NHKスペシャル 従軍作家たちの戦争

『NHKスペシャル』(エヌエイチケイスペシャル)は、NHKのドキュメンタリー番組。略称は「Nスペ」。単発のドキュメンタリーを制作・放送していたNHK特集に代わり、1989年4月2日放送開始。原則、毎週日曜日の21:00 - 21:50に放送するが時間枠を拡大したり他の曜日・時間に放送することもある。再放送は、火曜・水曜深夜。多くはハイビジョン放送である。本項では前身である『NHK特集』(エヌエイチケイとくしゅう)についても記述する。

出典:goo Wikipedia

放送日 2013年8月14日(水) 22:00~22:50
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
22:00~

藤野可織が芥川賞を受賞した。75年前に芥川賞の授賞式が行われたのは中国・杭州で日中戦争の戦場だった。受賞した玉井勝則陸軍伍長は、作家の火野葦平だった。火野葦平は報道部員に抜擢され、戦場で綴ったの兵隊三部作はベストセラーとなり、映画「土と兵隊」にもなった。火野の従軍手帳は、近年になって公開された。

太平洋戦争時には、火野など多くの作家が重用され、陸軍の指導のもとで戦場でのプロパガンダにあたらせた。また、収容所では捕虜の精神教育も行った。これまで100人を超える作家が従軍した。

キーワード
火野葦平
芥川賞
杭州(中国)
土と兵隊
日中戦争

従軍作家たちの戦争 (バラエティ/情報)
22:04~

1937年、中国・杭州湾に約7万の日本軍が上陸した。杭州湾上陸作戦で中国軍は水路を利用して激しく抵抗した。日中戦争で、火野葦平は分隊長として進軍し南京を攻略した。1938年2月、火野葦平が出征前に発表した「糞尿譚」が芥川賞を受賞した。授賞式には小林秀雄が派遣された。

馬渕逸雄中佐は徐州作戦で、火野葦平を報道部員に引き抜いて従軍させた。大妻女子大学の五味渕典嗣准教授は、火野の抜擢について徐州作戦はメディアを意識した作戦だったために火野が引き抜かれたと説明した。芥川賞授賞式から1ヶ月あまり、徐州の最事前線では記者の車も撃ち抜かれる激戦だった。火野の書いた「麦と兵隊」には当時の様子が描かれていた。

火野葦平の芥川賞受賞に陸軍報道部が注目した。当時、欧米列強が租界を設けた上海に中国陸軍がメディア戦略の拠点を置いていた。その中支那派遣軍の中心人物が馬淵逸雄中佐だった。馬淵には新聞記者中心だった戦場報道を一新したいという思いがあった。馬淵の考えは「報道戦線」に綴られている。

五味准教授は、火野葦平の書いた「麦と兵隊」は、どこか人間的で日常生活の延長のようにもみえる兵隊像が多く描かれていると説明した。麦と兵隊は8ヶ国語に翻訳されて、日本の視点から描かれた日中戦争の実装を世界に伝えた。また、「土と兵隊」は陸軍の全面協力で映画化もされている。

馬淵逸雄はヒトラー率いるナチスドイツ式の宣伝に注目していた。ドイツ国防軍は小説家やカメラマンを動員したPK部隊を組織し、最前線での宣伝活動にあたらせた。馬淵逸雄は火野葦平を報道部員に抜擢。同じ頃、中央公論に掲載された日中戦争を取材した「生きている兵隊」が問題になっていた。作者・石川達三は南京攻略戦に参加した兵士から聞き取りをして「生きている兵隊」を書いた。「生きている兵隊」には中国の民間人に危害を加える日本兵の姿が綴られていた。「生きている兵隊」を掲載した中央公論は発売前日に発禁となり、石川達三は安寧秩序を乱したとして禁固4ヵ月・執行猶予3年の判決を受けた。

北九州市若松に、火野葦平の旧居がある。火野がつづった兵隊三部作は300万部を超えるベストセラーになっていた。火野の三男の玉井史太郎さんは、三部作の印税で家が建ったと話した。日中戦争の戦場から火野が父にあてて書いた手紙には、所属部隊の兵士たちが30人を超える中国兵を殺害したことなどが記されていた。火野自身が中国兵を殺害した様子は作品には描かれていない。

火野葦平は、陸軍の検閲について戦後に記している。火野葦平選集には検閲の内容が記されている。浅田次郎氏は、総力戦という国と国との戦争だという意識に転換してからは、産業などを総動員で戦争を行わなければならないという悪循環が生まれて、雑誌の統制や作家への指導につながったと説明した。浅田氏は、言論統制から戦争は始まるため、言論表現の自由は保証されなければならないと語った。

