天皇 運命の物語 2019年4月29日放送回

放送日 2019年4月29日(月) 13:05~14:20
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
13:05~

敗戦国の皇太子として、苦難の日々を過ごした少年時代。激動の戦後日本に向き合い続けた青年時代。そして時代は平成へ。天皇、運命の物語。象徴とはなにか問い続けられた天皇陛下の30年。挑戦と苦悩の日々を側近たちが語った。日本中が驚いた退位の意向。決断までの舞台裏が明らかになった。オープニング映像。

キーワード
平成
天皇陛下
退位

第三話「象徴 果てなき道」 (バラエティ/情報)
13:07~

物語は父の死から始まる。昭和64年1月7日、皇居の吹上御所でお亡くなりになった昭和天皇。新しい天皇には皇太子明仁親王が直ちに即位された、と報じられた。昭和天皇の崩御から3時間あまりで剣璽等承継の儀に望まれた。天皇陛下はこの時55歳だった。憲法で天皇は国と国民の象徴とされていて、国事行為以外に決められた務めはない。戦前、君主であり神聖な存在であった昭和天皇。一方、初めて象徴として即位された天皇陛下。新しい時代に天皇はどうあるべきか、模索が始まった。当時天皇陛下はどんな事を考えていたのか。それを知るのが、皇太子時代から側近を務めた手塚英臣さん。手塚さんは、天皇陛下は「新しい物事を新しい角度から検討して、よく考えながらこれからはやっていこう」という趣旨のお言葉を伺ったことがある、と話す。天皇陛下の発想の転換の一つが目線の高さ。例えば車は、昭和天皇の車よりも座席の高さが約20cm低いもので国民との距離を縮めたいという願いが込められていた。人に会い、話に耳を傾け、心を寄せることを大切にされた。これこそが象徴としての大切な務めと考えられた。国民に掛けられるお言葉も大きく変わった。

平成5年、天皇に即位されてから初めての沖縄訪問。皇太子時代にも5回訪れ、想いを寄せ続けられてきた。戦没者の遺族を前にしてのお言葉では、自らの思いを6分間、原稿を持たずに述べられた。天皇陛下は皇室に対するイメージを大きく変えられた。国民とのふれあいを大切にされた。こうしたスタイルは一方で反発も生んだ。この頃、皇室を批判する記事が度々掲載された。昭和天皇との時代に、宮内庁の職員たちも戸惑いを覚えていたという。元侍従次長の手塚さんは「新しい陛下はあそこまでなさらなくてもいいんじゃないかというような意見を持つ人もおりましてね、宮内庁の中が当時は一枚岩になっていなかったように思いまして」などと語る。

平成4年、中国の万里の長城で撮影された写真。歴代天皇で初めての中国訪問。象徴としての役割が問われる旅となった。この9カ月前、メディアが中国訪問の計画を報じた。中国にとって天皇の訪問は長年の悲願だった。日中平和友好条約の締結後、最高実力者・トウ小平は昭和天皇に訪問を要請したが叶わなかった。当時の中国外務省次官の徐敦信さんは「天皇陛下をご招待したのは、日中両国の友好関係をさらに強固にし発展させたかったから」等と話した。しかし日本国内では反対の声が上がる。天皇陛下が過去の戦争について謝罪を求められるのではないかとの懸念があった。この3年前に起きた天安門事件により、中国は国際社会から孤立していたという中国政府への不信感もあった。國學院大学名誉教授の大原康男さんは、中国訪問には政治的な課題が多すぎると考えていた。

反対論がくすぶる中、政府は中国訪問を正式決定した。天皇陛下はどんな思いで望まれようとしていたのか。訪問直前、天皇陛下はお住まいに当時の駐日大使、楊振亜を招いた。天皇陛下はこの時訪問にかける意気込みを「日本と中国は隣の国であり友好関係の強化はとても重要、今回の訪問で両国の友好関係を深められると信じている」などと語られたという。当時の内閣官房副長官の石原信雄さんは、当時の天皇陛下の思いを「お隣の中国、一番近い文化的にも長い歴史のある中国との関係がそのままで良いのだろうかというお気持ちはお持ちだったようですよ」などと語った。

