あの日 あのとき あの番組 奇跡のピアニスト フジコ・ヘミング

放送日 2018年11月11日(日) 13:50~15:00
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
13:50~

オープニング映像が流れた。

奇跡のピアニスト フジコ・ヘミング~魂の旋律を奏でて~ (バラエティ/情報)
13:50~

フジコ・ヘミングは60歳でデビューしたピアニストだ。1999年に放送されたETV特集「フジコ ~あるピアニストの軌跡~」では、彼女の壮絶な人生が語られた。かつては天才少女と言われながらも聴力を失うなど過酷な人生を歩んできた。番組では不遇の時代、再起をかけてステージに上る姿を追った。放送後、番組は大反響を呼び、コンサートのチケットは即日完売、デビューアルバム「奇蹟のカンパネラ」は300万枚近くを売り上げる大ヒットとなった。

スタジオでは、美輪明宏さんを迎えて、フジコさんについてのトークが行われた。美輪さんはフジコさんの印象について「素晴らしい人が出てきたという印象」と語った。実際にお会いした時の印象については「優しさのある方。それが作品などに出ている」と話した。

フジコ・ヘミングは60歳でデビューしたピアニストだ。リストを弾くために生まれたと欧州で称されたピアニストがいる。ピアニスト、フジコ・ヘミング。フジコは劇団の稽古場だった家に一人で住んでいる。

フジコの母親は日本人、父親はスウェーデン人だ。フジコの家は4年前に他界した母が残したものだという。母の死をきかっけに30年余りの外国生活に終止符を打ち、帰国した。フジコの母は昭和初期にピアノ留学をしていた最中に父親と結婚。フジコが5歳の頃、一家は日本に移り住んだが父は開戦の気配の色濃い母国に帰国した。

父と母がケンカしているところを覚えているという。母以外の人にあずけられていたと語った。その後、父に会うことはなかったという。深夜までピアノを弾くという。じゃがいものお味噌汁を食べるフジコさん。ベジタリアンなのでじゃがいもが命の源だという。どんな服にもアレンジを加えるとのこと。母は家にいないことが多かった。フジコはひとりで過ごしたという。貧乏ごっこをしていたとのこと。母の使っていたピアノをいまでも大切にしている。70年前に母がドイツで買ったピアノだ。このピアノでフジコは母から厳しいレッスンを受けたという。ピアノの音が綺麗だったという。

フジコがピアノをひきながら歌う。どんなに生活が苦しくても母はこのピアノは手放さなかった。いやいやながらも、このピアノで勉強したとフジコさんは語った。夜、フジコがふとんに入ると母はピアノをひいた。母はベートーヴェンが好きだったという。月光を弾くフジコさん。母の指導のもと、才能を開花させたフジコ。少女とは思えない夢のような演奏だと評された。小学三年生の頃、ラジオに初出演し、天才少女と騒がれた。その後、新人音楽家の登竜門であるNHK毎日コンクールに入賞。将来を期待された。しかし順調に進んでいたフジコに、思わぬ障壁が立ちはだかる。

フジコ・ヘミングさんを特集した番組をみた美輪明宏さんは「フジコさんが生まれ育って生き抜いてきた時代がちょうどいい頃だったと思う。終末の憐れな美しさというものが自然とみについてらっしゃる」など話す。

「ETVカルチャースペシャル フジコ ふたたび」の内容を紹介。手紙など番組への反響が次々と寄せられ、その数は一千件を超えた。上野の奏楽堂でフジコ・ヘミングのピアノコンサートも開かれ、番組でフジコ・ヘミングを知った人々が各地から駆けつけた。その後発売されたデビュー・アルバム「奇蹟のカンパネラ」は三百万枚近い売り上げを記録。その過熱ぶりはフジコフィーバーと呼ばれた。

フジコは父が去った後も、スウェーデン国籍のままであったという。しかしスウェーデンに住んだ経験がないため、18歳で国籍を失った。ドイツへの留学を夢見ていたが、パスポートは取得できなかった。無国籍のフジコjは避難民として、出国せざるをえなかったという。ドイツで避難民扱いだった。留学したときはすでに30才。おそすぎるスタートだった。やがて幸運の扉が開かれた。世界的音楽家・バーンスタインが、フジコの才能に注目した。フジコは彼の前で演奏を披露した。ソリストとしての活躍がはじまった。リストを弾くために生まれてきたピアニストと絶賛をあびた。ため息など難易度の極めて高いリストの曲を、フジコは小鳥がさえずるかの様に、美しく軽やかに奏でた。フジコは夢を実現した。しかし、人生を狂わせる不幸が突然襲う。

