生と死に向き合った105年〜追悼・日野原重明さん〜 2017年7月29日放送回

放送日 2017年7月29日(土) 1:55~ 3:20
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
01:55~

医師の日野原重明さんが、今月18日に105歳で死去。医師として生涯現役を貫いた。末期がんの終末期医療に取り組んだほか、88歳で「新老人の会」を立ち上げて高齢者の社会貢献を呼びかけた。小中学校では命の大切さを説く「いのちの授業」を行った。

キーワード
日野原重明さん
がん
終末期医療
新老人の会
いのちの授業

生と死に向き合った105年〜追悼・日野原重明さん〜 (バラエティ/情報)
01:57~

日野原重明さんについて、ゆかりのある作家の落合恵子さん、医師の福井次矢さんを招いた。落合恵子さんは元気なお年寄りを表彰する企画に参加したといい、老人は人生の下降期にあるという従来の考え方を自らの生き方で覆したと答えた。福井次矢さんは医師としての出発点で影響を受けたといい、医師を目指すつもりはなかったが2年間の研修を通じて生きざまにひかれた、当時あまり重要視されなかった患者への配慮に特に感銘を受けたと答えた。

この時間は「NHKスペシャル」から、日野原重明さんの生前の活動に密着した映像を紹介する。

100歳になるまでの1年に密着した2011年放送のNHKスペシャル「日野原重明 100歳 いのちのメッセージ」。

日野原さんが理事長を務める聖路加国際病院。日野原さんは今も緩和ケア病棟で末期がんの患者を診察し、主治医に指示を与える。この日診察したのはがんが転移して苦しんでいる患者。福井修平さんは会社社長として腕を振るっていた7年前に膵臓にがんが見つかる。肺に転移しマスクによる酸素吸入と点滴を続けていた。こうした処置が体力維持につながる一方で福井さんの生きる力を奪うのではないかと日野原さんは考えた。日野原さんは福井さんの酸素マスクを外して肺の機能を確かめた。日野原さんは福井さんの手を握った時に福井さんの内に秘めた力を感じたという。

日野原は、酸素マスクと点滴に頼っていた福井さんを訪れると、あの日以来がらっと変わりメロンジュースを飲めるようになったという。福井さんの長女も出産を控え、待望の初孫となる。患者との向き合い方を考える切っ掛けになったある出会いがあるという。京都大学医学部で初めて16歳の少女の患者を受け持った際、母は見舞いに来ず働いているという。少女は重症の結核性腹膜炎を患い、ある日曜の朝、嘔吐を繰り返し血圧が下がった少女が重症室に移された。死を受け止め別れの言葉を口にする少女に、何度も強心剤を注射したが、二度と心音を捉えることはできなかった。日野原さんは、安心して天国に行きなさいと言えなかったこと、手を握らなかったことを悔やんだ。これ以来、日野原さんは終末期医療に関心を持つようになった。平成5年には、ホスピス専用の病院を作るなど、終末期医療を開拓し、患者が家族と心を通わせながら最期を迎えられるよう願った。日野原さんは、意識がまったくなくなると感謝の言葉がでないため、死んでいく自分が分かる意識があれば、心で話すことができると語る。

明治44年日野原重明が生まれた。昔話の金太郎に似ていると、ついたあだ名は金時さんだった。それから100歳を迎えた日野原さんに密着取材。100歳でも、サッカーのセーブをするなど元気な様子を見せていた。全国の子どもたちに命の大切さを伝えている。今も現役医師の日野原さんは末期がんの患者さんの命を見つめていた。患者さんが家族と心を通わせながら最期を迎えることができるよう支える。そして100年の人生を揺さぶった事件が、妻・静子さんの病。静子さんは日野原さんにとって大きな影響を与えた特別な存在だ。命と向き合い続けた1年間の記録を伝える。

9月。初孫の誕生を楽しみにしていた福井さんの病状が悪化した。励ます日野原先生。待望の初孫が生まれ、腕に抱ける日を楽しみにしていると福井さんはいう。何ができるか考える日野原先生。300-400キロカロリーをとっているという。800くらいいきたいと日野原先生はいう。点滴で栄養を追加する日野原先生。赤ちゃんの結婚式までがんばらないといけないと励ます日野原先生。その後、福井さんは急変し、静かに息を引き取った。別れを告げる日野原先生。安らかにといい、よく頑張ったという。日野原さんは、しずこさんの病室へ通い続けた。流動食がとれるようになっていた。しずこさんの言葉を聞き取ろうとする日野原先生。妻を自宅につれて帰ったほうがいいのか、病院で命を長らえたほうがいいのか。どちらがいいのか考える日野原先生。ともにいることが、少しでも長ければいいと思いながらも、覚悟はしようとしていると語った。ふやすなら微笑みのしわを。この言葉が好きだと言っていたオオタミキさん。9月上旬、苦しむことなく静かに亡くなった。

