報道特別番組 「Nスタスペシャル平成最後の日〜天皇陛下退位へ」

報道特別番組(ほうどうとくべつばんぐみ)とは重大な事件・事故、災害などの事態などが発生した時、日本の放送局が、その日予定されている番組(番組編成)を急遽変更して放送する報道番組の一般的な呼称である。俗に言う「臨時ニュース」の一種である。特報(とくほう)とも呼ばれるほか、報道特番(ほうどうとくばん)との略称もある。

出典:goo Wikipedia

放送日 2019年4月30日(火) 13:55~15:49
放送局 TBS

番組概要

NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
13:55~

雨が降りしきる中、時代の変わり目に立ち会おうと皇居周辺には多くの人が詰めかけた。午前9時過ぎ、皇太子さまがお住まいの東宮御所を後にし皇居に向かわれた。雨がすっかり止んだ午前10時頃、宮中三殿で退位に向けた儀式が始まった。はじめてに陛下は天照大神を祀る賢所をを参拝された。天皇だけが身につける事ができる黄櫨染御袍と呼ばれる伝統的な装束を身にまとい厳粛な面持ちでまっすぐ前を見据え回廊を進まれた。退位を日本古来の言葉で報告、7分後に出てきた陛下は入った時より深く一礼された。歴代天皇・皇族を祀った「皇霊殿」、国中の神々を祀る「神殿」も参拝された。午後5時から「退位礼正殿の儀」が行われる。

井上貴博ら出演者が挨拶し、現在の皇居の様子を紹介した。

午後5時から退位礼正殿の儀が行われる。天皇陛下の退位を国民に知らせる儀式で最後のお言葉が述べられる。渡邉允は侍従長として「今日のご退位、陛下が考えて考え抜かれた上の事なんでそれなりのお考えをお持ちだと思いますけど、考えてみると即位されてから30年、結婚されてから60年、お生まれになってから85年、象徴としての天皇の姿を追い求めてこられた。明日からまったく新しい今までなかったところへ踏み込んでいらっしゃる。考えが変わるだろうけどその深さ、広さ、大きさは常人を以て図りがたい」とコメント。

宮内庁前から中継。皇居では午後5時から退位礼正殿の儀が行われる。会場となる宮殿は木々の奥になり、その中でも格式高い正殿・松の間で行われる。先月から今月にかけては退位に向けた一連の儀式として神武天皇の陵や伊勢神宮、昭和天皇の陵へも参拝された。陛下は今日、賢所などを拝礼し退位する事を報告された。陛下は賢所の回廊を進む際、まっすぐと前を見つめ厳粛な面持ちで一歩一歩ゆっくりと歩かれていた。山本信一郎宮内庁長官は「寂しい気持ちと感謝の気持ちで見守らせていただきました」と感慨深く話されていた。

今月13日、両陛下はねむの木の庭を訪れた。昭和34年、ご成婚の日の朝、陛下は美智子さまと婚約が内定された後、歌を詠まれた。陛下は3歳の頃から親元を離れ家庭の温かみを知らず育った。一方、一般家庭で家族団らんの中で育った美智子さまは民間から初の皇太子妃となる事に不安を抱えていた。象徴天皇のあるべき姿を模索したその道程には両陛下の覚悟と苦悩があった。ご結婚の翌年、浩宮さまが誕生されこれまでの天皇家の慣習とは違う親元での育児を始められた。お二人は一般の家庭と同じく運動会にも参加。2年後の昭和36年、隣がけのご公務で長野県を訪れた。常にお二人で活動される事もそれまでの皇室にはなかった。宮内庁長官を7年間務めた羽毛田信吾さんは「皇太子殿下の時代から象徴天皇としてはどうあるべきかをずっとお考えになってこられて象徴天皇というのはいかに国民の心の支えになるか国民一人一人といかに心を通わせるかそれは陛下のご信念である」と話した。平成2年、即位パレードが行われ平成3年、天皇皇后として初めての初の海外ご訪問を行った。

この翌年、初の中国訪問が決定するが天皇の政治利用だと抗議運動が起こった。そんな中、第47回国民体育大会に訪中反対を叫ぶ男が発煙筒を投げた。美智子さまはとっさに右手を差し出した。その3週間後、両陛下が中国を訪れた。両陛下の安全が心配された。中国ではこの3年前に天安門事件が起きていた。陛下はまさにその場所を通る事になっていたので厳重な警備が敷かれた。そして両陛下を乗せた車は猛スピードで走り抜けた。

