目撃!にっぽん 故郷と祖国〜加藤登紀子 サハリンへの旅〜

放送日 2018年8月12日(日) 6:15~ 6:50
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
06:15~

オープニング映像。

かつて日本領だった現在のサハリン島にソ連軍が侵攻し、激しい地上戦が終戦後もなお続いた歴史がある。多くの人が命や故郷を失った。ことし6月、歌手・加藤登紀子がこの島を訪ね、サハリン残留邦人と交流。歌を届けた。

キーワード
加藤登紀子
サハリン島

故郷と祖国〜加藤登紀子 サハリンへの旅〜 (バラエティ/情報)
06:17~

加藤は6月下旬、東京からユジノサハリンスクへ向かい、現地空港で温かい歌の歓迎を受けた。加藤はこれまで世界50か国以上で歌を歌ってきた。ことしは日本とロシアの親善を図る日露交流年で、加藤自らがコンサートを考案し実現に至った。サハリンは南北950km、50万人が暮らす。南半分がかつて日本領土・樺太だった。空港から車で約6時間をかけ、かつて国境があった村へと向かった。終戦間際に侵攻してきたソ連軍と日本軍との激しい地上戦はこの場所から始まった。サハリン全体での犠牲者は6000人にものぼる。国境線の跡も訪れた。かつて国境を決めていた石碑が今も残されていた。

サハリン南部のユジノサハリンスクは旧樺太時代、中心地だった街だ。加藤のコンサートはこの街のチェーホフ記念サハリン国際舞台芸術センターで行われた。6月21日のコンサート当日、会場は地元の人々で埋め尽くされた。加藤は日本とロシアで愛されている曲「百万本のバラ」等を披露した。この会場に加藤が特に歌を贈りたかった人―サハリン残留邦人とその家族約100人がいた。旧樺太時代、この島には40万人の日本人が暮らしていた。終戦後、サハリンはソ連支配下に置かれ、間もなく日本人の引上げが始まった。しかし混乱の中、取り残された日本人もいた。残留邦人の数は1400人以上と言われている。

松崎節子さんはサハリンに残留していて、日本・ロシア・朝鮮のさまざまな料理が混在したサハリンの食卓でウォッカを振る舞って出迎えてくれた。松崎さんの父はウォッカを飲んで「ステンカ・ラージン」を歌うのが好きだったと言い、日本語を分からない娘たちも松崎さんの歌は覚えていた。

加藤登紀子さんも故郷を追われていて、満州のハルビンは日本・中国・ロシア人の暮らす国際都市となっていたが、加藤さんは満州鉄道社員の父のもとに3兄弟の末っ子として生まれ、ハルビンで過ごしていたが太平洋戦争で日本が敗れたことで多くが日本に引き上げ、17万人が寒さで命を落とした中で加藤さん一家は日本に無事たどり着いていて、生きにくことの素晴らしさが全てだったと振り返っていた。そして、1からの出発となった加藤さんはロシア革命で祖国を追われたロシア人たちとロシア料理店を経営し、これが加藤さんの原点となっていた。

加藤登紀子が作詞・作曲を手がけた「遠い祖国」が流れた。

松崎さんが終戦を迎えたのは12歳のときで、ソ連に家族が連行され残された松崎さんは、生き延びるために朝鮮半島出身の男性と結婚して14歳で出産する。その後日本人の引上げが始まってサハリンを多くが去っていったが、松崎さんは子どもを生んでしまったことで引き上げられなかったと振り返っていた。サハリンに取り残されてからは差別と貧しい暮らしを経験していて、桜の木だけが心の支えとなっていて、日本で兄と暮らしたいという願いは叶わなかった松崎さんは40歳を過ぎてソビエト国籍を取得する。松崎さんの好きな歌は兄から聞かされた「人生の並木路」で、苦しい時に日本の歌を歌えば自分は生きなきゃいけないと思えると話していた。

キーワード
サハリン島
百万本のバラ
ユジノサハリンスク(サハリン)
ハルビン(中国)
ユジノサハリンスク駅
樺太神社
ユジノサハリンスク(ロシア)
遠い祖国
加藤登紀子
チェーホフ記念サハリン国際舞台芸術センター
ステンカ・ラージン
ウォッカ
日本
ロシア
人生の並木路
朝鮮半島
満州鉄道
太平洋戦争
ロシア革命

番組宣伝 (その他)
06:49~

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