天皇 運命の物語 第1話「敗戦国の皇太子」

放送日 2019年3月3日(日) 15:05~16:20
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
15:05~

天皇陛下は11歳だった時に疎開先で玉音放送を聴き、目いっぱいに涙を浮かべたという。陛下は来春、退位を迎えられる。貴重な映像と証言をもとに天皇皇后両陛下の激動の歳月を4回シリーズでお送りする。

キーワード
天皇皇后両陛下
昭和天皇
玉音放送

第一話 敗戦国の皇太子 (バラエティ/情報)
15:09~

昭和天皇と香淳皇后の間に初めての男子が誕生し、人々は歓喜に湧いた。「皇太子さま お生まれなった」という曲も作られたほどだった。戦前、昭和天皇は現人神で、国と統治する君主であり、陸海軍を率いる大元帥だった。当時、日本は軍国主義に染まりつつあった。皇太子は神の子として特別な環境で養育され、3歳で両親の元から離された。親代わりとなったのは側近たちで、家族と会えるのは週1回、わずか数時間だけだった。6歳になると学習院初等科に進学。当時の同級生とは80年近く経った今もクラス会を開くなどして、交流している。幼少期から高校まで共に過ごし、今も面識がある明石元紹氏曰く、皇太子は行儀がいい方ではなく、姿勢が悪かったり、答えに窮していたりすると、侍従に窘められていたという。また、森田茂昭氏は言葉を交わすことが難しいほど遠い存在だったと話す。

1941年12月8日に真珠湾攻撃に踏み切り、太平洋戦争が始まった。翌年にはシンガポール陥落を祝う祝賀行事が開かれ、皇太子は母の香淳皇后と並んで出席。この頃から戦意高揚としての役割を担わされ、軍施設を見学する様子などが報じられた。だが、日本軍はミッドウェー海戦で大敗を喫し、皇太子は同級生らと日光、奥日光へと疎開。東京が空襲を受けたことを心配する手紙を送ったところ、昭和天皇から返信があった。1945年8月15日、玉音放送が流れ、皇太子は目一杯に涙が溢れたという。1999年のインタビューで、天皇陛下は「私は戦争の無い時を知らないで育ちました」と話している。9月、昭和天皇から送られてきた手紙には敗戦についての自らの見解が記されていた。終戦から3ヶ月、疎開先の日光から東京へ帰る列車で、皇太子らは焦土と化した光景を目の当たりにした。

日本を占領したアメリカなどの連合国、徹底した民主化政策を行う。昭和天皇は人間宣言を行い、現人神であることを自ら否定した。戦後の市民の生活は混沌を極め、天皇への批判を口にする人も現れた。日本国憲法公布の11月3日された。天皇は神から人となり、そして象徴となった。昭和天皇は全国各地を周り、苦しむ国民と向き合った。

当時の天皇家を映した写真を紹介。天皇のあり方が変わる中、皇太子のあり方も変わった。皇太子学習院中等科への入学を伝えるアメリカの放送を伝えた。日本の民主主義に向けての大きな一歩と伝えた。皇太子にどのような教育をすべきか、側近たちの資料が見つかった。意思教育、情操教育を、同年輩の友人と接触することが大切と記録していた。学習院中等科教諭の江本義数氏の音声が残され、皇太子は指示を出してばかりだった。最初は黙ってみていたが、ある学生が直言してくれていいことを言ってくれたと記憶しているとコメントが語られた。しかしすぐに姿勢は変わらなかった。皇太子に衝撃を与えた教師として、エリザベス・ヴァイニングが教えることになった。昭和天皇の希望で来日した。最初に英語の名前を付けることになったという。森田茂昭さんはアンドリューと名付けられたと振り返る。皇太子はジミーと名付けられたという。皇太子は名前を受け入れた。エリザベス・ヴァイニングは皇太子殿下にとってよいご経験になるだろうと考えたと振り返る。

皇太子と同級生の距離は少しずつ縮まったという。高等科に進学すると寮の生活が始まった。布団の上げ下げは自分で、食事は寮生と一緒に行ったという。織田雅雄さんは当時の皇太子との会話を振り返り、頑固だった、あまり議論はしなかったと振り返った。同級生の明石さんは皇太子が変わったと思うエピソードがあったという。馬術部でのキャプテンを命じられた皇太子は試合ではおとなしい馬を乗るようにしていたという。しかしある試合で、皇太子自らが、キャプテンらしい難しい馬に乗せてくださいと言ったという。皇太子は気性の荒い馬を乗りこなし優勝したという。