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NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
14:13~

平成4年、両陛下初の中国ご訪問、3年前に天安門事件が起きてた広場は厳重な警備が敷かれた。そこを両陛下を乗せた車は猛スピードで走り抜けた。その夜の晩餐会では陛下のスピーチが注目された。滞在中、両陛下は積極的に市民との交流を重ねた。人と人とが親しく交わる事が両陛下の考える国際親善のあり方だった。同行していた側近の苅田吉夫さんは「最大のハイライトは最後の晩に上海でびっくりしたのは20万、30万もの中国の人々が歓迎しているんですよ。日本の皇室というのはこんなに親しみがあるこんなに真剣なお二人。それを通じて日本人というものを見る。わずか数日の間で日本に対する評価が変わる」と話した。

平成5年10月、美智子さま59歳の誕生日の日に強い悲しみとストレスで声を発することができない失声症と診断された。週刊誌が美智子さまを批判する記事を掲載した事が原因だと考えられた。この6日後の平成5年10月26日、お二人で訪問する予定だった香川県のろう学校へは陛下お一人での公務となった。この時、一人の子供が陛下にお手紙を渡した。お見舞いの手紙だった。翌月、声を発する事ができないままの美智子さまだったが陛下と地方公務へお出かけになった。困難な状況にある人たちに心を寄せる両陛下はどんな状況であっても変わらず続ける事が務めだと感じていた。平成6年2月、失声症から回復されていない美智子さまと共に太平洋戦争の激戦地だった硫黄島を訪れた。美智子さまは父島でたくさんの人とふれあい少しずつ声を取り戻された。平成24年、陛下は心臓の手術のためご入院された。

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NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
14:22~

平成4年、両陛下初の中国ご訪問、3年前に天安門事件が起きてた広場は厳重な警備が敷かれた。そこを両陛下を乗せた車は猛スピードで走り抜けた。その夜の晩餐会では陛下のスピーチが注目された。滞在中、両陛下は積極的に市民との交流を重ねた。人と人とが親しく交わる事が両陛下の考える国際親善のあり方だった。同行していた側近の苅田吉夫さんは「最大のハイライトは最後の晩に上海でびっくりしたのは20万、30万もの中国の人々が歓迎しているんですよ。日本の皇室というのはこんなに親しみがあるこんなに真剣なお二人。それを通じて日本人というものを見る。わずか数日の間で日本に対する評価が変わる」と話した。

平成5年10月、美智子さま59歳の誕生日の日に強い悲しみとストレスで声を発することができない失声症と診断された。週刊誌が美智子さまを批判する記事を掲載した事が原因だと考えられた。この6日後の平成5年10月26日、お二人で訪問する予定だった香川県のろう学校へは陛下お一人での公務となった。この時、一人の子供が陛下にお手紙を渡した。お見舞いの手紙だった。翌月、声を発する事ができないままの美智子さまだったが陛下と地方公務へお出かけになった。困難な状況にある人たちに心を寄せる両陛下はどんな状況であっても変わらず続ける事が務めだと感じていた。平成6年2月、失声症から回復されていない美智子さまと共に太平洋戦争の激戦地だった硫黄島を訪れた。美智子さまは父島でたくさんの人とふれあい少しずつ声を取り戻された。平成24年、陛下は心臓の手術のためご入院された。

平成24年、陛下は心臓の冠動脈バイパス手術のためご入院された。1ヶ月後の東日本大震災の一周年追悼式に出席したいという強い願いをお持ちだった。前侍従次長の佐藤正宏さんは「追悼式典に出席されるということを聞きました時には正直大変驚いたし大丈夫かなと不安に思った」と話した。3月4日、心臓の大手術からわずか2週間で退院、静養する時間が必要だったにもかかわらず1週間後、追悼式に出席された。美智子さまは不安定なヒールのある靴を履かないために和装で臨まれ陛下を支える覚悟を決めていた。

