日韓の国宝が海を越えた〜半跏思惟像はるかな旅〜 2016年7月4日放送回

放送日 2016年7月4日(月) 2:30~ 3:20
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
02:30~

先月、韓国・ソウルで日韓の国宝が1400年の時を超え、初対面した。なぜ日本と韓国によく似た半跏思惟像があるのか、謎を探る旅に中嶋朋子が出た。半跏思惟像に秘められた人々の願いには東アジアの交流の歴史があった。

キーワード
ソウル(韓国)
半跏思惟像

日韓の国宝が海を越えた~半跏思惟(はんかしゆい)像はるかな旅~ (バラエティ/情報)
02:32~

奈良・斑鳩の法隆寺の隣、中宮寺に半跏思惟像がある。国宝の木造菩薩半跏像は右足を左足の上に組む半跏という座り方で頬に指先を添え思惟している。穏やかで優しく微笑んでいるように見える。元々、瓔珞をつけていたが1400年の間に取れたという。5月12日、菩薩半跏像が搬出される日となった。展覧会はソウル、東京で行われる。

日本と韓国は国交を正常化し半世紀を迎えた。これを記念する展覧会が韓国の国立中央博物館で始まる。中宮寺の半跏思惟像が海を超えやってきた。開会に先立ち、両国の尼僧による開眼式が行われた。蓮の花を型どった色紙を巻く散華を行い、展覧会への思いが込められた。

中嶋もソウルを訪れた。博物館館長のイ・ヨンフンさんと早稲田大学名誉教授の大橋さんが出迎えた。日韓の古代の交流を振り返り、未来に向かい友好関係を築く土台になればと企画したという。韓国の国宝「近藤弥勒菩薩半跏思惟像」は6世紀のもので滑らかな体の曲線や宝冠など魅力的である。高熱で鋳造する金銅仏で当時優れた技術があったことがわかると話した。右前方から見ると立体的なバランスがあるという。6世紀は高句麗、新羅、百済の三国が争う戦乱の世で、この中、日本に仏教が伝えられた。日本書紀によると、百済の聖明王が6世紀半ばに初めて金銅の仏像や経典を伝えた。

百済の都のいプヨを訪ねた。町の中央には聖明王の像がある。去年、世界遺産になったプヨは百済の王宮や伽藍のお寺も再現されている。国立プヨ博物館にある国宝の百済金銅大香炉は仏教の儀式に用いられたという。百済の人々の精神世界を描いているという。ダイナミックでありながら繊細であり、この表現こそ百済王室の文化水準の高さを物語っているという。

プヨの近くの山に百済の人から信仰を集めた半跏思惟像があるという。磨崖如来三尊像があり、その右に半跏思惟像がある。半跏思惟像は百済では弥勒菩薩として信されたという。弥勒は未来の世に人々を救うという。百済の仏教はどこからきたか、百済は中国に使者を送り、仏教の経典などを求めていた。当時の中国は南北朝に分かれ、百済は主に南朝から仏教を学んだが最近の研究では北朝とも交流があったことがわかってきた。

北魏の都の大同を訪ねた。5世紀に作られた雲崗石窟は世界遺産である。巨大な石仏がある。山肌には200を超える石窟があり、5万を超える仏像が彫られている。雲崗を代表する第六石窟、高さ14mの塔には仏像がたくさん彫られている。ここには釈迦の半生は描かれている。

釈迦は愛馬と共に城の外の世界を見ようと出かけ、そこで人々の生老病死を見た。苦しみからどう救うか出家しようとした時の釈迦は半跏思惟の形をとっている。石窟の上に修行中の姿があるとし、特別に案内してもらった。釈迦は人生の道理を考え、解脱し悟りを開く道を考えている。中嶋は釈迦が思惟しているのは自分に近しい感じがし、感慨深いと感想を話した。

釈迦の悩む姿を表したとされる半跏思惟像。釈迦は2500年程前にインドで仏教を開き、ガンダーラ地方に伝わった仏教「ヘレニズム文化」と出会い、仏像が作られた。この時、半跏思惟像が姿を現した。仏教はガンダーラからシルクロード敦煌を経て、5世紀の中国の南北朝で花開いた。中国では半跏思惟像は太子思惟像と名付けられた。釈迦の名前のシッダールタ太子にちなんだ呼び名である。北朝では太子思惟像はこの時代の特徴的な仏像として広く流行していたという。