2010年10月、取材は日野原さんの99歳の誕生日から始まった。日野原さんはこの日の思いを「100歳のバーを目指して身をかがむ」と俳句で表した。老いという感覚がないことに不思議な気持ちとも述べていた。ある日の朝、日野原さんの支度を、次男の妻・眞紀さんが手伝っていた。日野原さんの元気の秘密は特製の朝食で、ジュースにオリーブオイルを入れて飲んでいた。これは動脈硬化、心臓病を防ぐという。また、牛乳の中にレシチンという大豆からとった、脳の細胞を作るという成分を入れて飲んでいた。また、あと10年は仕事を続けられる体でいたいと、健康チェックも受ける。体力は80歳並み。しかし、筋力が低下していて、足の伸展や歩行速度が落ちているということもわかった。そこで早速筋力トレーニングを始めた。どんなに歳をとっても、人は成長できるというのが、日野原さんの哲学だ。

日野原さんは5月の宮城県南三陸を訪れた。公立志津川病院では73人が命を落とした。日野原さんは津波の最中にいるような大きなショックを受けたなどと話す。仮設の診療所で医師の話を聞いた後避難所を訪れた。日野原さんはそこで避難生活を送っていた人々と会話をし、100歳をこえても仕事をすることで被災者たちを元気づけようと決意した。

「ふやすなら微笑みのしわを」という言葉が好きだったみきさんは苦しむことなく静かに息をひきとった。みきさんの夫・雅之さんが日野原さんの元を訪れ、奥さんが書いた日野原先生に送るお返しの句が渡された。それはみきさんが病室でつけていたノートの最後のページに「日の原の陽を受けて暖かく命輝く」と綴られていた。さらに雅之さんが大切にしているみきさんの写真は満面の笑顔で、日野原さんの診察のあと撮影したものだという。日野原さんに励まされ笑顔を残して亡くなったみきさん、そしてその笑顔に救われたという雅之さん。日野原さんは雅之さんとがっちり握手をして「あなたの笑顔も良いよ」と語りかけた。

8月。夏に入って気がかりなことが出てきた。しずこさんの体調が優れず、ベッドから起き上がれなくなっていたのだ。しずこさんは認知症に加えて肺の病気を抱えて年々悪化していた。取材が始まって10か月になろうとしている日の深夜、日野原さんははじめて不安な胸の内をあかしてくれた。帰ったよと手を握れない家に帰ることの恐ろしさや不安を感じ始めたという。そろそろ自分の覚悟を準備しないといけないのかな、死の足音が自分の頭の中に感じながらいるなどと話す。100歳を前に日野原さんの心は不安に揺れていた。

日野原さんは年に100日以上東京を離れ、全国を周り、様々な活動をボランティアで行う。広島市立皆実小学校では、いのちの授業を1時間立ちっぱなしで行う。いのちとは1人1人に与えられた時間であり、自分だけでなく人のためにも使ってほしいと訴える。全国各地で開いたいのちの授業は170回を超える。3月1日、授業から帰った日野原さんの様子が急変、2日前にインフルエンザで39度の高熱を出していたが、それでも次の世代を作る人が必要だという使命感に講演に向かったという。

この使命感は、ある事件がきっかけだったという。昭和45年、日野原さんはハイジャックされた飛行機に偶然乗り合わせていた。恐怖の中で4日間を過ごし、助かったあとには、なくしたはずの命を再びもらった思いが溢れ、経験したことのない謙虚な気持ちになり、これからの人生はすべて与えられた命であると感情が湧いてきたという。与えられた命をどう過ごせばよいのか、道を示してくれたのは妻の静子さんだった。日野原さんが送った礼状には、どなたから受けた大きなお恵みの一部でもお返しできればと願っていると加え、これからは与えられた命を広く社会のために使ってほしいと日野原さんに伝えた。この文章を見た日野原さんは、すごい言葉を使える女性だとして、今も心のなかで生き続けていると話した。症状が進んだ静子さんに日野原さんは手を握りながら付き添い、静子さんが好きだった思い出の曲を聞かせた。どんな状態になってもそばに居てくれること自体が自身の生きる力を与えてくれているという。