2週間ほど前に皇后と電話をされた事を聞かれた末盛千枝子は「用事もありましたんですけど、きょう午後から伊勢に行くのとおっしゃって朝早く電話をくださってしばらくお話いたしましたけどかなり行事が立て込んでいらっしゃるじゃないですか。大変お疲れのご様子であと2週間持つようにと思ってるという事をおっしゃいましたので本当に良いお祈りの旅になりますようにと申し上げたんですけど、伊勢神宮などは砂利道なので大変だったと思います」とコメント。渡邉允は陛下が本格入院された時に皇后が隣の部屋をとって献身な看護ぶりを見せていた事を話した。

平成10年の長野パラリンピックで両陛下が観戦されている時にウェーブが起き、美智子さまも参加された。この時の事を振り返り「ウエーブは、見るのもするのも初めてのことでした。不思議な波が、私たちの少し前で何回かとまり、子供たちが心配そうにこちらを見ておりましたので、どうにかしてこれをつなげなければと思い、陛下のお許しを頂いて加わりました」と語っていた。日本初の本格的な障がい者スポーツ競技会は1964年の東京パラリンピックが初だった。当時の日本は障がい者と一般社会は鉄の扉で仕切られているようなものだった。陛下はパラリンピックを東京大会でぜひ開催してもらいたいと話されていて東京パラリンピックの名誉総裁に就任された。大会期間7日のうち6日間、会場に足を運び選手だけではなくボランティアも激励された。出場した選手は「国民の障がい者に対する認識は大会前と比較にならぬ程高まった。革命といっても過言ではない」と話している。翌年から全国障害者スポーツ大会を開催した。

昭和51年1月、沖縄・伊江島に当時皇太子だった陛下が降り立った。熱心に話を聞きサトウキビ畑にも入られた。昭和19年、太平洋戦争の戦況が悪化したため栃木・日光へ疎開された陛下は終戦後、東京に戻って目にされたのは変わり果てた街の姿だった。昭和24年4月、15歳の時、原爆投下後の広島を訪問された。被爆した瓦を熱心にご覧になる陛下、そして初めて公の場で戦争について述べられた。戦争を繰り返さぬ事に対しての願いとして陛下は忘れてはならない日として6月23日の沖縄慰霊の日、8月6日の広島原爆の日、8月9日の長崎原爆の日、8月15日の終戦記念日を挙げた。昭和20年、本土防御最後の拠点として国内最大の地上戦が行われた沖縄に昭和50年、皇室として初めてご訪問された。当時の沖縄では皇室に厳しい感情を抱く人も少なくなかった。ひめゆりの塔を慰霊されたその時、1週間前から地下壕に隠れていた男がいきなり火炎瓶を投げつけた。陛下は予定を変えず慰霊を続けた。炎天下、汗も拭わず遺族の声に耳を傾けた。住民2人に1人が犠牲になった最大の激戦地の一つ・伊江島を陛下が初めて訪問されたのは火炎瓶事件から半年後。1000人近い警察官が厳戒態勢を敷く中で島の慰霊碑に花をたむけられた。その様子を見ていた島袋清徳さんは「火炎瓶なんか投げつけられて二度と来ないと思われてもおかしくないんですよ。ところがそれとは関係なく沖縄県民に対しての思いというのは忘れないでいこうと」と話した。慰霊を終えた両陛下は予定外のサトウキビ畑に入られた。

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NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
14:45~

昭和51年1月、両陛下が伊江島をご訪問された時に両陛下はサトウキビ畑を道路からご覧になる予定だった。しかし、突然畑の中に入っていかれた。この時、美智子さまとお話した宮里初枝さんは「あらこんなところまでいらっしゃると思って胸がドキドキしながらなんておっしゃるかねって。もう忘れません」と話した。宮里さんは思い切って「戦のない世の中にしてくださるようにお願いします」と訴えると美智子さまは「そうですね」とおっしゃったという。陛下は城山からの景色を眺め入りその思いを沖縄の短歌・琉歌にして詠われた。

陛下は琉歌をご自分で勉強されて作られた。平成7年、戦後50年の「慰霊の旅」。陛下は広島・長崎・沖縄・東京を訪問された。戦後60年にはサイパン、戦後70年にはパラオ・フィリピンを訪問された。渡邉氏によると、戦後50年で国内の慰霊の旅をなさり、この次は海外で慰霊をしたいとおっしゃり、南太平洋へという話に。しかし南太平洋は小さな島国が多く行くのが難しい、とときが経つうちにサイパンだけでも行かないかという話になり訪問、そこからパラオなどにも行き慰霊碑に死を悼まれた。