フジコ・ヘミングは活躍の舞台を世界へ。80代の今もピアノへの情熱は衰えず、年間60ものワールドツアーを行なっている。6月にはフジコさんを描いた映画も公開し、大ヒットとなった。東京だけでなく世界中に自宅があるフジコさんは各地を訪れ素顔を見せる。映画ではフジコさんが描いた絵日記も紹介。過酷な日々を過ごしても小さな幸せに目を向ける少女だったフジコさん。自分を決して憐れまない、目の前の幸せを見つめるというのがフジコさんがこれまで貫いてきた生き方だ。2年近くフジコさんに密着した映画監督の小松さんはその力強さを目の当たりにしてきた。

リサイタルの直前に、風邪で耳がまったく聞こえなくなった。演奏会の予定はすべてキャンセル。フジコは次第に音楽会から忘れ去られた。そのときのことは思い出したくないとフジコはいう。チャンスは失った。惜しいことだという。悪夢だったとのこと。耳の治療に専念するが、片方の耳が40パーセント回復しただけだった。失意のフジコは、スウェーデンへ。国籍を取り戻す旅でもあった。慰めは絵を描くことだった。それでも決して日本へ帰ろうとはしなかった。帰ったら負けだと思ったという。それからおよそ30年。ヨーロッパ各地で演奏活動を続けた。フジコにかつてのような栄光がふたたび訪れることはなかったという。どこに行っても満足できなかった。自分の国じゃないと思ったという。自分のためにある世界ではないと思った。

フジコ・ヘミングにういて美輪明宏さんは「私は私だというプライドですよね。個であること。それを頑として持ち続けて戦い続けていらしたんだと思う」など述べた。

街の中を歩くフジコさん。午後四時に買い物に出かけるのが日課だ。日本に移り住んで4年。劇団に稽古場を貸し、ピアノを教えて収入を得ている。天国への準備をしているという。絵を描くフジコさん。もう人前で弾くことはない。日本に戻った頃、そう決めていた。かつては忘れ去ろうとしていた過去。しかし今、人生をもう一度、取り戻したいと願うようになった。自分の技術が衰えないうちに、認めてもらいたい。負けず嫌いだという。5つしかもっていないものを10に見せようとは思えない。テクニックがある人はたくさんいる。そんなことではなく、自分のものを見せたい。フジコは才気の舞台に母校である東京芸大の旧ホールを選んだ。

コンサートの前には順番を紙に書いておくという。楽屋からステージに行く間は地獄へ行くようだったと語った。今、死にそうだという。立ち見も出るほど多くの聴衆の拍手。ラ・カンパネラを演奏するフジコ。その複雑な変奏と、超絶的技巧で、世界で最も難しい曲といわれている。ラ・カンパネラは、イタリア語で、鐘。人生の時々に鳴り響く教会の鐘をイメージさせる。フジコはリストの中でもこの曲を得意としている。自分のカンパネラを一番気に入っている。一番上手いと思っているわけではない。他人の弾き方は嫌いだ。ひとつひとつに魂が入っているようなラ・カンパネラだ。こわれそうな音の方が好きだという。少し間違っていても構いやしない。機械じゃない。鐘の音ひとつひとつがフジコの歩んできた時だ。今日はもうおしまいと、ピアノを弾くのを終えたフジコ。

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エンディング (その他)
14:54~

NHK アーカイブス ポータルサイトの告知。番組のダイジェスト映像を見ることができる。1万5000本の映像をいつでも見ることができる。

フジコ・ヘミングさんはETV「フジコ あるピアニストの軌跡」をご覧になって「あんなに反響があるとは思わなかった」など述べていた。自分のスタイルを貫き通す事について聞かれるとフジコさんは「新時代の音楽が好きな人はいっぱいいるが、私は古くさいやりかたが好きだから。自分がやっていることだけを信じる」など述べた。

NHKアーカイブスと公式フェイスブックの露出。

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