終りなき旅〜歌姫ひばり 最後の日記〜 2019年6月24日放送回

放送日 2019年6月24日(月) 1:55~ 2:40
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
01:55~

美空ひばりが重い病を抱えながら臨んだ最後のコンサートを開催した当時、直筆の日記に思いの丈を綴っていた。その足跡を歌手の加藤登紀子が辿る。

キーワード
美空ひばり
北九州ソレイユホール
加藤登紀子

終りなき旅〜歌姫ひばり 最後の日記〜 (バラエティ/情報)
01:59~

昭和62年4月、49歳だった美空ひばりは病に倒れた。大腿骨の一部は壊死し、肝硬変も発見され、2年渡る闘病生活が幕を開けた。当時をよく知るのが一人息子の加藤和也氏で、胸中を書き綴っていた日記を見せてくれた。自らの励まし、怒りや絶望、再び立つステージへの希望などが記されていた。美空が8歳の時、1万人が命を落とした横浜大空襲を体験し、加藤登紀子は「すべてをまざまざと見た人だから、めげないことというか、中途半端な甘さがない。そんな強さをひばりさんは持ってる気がする」と語った。

美空ひばりの父は鮮魚店を営み、歌が好きだったひばりは店先で歌声を披露して客を呼び込むこともあった。時には自宅の窓を明け、歌声を響かせたという。さらに地元の劇場にも立つようになると、大手レコード会社と契約を結んだ。華々しいキャリアの裏でメディアには格好の標的とされ、昭和40年代後半は親族問題でTV番組に出演できない日々を送るなど、不遇の時代を過ごしていた。加藤は「ひばりさんは社会に熱烈な歓迎を受けると当時に逆風にさらされる場面もいっぱいあったと思う」と話した上で、反骨心のようなものが美空ひばりの歌を形成していたと思うという。

美空ひばりの曲「さくらの唄」の作詞を手がけたなかにし礼氏も当時、親族の借金問題に悩まされていた。親族の問題を抱えていた美空ひばりの心境と歌詞が響き合ったところもあるといい、なかにし氏は「弟のことも自分のこととして背負い込む、そういう人だから」と回想した。

加藤登紀子は美空ひばりの曲「さくらの唄」を披露した。

昭和の終わりに美空ひばりは重い病に倒れても音楽と向き合い、子息の加藤和也氏によると、病床にも音楽関係のものを置き、音楽と離れようとしなかったという。日記には待ってくれている人々への思いが綴られ、退院後の会見ではもう一度、歌いたいという信念を語っていた。昭和63年4月には東京ドームのこけら落としのコンサートが開かれ、美空はオープニングで新曲「終わりなき旅」を披露した。作詞を手がけたなかにし礼氏は退院直後の美空ひばりの心境を聴き、書き上げた。エネルギッシュに活動していくとは思えず、死を意識してゴルゴダの丘をのぼるキリストを思ったという。なかにし氏は「彼女が死んでも歌うだろうと思いを込めて書いた」と明かした。

昭和64年1月7日、昭和天皇が崩御。美空ひばりは日記に新たな時代を迎える心境を綴っていた。その後、全国ツアーがスタート。だが、美空は病魔に蝕まれ、福岡でのコンサートの途中、親交のあったチャーリィ脇野氏に「長い付き合いだったわね」と語りかけたという。時をおかずに緊急入院することになった美空は日記に無念の気持ちを記していた。子息の和也氏は引退を提案したところ、美空は激怒。美空ひばりという歌手をやめることはできなかったという。

平成元年3月、美空ひばりは都内の病院に入院。肝硬変に加え、呼吸困難になる間質性肺炎が見つかった。日記には好きだった歌が苦痛になってきた、二度とファンの前で歌うことはないだろうといった心境が記され、和也氏は音楽を聞くよう勧めても聞きたくないと言われたのは初めてだったという。そして、最後の2か月で残そうと思ったのは日記の方だったのかもしれないと考える。平成元年6月24日、美空ひばりは永眠。歌い手として貫いた人生だった。

美空ひばりにとっての原点である杉田劇場で、加藤登紀子は美空ひばりの「終りなき旅」を披露した。

キーワード
美空ひばり
済生会福岡総合病院
肝硬変
目黒区(東京)
横浜市(神奈川)
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磯子(神奈川)
杉田商店街
杉田劇場
さくらの唄
東京ドーム
終わりなき旅
小倉(福岡)
北九州ソレイユホール
さよならの向うに
間質性肺炎
終りなき旅

エンディング (その他)
02:38~

エンディング映像。

番組宣伝 (その他)
02:39~

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  1. 6月24日 放送