果たしてその記録とは?

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今回のみ例外を認める! ~例外が生んだ感動物語~ (バラエティ/情報)
14:51~

ストックホルムオリンピック日本代表の金栗四三選手はある例外によりオリンピック史上類を見ない記録として史上最も襲いゴールの記録を樹立したという。記録は54年8ヶ月6日5時間32分20秒で、レース中に日射病で気を失い近所の家で休憩中にレースが終了。その時ストックホルムオリンピック委員会は行方不明として処理し、それから50年以上経ってストックホルムを訪れた金栗選手に例外を認めてゴールしたという。

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  1. 8月18日 放送