そして平成4年10月23日に歴史上初めて、天皇陛下が中国の地を踏んだ。最高レベルの警戒態勢を敷いていた中国政府。天皇陛下の車列は厳重に警備されながら北京の町を走り抜けていった。夜、人民大会堂で当時の国家主席・楊尚毘ら要人が出迎えた。天皇陛下のお言葉に注目が集まっていた。天皇陛下は少年時代にエピソードから語り始めた。そして戦争について「我が国が中国国民に対し多大な苦難を与えた不幸な一時期があった」「これは私の深く悲しみとするところであります」などと述べられた。当時の中国外務省次官の徐敦信さんは、陛下がお話をされた後、その場は穏やかで友好的な雰囲気だったという。この訪問に同行した元外務省アジア局長の池田維さんは、会場の雰囲気に安堵したという。

中国を訪れる要人が案内される万里の長城。ここでも天皇陛下の行動は強い印象を残した。当時の中国外務省次官の徐敦信は、両陛下は興味津々で、他の国の首脳よりも高いところまで登られたという。

天皇陛下にはこの度で実現したいことがあった。平成4年10月28日に上海郊外の1軒の農家を訪ねられた。当時天皇陛下と話をした朱海良さんに会うことができた。日本の軍国主義について教育を受けてきた朱海良さんは、それまで天皇には怖いイメージを持ってきたという。「あの時は日本の軍国主義が過去に中国を侵略したことを思わずにいられなかった、しかし天皇陛下の優しさに触れ、不幸な歴史はもう二度と起きないだろうと思った」と話した。あれから27年。見渡す限りの水田はビルや工場に姿を変えた。しかし天皇陛下と言葉をかわしたときの思い出は、今も朱さんの思い出に残っている。30万人の市民が天皇陛下を一目見ようと詰めかけ、車の速度を10キロ以下に落とし、市民の応えられた。国内で賛否が分かれた中での中国訪問。元外務省アジア局長の池田維さんは、後に天皇陛下から「自分の中国訪問は良かったと思いますか」と聞かれたといい、陛下に行っていただいたことは良かったと思いますと答えたという。戦争のあった国に陛下が行かれるということについて特別の難しさと重要性があるということだと思う、これは重要な国花行事で政治家にはできないことだろうと思っている、と語った。

今年1月16日 歌会始で読み上げられた「贈られし ひまはりの種は生え揃ひ 葉を広げゆく 初夏の光に」という天皇陛下の歌は、阪神・淡路大震災の被災者から贈られたひまわりの種が、御所の庭で成長していく様を読まれたもの。当時、戦後最悪と言われた大震災。天皇陛下にとって大きな試練だった。犠牲者6434人の未曾有の大災害。象徴として何ができるのか。天皇陛下は一つの決意を固められる。出来るだけ早く被災地を訪問したいと現地との調整を指示された。兵庫県との協議で1月31日、災害発生からわずか2週間になった。当時の宮内庁総務課長・坂東自朗さんは、被災地に随行する人数をわずか5人に絞ったことについて、両陛下のご意向だと思う、現地に負担をかけないようにというご意思があったのでは、と語った。当時の兵庫県知事公室次長の齋藤富雄さんは受け入れ体制を作るよう命じられた。「両陛下をお迎えするというのは、1年ぐらいかかって準備をする、それを1週間でできるだろうか、その状況で非常に不安に思った」と語る。復旧活動を妨げてはならないということで齋藤さんは宮内庁にバス1台でどうかという異例の提案をした。1月31日兵庫県西宮市で天皇陛下を迎えた斎藤さんは、これまで見たことのない天皇陛下の装いに驚いた。心身の疲れがピークに達した被災者の元へ。歩み寄り膝を付き、悲しみや苦しみに寄り添う。斎藤さんは、前年の全国植樹祭で感じた陛下はそれはもう、天皇皇后さま本当に雲上人として近づきがたいといいますか、しかし、あの震災の行幸啓を契機に私は、天皇皇后両陛下を国民のひとりとして身近に感じたと思う、と語った。どんなときも国民とともにある、天皇陛下の目指される象徴のあり方がはっきりと形作られた。