「I shall be the Emperor」皇太子が将来何になりたいかと問われる授業で答えたという。小泉信三は天皇に必要な資質を徹底的に教えた人物。戦時中で顔をやけどを負い、息子を戦地で失ったという。週に1度皇太子へ授業を行ったという。新しい憲法に定められた象徴天皇で、天皇のあり方を学ぶ為、小泉の選んだ本を音読したという。連日自習室で遅くまで学んでいた姿を織田さんは見ていたという。

敗戦から7年経過後日本は独立を回復。国際社会の復帰を果たし、各地で日の丸が溢れた。18歳になった皇太子は、立太子の礼に臨んだ。国民の前に立ち、お言葉を述べられた。エリザベス・ヴァイニングは既に帰国していた。成長した皇太子の門出にラジオを通じて、メッセージを述べられた。皇太子には日本のあすの象徴と国民の期待がかけられるようになる。

平成24年、天皇皇后両陛下はイギリス・ウィンザー城を訪問。エリザベス女王の在位60年を記念した昼食会に招かれた。これまで7回イギリスに訪れた。19歳のときにエリザベス女王と撮影した写真。エリザベス女王の戴冠式での訪問は最も印象に残った出来事に上げられている。

エリザベス女王の戴冠式で、昭和天皇の代わりで出席された皇太子に多くの人が見送りに詰めかけた。出発の様子はNHKの放送でも生中継された。港には吉田茂首相もいた。皇太子の旅は半年ほどの計画。アメリカを訪問し、アメリカ大陸を横断し、イギリスへ、ヨーロッパを周り再び舟でアメリカから戻る。乗り合わせた客と共に船旅を楽しまれたという。しかしイギリスでは日本の皇太子の訪問を反対する声も挙がっていた。戦時中に日本軍は多くのイギリス人捕虜へ過酷な労働をさせたという。戦争捕虜記念館では記録映像や資料が展示させている。遺族は日本軍の虐待が発覚すると怒りがこみ上げたという。皇太子の訪問を反対する記事は次第に大きくなっていたという。日本は急遽朝海浩一郎を皇太子のもとに派遣。4月27日夜11時、皇太子を乗せた舟はイギリスへ到着。深夜にもかかわらず多くの報道陣が訪れたという、

戴冠式に傷が付くということでウィンストン・チャーチルが動いた。ポツダム宣言を突きつけた政治家。チャーチルは皇太子とともに反対派の記者団のオーナーなどを食事会に招いた。そこで予定に無かったスピーチを行ったという。チャーチルは立憲君主制を通じたスピーチを通じたという。イアン・ニッシュ教授は反対派を抑えるだけでなく皇太子に王室の役割を伝えたかったのではと分析。皇太子は側近を通じて、チャーチルに感謝を伝えたという。このあと反対運動は徐々に収まった。イギリスの旅へ、戦争により荒廃した国土から訪れた者として、訪問した多くの国の人々が豊かに生活していることに胸をつかれそのことが深く心にのこりましたと振り返ったという。エリザベス女王の戴冠式の様子が伝えられ、皇太子が国際社会復帰の務めを果たした様子を伝えた。チャーチル首相のかけた言葉が紹介され、皇太子へ若いことは幸運であり、自分が思ったことを実現できる人生を歩むことができる。それが望むことと伝えたという。

イギリスのピクチャー・ポストで、皇太子が訪問中に単独取材を行った雑誌の記事が残っていた。皇太子のクローズアップが記載されていた。当時撮影を行ったカメラマン、ジョン・チリングワースさんを取材。撮影場所に指定された日本大使公邸を訪れたという。しかし側近により脇に追いやられたという。撮影が無理かもしれないと思ったが、自らカメラの前に立ったという。自己中心的ではないが、自分なりの考えを持っていたと振り返る。自然な姿を撮りたいという要望にも応えたという。

イギリスを去る3日前に、エリザベス女王から、戴冠を記念したダービーを一緒に観戦しませんかと誘われた。以来60年以上親交が続いている。皇太子の最後の仕事は天皇陛下への報告。天皇陛下はご苦労さまと労ったという。小泉信三は旅に同行し、御結婚を考えるべきと記していたという。明日は世紀のご成婚を伝える。

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昭和天皇
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チャーチル首相
ポツダム宣言
皇太子殿下
日本大使公邸
エプソム競馬場

エンディング (その他)
16:17~

エンディング映像。

番組宣伝 (その他)
16:18~

「天皇 運命の物語」の番組宣伝。

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