陛下のお言葉の中で、平成のこの時代は日本を度々大規模な災害が襲うと触れられていた。昭和34年に撮影された皇太子時代の陛下の貴重な映像。自衛隊機に乗り込んだ陛下。足元を見ると長靴を履いている。陛下が向かわれたのは5000人以上の死者・行方不明者を出した伊勢湾台風の被災地。これが初めての被災地訪問だった。しかし新聞に掲載された投書には、皇太子視察は考えものという声もあった。皇太子自らの希望で避難所を訪問。この時避難所に居た酒井さんは、当時とても驚いたと話す。

渡邉氏はサイパンに行った戦後60年は侍従長だった。渡邉氏は、両陛下の世代は子供の時の経験であれ戦争がどんなものか自分の体験として覚えている。しかし多くの人はそのような体験を持っていおらず、戦争の記憶というものを持っていない。陛下はそれを心配しておられていて、犠牲を払った経験を忘れないようにという願いがあるのではとのこと。

32年後、雲仙普賢岳で大火砕流が発生。この時陛下は美智子さまとともに天皇として初めて被災地へ。多くの人が身を寄せる避難所では膝をついて被災者に近づき声をかけられた。そのすぐ近くでは、立ち上る噴煙。未だ噴火が続く中での訪問だった。平成7年の阪神・淡路大震災ではわずか14日後に被災地へ。火災に見舞われた神戸市長田区の菅原市場。美智子さまはお持ちになったスイセンの花束を瓦礫の上に手向けた。神戸市で生花店を営む森本さんは当時その様子を近くでみていた。震災直後の菅原市場。じつはこの場所で森本さんは生花店を営んでおりまさにこの日改装中の店のオープン当日だった。しかし森本さんは美智子さまのスイセンの花束を見て頑張ろうと決意。その後10年以上をかけ店を再建した。平成12年伊豆諸島の三宅島が噴火。島は火山灰に覆われ住民約3800人が全島避難を余儀なくされた。そこでお二人は、東京・あきる野市や静岡・下田市などで避難生活を送る人々の元をご訪問。毎年励まし続けられた。そして平成17年、長く続いた避難指示が解除され三宅島への帰投が始まる。その翌年両陛下は三宅島へ。空港でお二人を出迎えたのが当時の三宅村村長・平野祐康さん。実はこの時ある問題が起きていた。このときもまだ火山ガスが大量に発生していた。

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NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
15:03~

三宅島の噴火から5年、島では火山ガスへの警戒が続いていたが、両陛下はガスマスクを携え三宅島を訪れ、島民はびっくりしたがその時期に来てくれたのが力になり復旧が早まったと元村長の平野祐康さんは語った。3年前島の外に避難中、三宅島の溶岩で作った鉢植えを陛下に贈った守屋廣次さんは、美智子さまに「頂いた溶岩鉢が緑になっております、陛下自ら手入れされているんですよ」と声をかけられたという。陛下は復興が進む島の様子を詩に残されている。また東日本大震災では、強行スケジュールも厭わず、宮城や福島など7週連続で被災者の元へ訪れている。陛下は去年最後の会見で「数多くの災害で数しれぬ人々が被害を受けたことに悲しみを覚える。その中で人々が助け合いの気持ちが育まれ防災の意識と対応が高まったことに勇気付けられる。また災害時の規律正しく対応する人々にいつも心打たれている」と語った。

渡邉允さんが侍従長を務めていた時期に新潟県中越地震が起こって、両陛下は早く被災者たちに会いたいという気持ちが強く感じていたが、実際に動くとなると地元にとって負担になると考え、2つのバランスがある日に合わせて訪れ、また訪れた場合は必ず日帰りで帰り、料理についても、被災者と同じものを食べていたという。両陛下は被災者に声をかけるのではなく被災者の声を聞きにいっていて、溜まったものを吐き出させるように癒やされていると牧嶋博子は話した。また、東日本大震災で被災した子どもたちに絵本を届けるプロジェクトがあり、美智子さまはそこに手持ちの19冊の絵本を寄付され、本を送った順番に最初は心温まる話、次は命の尊さを伝える話、最後は新美南吉全集を送られ、その中の「でんでんむしのかなしみ」は美智子さまが戦時中疎開先で出会った話で、「悲しみは誰でももっている」と気づいて生きていく話だという。本について美智子さまは、「子どもたちに安定の根とどこまでも飛べる翼を与えてくれる」と話している。