皇太子さまと小和田雅子さんが結婚。孫が相次いで誕生。皇太子ご夫妻にも愛子さまが誕生。相次ぐビッグイベントにも足を運ばれた。サッカーW杯 日韓大会では韓国大統領と決勝を観戦された。即位10年を祝う式典には2万5000人が訪れた。

平成30年12月、天皇として最後の記者会見。語られたのは、一貫していだき続けてきた平和への思いだった。陛下は「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに心から安堵している」などと述べられた。幼い頃、戦争がもたらす悲劇を目の当たりにされた天皇陛下は、この記憶を忘れてはいけないと心に誓われてきた。戦後50年、天皇陛下は慰霊の旅を始められた。激しい地上戦が行われた沖縄。原爆で多くの犠牲者が出た広島・長崎。そして大空襲を受けた東京で祈りを捧げられた。慰霊の旅への思いは更に広がり、天皇陛下は太平洋の島々を訪れたいと考えられた。天皇の名の下で行われた戦争で、本土防衛の要として、アメリカ軍と激しい戦闘が行われたペリリュー島の戦い。元侍従長の渡辺允さんは「海外で命を落とした戦没者というのはたくさんいるわけですから、それに対しても慰霊をなさりたい」などと天皇陛下の思いを聞いていた。慰霊のために外国を訪問されるのは初めてのことだった。どの島なら訪問できるかを数年に渡り検討した結果、サイパンに決まった。平成17年、サイパンで天皇陛下は元日本兵と面会された。どのように激戦を生き延びたのか、戦友がどのように死んでいったのか。話に耳を傾けられた。追い詰められた日本兵は、天皇陛下バンザイと叫びながら、バンザイ・クリフで身を投げた。悲劇が二度と起きないように、天皇陛下は静かに頭を下げられた。

そして天皇陛下が次に向かわれたのは、韓国出身者の「太平洋韓国人追念平和塔」という慰霊碑。深く一例をされた。事前には公表されていなかった。訪問に同行した川島裕さんは、この慰霊は天皇陛下の希望だったという。現地の人々や、アメリカ人戦没者の慰霊碑にも向かわれた。すべての人を慰霊したいというメッセージだった。天皇陛下にとって慰霊の旅とは何だったのか。川島裕さんは「心の思い旅でした、というのが確か」「国際親善で赴かれるのとは全然違う、まさに悲劇に向き合う訪問だったわけですから、そこが通常のこれまで各国に国際親善で色んな所に旅行されたのとは全然違う旅だったと思う」と語った。

即位から20年。天皇陛下は75歳になられていた。孫の悠仁さまと団らんのひとときを過ごされた天皇陛下。この頃、老いや病と向き合われていた。天皇陛下は平成15年に前立腺がんの摘出手術を受けられた。東京大学医学部附属病院の皇室医務主管は、予定通りの手術ができ成功裏に終わったと発表していた。その後も薬による治療が続けられていた。元侍従長の渡辺允さんは、陛下の発言から「自分の体は公のものであって、自分だけのものじゃない、という事になるんだと思う」と語った。この頃、宮内庁は天皇陛下に公務の大幅な削減を提案していた。しかし天皇陛下はその多くを拒まれた。平成22年夏、大きな衝撃が走った。御所の応接室に両陛下を始め側近らが集められた。その冒頭、天皇陛下が「80歳までは象徴の務めを果たすが、その後が皇太子に譲位したい」などと述べられたという。会合に出席していた元参与の三谷太一郎さんは、凍りついたような雰囲気になったと明かす。天皇陛下の提案に出席者は翻意を促した。象徴としてお努めは皇太子殿下にお引き受けいただき、陛下はあくまでも皇位におとどまりいただくという形にできないものだろうか、というのが多数意見であったとという。しかし天皇陛下の決意は固かった。さらに「象徴の務めを果たしていく上での判断力の衰えとか覚悟しなければならない」というお気持ちを聞いたといい、生前退位という扉が閉ざされているなら、前途が暗いと漏らされたようなことがあったという。深夜会合が終わり天皇陛下が席を立たれたが、出口付近で向き直り、再び退位の意向を話されたという。