上海図書館で石川達三著「生きている兵隊」の中国語訳の本を見つけた。「生きている兵隊」は発禁から1か月後に上海の新聞で翻訳され、その後単行本として出版された。翻訳者によるまえがきには「人類史上最も野蛮で残酷な行為が描かれている」と記され、日本語版にはない挿絵も描かれていた。

当時、蒋介石は日本軍の非人道的行為を世界に訴えようとしていた。蒋介石は特にアメリカの存在を重要視していた。蒋介石は部下にアメリカへの宣伝費用は惜しまず使うように指示し、雑誌ライフなど米メディアで南京での残虐行為が報道された。蒋介石のメディア戦略が国際世論を動かそうとしていた。馬淵逸雄は中国側の宣伝に対抗する必要性を痛感していた。

太平洋戦争が開戦した。軍部は多くの著名作家を徴用してアジアの占領地域に送り込んでいった。アメリカの植民地だったフィリピンには、尾崎士郎や石坂洋次郎といった作家とともに火野葦平が送り込まれた。日本軍は首都マニラを陥落させて、米国依存の思想を排除しろと命令が下った。取りまとめ役だった人見潤介さんは、日本に協力する国にしていく必要があったと話した。

人見さん自身が制作にかかわった映画「東洋の凱歌」は、アメリカの文化が浸透したマニラの意識変革のために作られた。日本軍はさらにバターンを陥落して、フィリピン人の捕虜を収容所に送り込んだ。火野葦平らが作った月刊誌には、収容所を学校と書き、捕虜への独自の教育を行っていった。

捕虜となったネストール・セニザさんは、当時の収容所の様子を語った。収容所では、ラジオ体操や暁に祈るなどを覚えたと話した。人見氏は収容所について壮大な民族教育、精神教育を行ったと話した。また火野葦平も何日も泊まりこんで、武士道などの教育を行ったと記している。日本軍は捕虜を開放したが、多くは抗日ゲリラとなった。リカルド・ホセさんは、フィリピンは民主主義を経験していたので、日本の下になるのは嫌だったのだと説明した。

日本では情報局の指導のもと、新聞・放送・出版・映画などメディアが統制されていた。菊池寛発案によって50人を超す文学者が全国で講演。戦争への協力を訴えた。1942年、日本文学報国会が結成。作家の国策への協力体制が整っていく。

戦局が悪化する中、1944年、大本営はインパール作戦を開始する。インパール作戦元兵士の下田利一さんは当時の様子について、「食べるものもまったくない。当時、ジャングル野菜と言っての草を食べた。連隊で1700名が亡くなった」と話した。

1945年8月、敗戦した。日本文学報国会は、戦時中の活動については何の声明も出さないまま解消した。敗戦後、菊池寛は300人の文筆家とともに公職を追放された。火野葦平も戦争協力者として厳しい批判をあび、公職を追放された。火野葦平は、敗戦から14年後小説「革命前後」の連載させる。自身を投影させた主人公が敗戦後元兵士に迫られる姿を描いている。敗戦から15年火野葦平(53)は自宅の書斎で自らの命をたった。火野葦平は戦前に出版された本に戦後、紙を貼り文章を書き足していた。そこには、中国兵殺害の事実が描かれてあった。

火野は、押しも押されもせぬ国民的作家となっていった。火野の成功を受け、陸軍は戦場への作家の動員を本格化させていく。陸軍報道部の馬淵が戦場で作家たちから贈られた掛け軸。1938年9月、20人を超える作家が中国へ派遣された。

キーワード
火野葦平
蒋介石
糞尿譚
小林秀雄
馬渕逸雄中佐
芥川賞
麦と兵隊
土と兵隊
日中戦争
若松(福岡)
火野葦平選集
杭州湾
南京(中国)
尾崎士郎
石坂洋次郎
馬淵逸雄
太平洋戦争
フィリピン
報道戦線
上海(中国)
ヒトラー
ナチス
中央公論
石川達三
生きている兵隊
上海図書館
東洋の凱歌
雑誌ライフ
暁に祈る
菊池寛
日本文学報国会
牟田口廉也
杉山元参謀総長
インパール作戦
革命前後
馬淵逸明
林芙美子
朝日新聞

エンディング (その他)
22:48~

日中戦争から太平洋戦争の時代、多くの作家達が戦場へと向かった。従軍手帳の中には、戦場の現実が刻まれている。

キーワード
日中戦争
太平洋戦争

スポット

この番組で紹介されたアイテムは登録されていません。
  1. 前回の放送
  2. 8月14日 放送
  3. 次回の放送