皇居からの中継、多くの人で賑わっている。皇居を訪れた人の中には手作りの平成と令和の書を持ってきている人もいてあたたかな雰囲気に包まれていた。

平成から令和へ 各地の表情

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NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
15:21~

平成最後の日となった今日、皇居前には多くの人が集まった。各地では「ありがとう平成」と銘打って様々なイベントが行われている。松屋銀座では平成31年にかけて31がつく価格の商品を販売、池袋の東武百貨店では平成にヒットした菓子の詰め合わせに行列が。東京中央郵便局には平成最後の消印を求めて多くの人が並んでいる。高畠町では子どもの手形や足形を記念に焼き物でつくるイベントが行われている。松江市の由志園では花で「平成」の文字を浮かび上がらせている。大船渡市では天皇皇后両陛下が訪問された際の思い出が語られた。トランプ大統領は天皇陛下の退位にあたり、「天皇皇后両陛下に心からの感謝を表明する」などとした声明を発表した。

伊勢神宮からの中継、朝から雨だが多くの人が訪れている。内宮には天皇家の祖先神とされている天照大神が祀られていて、天皇皇后両陛下も18日に参拝された。伊勢神宮では3時間ほど前まで記帳所が設けられ、10万人以上が記帳したという。きょうは日付またぎの参拝はできない。明日は午前5時から参拝できる。

宮内庁前からの中継。皇居では午後5時から退位礼正殿の儀が行われれる。退位礼正殿の儀では天皇陛下が国民に向けて天皇としての最後のお言葉を述べられる予定になっている。儀式には皇太子ご夫妻はじめ皇族方が参列、三権の長など国民の代表300人以上が出席される。天皇陛下はきょう午前、宮中三殿での儀式に臨み退位されることを報告した。

平成2年11月12日に即位礼正殿の儀と祝賀御列の儀を行いお祝いムードのある中、11月2日に連続爆破テロが発生、死者1人、負傷者7人を出す惨事になった。この年だけで皇室行事を攻撃対象とするテロが143件起きていた。

退位礼正殿の儀は午後5時から、渡邉允は「これでいよいよ平成は終わる、即位された時に朝見の儀があり、陛下はみなさんとともに日本国憲法を守り務めを果たしたいなどと語った」などとコメント。

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NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
15:34~

天皇がお言葉を述べられた平成のニュースをふり返る。平成7年3月20日、地下鉄サリン事件が発生し死者13人、重軽傷者6000人以上を出した。平成8年12月18日、天皇誕生日のパーティが行われたペルー日本大使公邸を武装ゲリラが襲撃、日本人を含む約600人を人質にとられた。強行突入の末、人質の死者1人、負傷者数十人を出した。平成13年9月11日、アメリカ同時多発テロが起き3000人以上の死者を出した。陛下はアメリカ大使館に異例の弔慰を伝えられた。平成14年9月17日、日朝首脳会談が行われ金正日総書記が日本人の拉致を認め拉致被害者のうち5人が帰国した。美智子さまは「拉致の真相の一部が報道され無念さを覚える。」などと回答。平成19年、消費期限切れの原料使用が発覚、全国で食品偽造が明らかになった。天皇は「国民全体が関心を持ち、安心して生活を営めるよう願っている。」などと述べた。

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NスタSP 平成最後の日 天皇陛下退位へ (ニュース)
15:44~

天皇がお言葉を述べられた平成のニュースをふり返る。平成22年7月29日、東京・足立区でミイラ化した遺体を発見。年金の不正受給で娘と孫を詐欺容疑で逮捕した。この事件で所在不明の100歳以上の高齢者が約23万人いる事が判明した。平成26年10月7日、3人の学者がノーベル物理学賞を同時受賞した。青色LEDの発明だった。平成26年12月19日の誕生日に際しての記者会見で最初に触れられたのはその発明だった。平成18年のリオデジャネイロ五輪で日本人選手が大躍進した。平成30年12月20日、陛下は天皇として最後の会見に臨まれた。

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