会合から8ヶ月後の平成23年3月11日。東日本大震災が発生し、皇居周辺も大きく揺れた。侍従長だった川島裕さんは、陛下のもとに参上したときには皇后陛下はお帰りになっていて、陛下はどんな地震のときでもテレビを付けられるが、一緒にテレビを眺めることになったという。テレビに映し出されたのは東北地方の沿岸が巨大な津波に飲まれる映像だった。翌日、東京電力 福島第一原発が爆発。国民の不安はピークに達していた。3月14日の夜、御所で側近や参与が集まる会合が開かれた。被害の全容がつかめず、すぐに被災に行くことは難しかった。自分の思いだけでも国民に伝えられないか。地震発生から5日後。テレビカメラを通じて語りかけられた。この時川島裕さんは「おことばの放送に際しても緊急性のあるニュースがあったらそれは途中で止めてそっちを優先するようにということを陛下からのご指示で直ちにメディア側に伝えて」と語った。震災発生から約50日。東北の被災地へのお見舞いが実現した。原発事故の避難者が居る東京・埼玉・関東の被災地から、東北へ。77歳の天皇陛下のお見舞いは7週連続に及んだ。

天皇陛下が退位の意向を口にされた、あの会合から5年。戦後70年節目の全国戦没者追悼式に望まれたときのことだった。中央に進み一礼されたその後、予定ではお言葉は黙祷の後だったが、先にお言葉を読み上げ始められた。この時、天皇陛下は81歳になられていた。そして、退位の意向を国民が知ることになった。平成28年8月8日、天皇陛下はテレビで退位の意向を国民に伝えた。川島裕さんはおことばでは全身全霊というそれができなくなったら、半分に減らすとかいうようなことはなじまないので、それは象徴の地位を去るべきである、と推察した。元侍従次長の手塚さんは「よくねここまで真心こめて国民のためにお尽くしになった、本当に涙が出るほど強く感じました」と話した。在位30年 記念式典で天皇陛下は「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが次の時代、更に次に時代と象徴のあるべき姿を求め先立つこの時代の省庁像を補い続けていってくれることを願っている」と述べられていた。象徴の一つのあり方を刻み、退位される。

キーワード
剣璽等承継の儀
昭和天皇
天皇陛下
沖縄県
宮内庁
万里の長城
日中平和友好条約
トウ小平
皇后陛下
天安門事件
中国
中国外務省
楊振亜
人民大会堂
楊尚毘
上海(中国)
歌会始
阪神・淡路大震災
西宮市(兵庫)
全国植樹祭
皇太子さま
小和田雅子さん
秋篠宮眞子さま
秋篠宮佳子さま
愛子さま
皇后さま
長野オリンピック
長野パラリンピック
サッカーW杯 日韓大会
美智子皇后
第二次世界大戦
ペリリュー島の戦い
サイパン
バンザイ・クリフ
太平洋韓国人追念平和塔
葉山町(神奈川)
悠仁さま
東日本大震災
全国戦没者追悼式
生前退位
在位30年 記念式典

エンディング (その他)
14:17~

エンディング映像。

NHKオンデマンドで配信します。ご案内はdボタンで。

キーワード
NHKオンデマンド
dボタン

番組宣伝 (その他)
14:18~

NHKスペシャル 日本人と天皇の番組宣伝。

NHKスペシャル 平成最後の晩餐の番組宣伝。

皇后四代 思いは時を超えての番組宣伝。

もう一度見たい!平成のスポーツ中継の番組宣伝。

連続テレビ小説なつぞらをより深く親しんでもらうため、NHKでは撮影の舞台裏を密着取材し、放送期間中、毎日公式SNSで発信している。NHK広報局制作部の石崎さんは素の感じをお伝えすることで見応えのあるSNSをつくれたらなどと話した。

あなたが主役50ボイスの番組宣伝。

26歳の乳がんダイアリーの番組宣伝。

NHK、BS4K・BS8Kのプロモーション映像。

キーワード
広瀬すず
十勝(北海道)
連続テレビ小説 なつぞら
NHK BS4K
NHK BS8K
  1. 前回の放送
  2. 4月29日 放送
  3. 次回の放送