半跏思惟像のような仏像が最初に作られたのはガンダーラ地域で、中国に伝わり中国でも太子思惟像の姿で信仰を集めていたという。韓国では6から7世紀にかけ弥勒菩薩と考えられる半跏思惟像が作られたという。三国が争っていて政情が不安定な時代、弥勒菩薩が地上に降りてきて衆生を救うという信仰が自然に広がったという。これが日本に伝わり、当初は弥勒菩薩ということで信仰されたという。

奈良・明日香の飛鳥寺を訪ねた。御本尊は日本で最も古い仏像である。作者は鞍作鳥で元は馬の鞍を作る職人だったという。昭和31年から行われた飛鳥寺の発掘調査で、建物の全貌が明らかになった。飛鳥寺は大仏を安置する金堂で、前に五重塔がそびえ立つ巨大な寺院だった。塔の下から舎利容器と共に様々な発見があった。金や石、勾玉など見つかった。

2007年、韓国の王興寺の寺院跡から舎利容器が見つかった。発掘調査を元に再現した王興寺の姿では飛鳥寺同様、金堂の前に五重塔がそびえ立っていた。その下から発見された遺物は、飛鳥寺のものとよく似ている。

王興寺の発掘で見つかった遺物が国立プヨ文化財研究所に保管されている。純度98%を超える金でできた舎利容器が純銀の容器に入っていた。金・銀の容器は青銅製の容器に入っていた。刻まれた文字から王興寺が創建された正確な年がわかった。西暦577年、でこの年は敏達天皇の6年にあたる。日本書紀によるとこの年、百済から造仏工、造寺工などの技術者が来日した。

百済が日本に仏教を伝えた背景には朝鮮半島の戦乱があった。高句麗に圧迫された百済は東の新羅とも戦乱の渦中にあった。聖明王は新羅との戦いの末に殺される。息子の昌王は僧侶や仏像を作る技術者を倭へ派遣する。百済は仏教を伝える変わりに、救兵した。仏教は上下は調和するハーモニーの思想で、当時の日本列島にはない思想で支配者たちを固めるには都合のいい思想だったという。百済から仏教と最新秘術を取り入れ10年後に飛鳥寺が創建された。鞍作鳥は飛鳥大仏の後、法隆寺の金堂釈迦三尊像を作る。中宮寺の半跏思惟像が作られたのは飛鳥大仏から半世紀余後の「ことだった。

スタジオでは中宮寺の菩薩半跏像がどのような人によって作られたのか話題になった。577年に挑戦から派遣された工人に日本の技術者が弟子入りして、587年に飛鳥寺が創建されたので、10年で一人前になったのではと伝えた。菩薩半跏像は鞍作鳥から2代目ぐらいの人が作ったのではと伝えた。

聖徳太子は摂政として政治を率いたとされる人物だと伝えた。聖徳太子はそこで「憲法十七条」を作った。根底には仏教の教えがあると伝えた。聖徳太子縁の寺に国宝の「弥勒菩薩半跏思惟像」があると伝えた。広隆寺には聖徳太子が亡くなったとに新羅から仏像が送られていたと伝えた。韓国の国立中央博物館には広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」と似た「金銅弥勒菩薩半跏思惟像」があると伝えた。

7世紀になると中国大陸が隋によって統一されて、隋に圧迫された高句麗は聖徳太子のもとに僧侶を送った。また新羅からも聖徳太子ゆかりの寺に仏像を送ってきたと伝えた。そうした状況で日本は国際交流をしたと伝えた。聖徳太子が建立した四天王寺には半跏思惟像が安置されている。聖徳太子の死後に、乱れた世に再び太子が現れるという伝説が生まれたと伝えた。その結果、中宮寺の菩薩半跏像は信仰を集めていったと伝えた。

スタジオでは中宮寺の菩薩半跏像はその後の日本で、聖徳太子信仰に重なっていくと話題になった。中嶋朋子は菩薩半跏像について、寄り添ってくれるような柔らかさを感じると語った。中嶋朋子は色々な形があるが癒やしは変わらないと語った。

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エンディング (その他)
03:17~

エンディングでは国立中央博物館での展示展での韓国の人の意見や思いが伝えられた。特別展「ほほえみの御仏」は東京国立博物館で6月21日から7月10日まで行われると伝えた。

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