日野原さんの70年連れ添って来た妻・静子さん。日野原さんが帰宅すると必ず手を握り合う。静子さんは約10年前から認知症を患う。記憶力・認知能力が衰え、今は会話をすることも困難。しかし、日野原さんは静子さんと2人で過ごす時間をなによりも大切にしてきた。2人が結婚したのは70年前。教会の日曜学校で子どもたちに教えている静子さんの姿に日野原さんは惹かれたという。2人は結婚し3人の男の子を儲ける。静子さんは家庭で子育てを切り盛りするだけでなく様々な活動を行う日野原さんの秘書の役割も果たしてきた。静子さんの症状が進んでからはヘルパーや次男の妻・眞紀さんに手伝ってもらって2人暮らしを続けてきた。眞紀さんは2人の関係は目標を同じくする同士のようなものだと感じている。日野原さんはヘルパーにお願いして静子さんの日々の様子をノートに記録してもらっている。意思疎通が難しくなった妻が僅かに示す反応を知りたいと思ったから。ノートには「奥様の誕生日。ケーキのろうそくをふきけして『どうもありがとう』とくり返す」「夕方、足を温める。笑顔でまあまあとおっしゃる」など書かれている。日野原さんは静子さんの感情表現についてが少なくなってきているが時折感情表現を示すことがあることなど話す。

8月16日に思わぬ事態が起こった。関西への出張を切り上げ、急遽病院に戻ってきた日野原さん。しずこさんはこの日の朝、肺の機能が低下し、呼吸困難に陥って救急車で運ばれていた。一命はとりとめたが意識は戻っていない。しずこさんに訪れた命の危機はあまりに突然のことだった。妻の病状に不安を抱きながらも日野原さんは患者と向き合い続けていた。日野原さんは親しいものの状態を診るにつれて、そのような思いで患者さんを診るというミッションがあると話す。ふやすなら微笑みのしわをという日野原さんの言葉に励まされた患者さんがいた。肺がんを患い、緩和ケア病棟に入院している大田さんだ。大田さんは3年前に末期の肺がんと告げられ、それまで働いてきた会社をやめた。苦しい治療で延命するよりも痛みを和らげ、自分らしく過ごせる時間を持ちたいと考えている。笑顔を持った患者さんと持たない患者さんは非常に違うと話す日野原さん。日野原さんは「いのち開く、きみの笑顔、土の香り」という俳句を大田さんにプレゼントした。これは笑顔が印象的で園芸が趣味だという大田さんを思って作った句だった。大田さんは心地よくなんとも言えない気分になって、日野原先生から100歳のパワーをもらったような気がする、やりたいことは贅沢プチ旅行をしてみたいなどと話す。

9月24日は日野原さんにとって特別の日。それは妻・静子さんの92歳の誕生日だった。病室でささやかな誕生日会が開かれ、静子さんの好きな賛美歌をみんなで歌った。結婚してから70年、ハイジャック事件をきっかけに2人は人のために生きるというミッションを人生の目標にし、以来同じ目標に向かって共にあるき続けてきたのだった。

10月4日は日野原さんの100歳の誕生日。いつものように支度をして病院に向かい、10歳で往診してくれた先生に憧れ医師を志し、26歳で初めての患者を受け持ち最後の別れに後悔し、以来4000人を超える患者さんを看取ってきた日野原さん。100歳になった今、日野原さんは自らの命について「与えられてる自分の時間をどう使うか」とし、エンドの時には感謝の言葉を捧げられるようになりたいのが自身の最大の希望だと話した。

医師になろうと思ったきっかけは子供の頃。日野原さんは6人兄弟の次男として生まれた。父・善輔さんは教会の牧師。10歳の時のある夜、母が高熱を出した。出産する度に身体を壊し、腎臓病を患っていた。医者という仕事の素晴らしさを間近に体験し、先生のような医者になりたいと思ったという。

「生と死に向き合った105年」を振り返りスタジオトーク。落合恵子は命があるということは、他の人のために使える時間があるということでもあり、同時に私達にたくさんの宿題を残していってくださったと心から思うと語った。福井次矢さんは41年間いろいろ教えを乞うたとし、改めて奥さんの愛情を感じたと話した。また福井さんは日野原さんの最後に立会った感想として、本当に静かに亡くなりまさに今まで言われてきたことを実戦されていたなどと明かした。また日野原さんから託されたメッセージについて、福井は日野原先生は後ろを振り向かず常に前を見ており、そして常に勉強する、少なくともこうした点は我々が引き継いでいかないといけないと語った。

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聖路加国際病院
中央区(東京)
福井修平さん
がん
京都大学
聖路加国際病院 緩和ケア病棟
結核性腹膜炎
井上真央
静子さん
末期がん
満子さん
善輔さん
腎臓病
日野原眞紀さん
動脈硬化
心臓病
レシチン
公立志津川病院
大田雅之
認知症
広島市立皆実小学校
インフルエンザ
よど号ハイジャック事件
ローレライ
眞紀さん
大田美樹
肺がん

エンディング (その他)
03:19~

日野原さんが人生の終わりに聞きたいと話していたフォーレの「レクイエム」を聞きながらエンディングのあいさつ。

キーワード
日野原さん
フォーレ
レクイエム
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