真田丸第二幕 “秀吉チルドレン”それぞれの正義 2016年5月29日放送回

放送日 2016年5月29日(日) 16:00~17:00
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
16:00~

今年1月から放送中の「真田丸」。どの勢力に付けば良いのか小さな一族が知略を尽くして生き抜く物語。天下統一を目指して新たな覇権争いが繰り広げられた戦国時代。大国に囲まれてしまった真田家はいかに生き抜くか。そして4月からいよいよ舞台は大阪。真田丸は第二幕へ。天下統一目前の秀吉は家臣に支えられていた。その殆どが子供の頃に目をつけられた秀吉チルドレン。その中で加藤清正と石田三成は真逆の性格で秀吉を支え、その後たもとを分かちあった。それは真田家の運命も変えた。この番組では、先日放送した内容に未公開映像を加えてお送りする。この番組では真田丸のキャストが光成、清正ゆかりの地をめぐる。

キーワード
大河ドラマ 真田丸
石田三成
加藤清正

真田丸第二幕まるわかり! “秀吉チルドレン”それぞれの正義 (バラエティ/情報)
16:06~

滋賀県長浜市に石田三成役の山本耕史さんが原風景を観たいと訪れた。石田三成は大坂からの出演だが、その前にいたお城を観たいと話した。長浜城歴史博物館官庁の太田浩司館長に案内してもらった。長浜城は羽柴が37歳の時に初めて城を持つことを許されて築城したお城。山本さんは太田さんの案内で天守閣に登った。秀吉や光成の目線と同じ目線で風景を見た。山本さんは光成と同じ気持ちになれた。

秀吉の家臣の多くは秀吉が血縁・知縁関係の中から有望と見込んで自ら選び抜いた若者たちだった。秀吉は子どもがいなかったため、血縁関係を大事にしていた。加藤清正は勇猛さが知られ、10歳の頃に秀吉に仕えるようになった。一方、石田三成は秀吉とは縁もゆかりもなく、三成が預けられていた寺を偶然訪れた秀吉が見初めたという。秀吉が寺を訪れた際、三成がお茶を出した逸話があり、一杯目のお茶を飲み干した秀吉を見た三成は少々熱めの茶を小さめの茶碗にいれて差し出す。そして三杯目はじっくりと茶の味を楽しめるよう、熱めの茶をさらに小さな茶碗にいれて差し出した。三杯の茶を立ててくれた三成を秀吉は城に連れ帰り、家臣に加えた。三成・清正がそれぞれの能力を発揮し、歴史の表舞台に踊りでた賤ヶ岳の合戦では清正が最初に敵陣に突撃する一番槍の活躍をし、勝利に導いた。一方で三成は諜報活動をしており、僧侶の人脈を使って敵の情報を収集。また秀吉軍が通る沿道の民に松明を持たせ、大軍に見せかけて混乱させたなどの逸話が残っている。その2年後、秀吉が大阪城へ城を移し、三成は治部少輔に清正は主計頭となり、政策・軍事の大黒柱となる。その翌年、上杉家の人質だった真田信繁が上杉景勝のお供として大阪城にやってきて、秀吉の馬廻衆に取り立てられ、三成・清正と接点を持つことになった。

真田丸の番組宣伝。

信繁・清正・三成がそろう最初の場面を紹介、山本耕史は「名だたる武将たちがやっと揃った。ここからどんどん話も渦に飲まれていく」と話す。新井浩文は「今回は好きな人にはたまらないシーンがあるんじゃないかと思う。ネットで見ると2人が仲良くしゃべっているのが感慨深いという人が多かった」と話した。

三成は32歳のときに滋賀県・彦根市に城を持つ。その後、石高の高い九州への栄転の話もあったが、三成は秀吉の側で役に立ちたいと断り、佐和山城を離れなかった。佐和山城があった山の上には石垣の一部などがわずかに残っているだけで関ヶ原の戦いに敗れた三成の居城は勝った東軍によって破壊された。龍潭寺では佐和山城で使われていた城の鐘や三成の屋敷にあったといわれている板戸などが置いてあった。寺の敷地内には三成の座像があり、力強さを感じる。一方、加藤清正にももう一つの顔があった。

清正の素顔を知るために訪れたのは熊本市、清正は秀吉の天下統一の四年前、九州を収めるために大阪から遠く離れた熊本行きを命じられた。熊本で領主を務めたのは20年あまりだが、地元住民には今でも慕われている。

清正の墓がある本妙寺には清正の意外な一面を示す逸話が残っており、住職の案内された先にあったのは猿の石像だった。清正は勉強熱心で論語を読んで参考になるところに朱の筆で赤線を引いて勉強していた。しかし、論語を開いたまま部屋を出て行ったとき猿が筆に朱をつけ論語をめちゃくちゃにしてしまい、そこに清正が帰ってきて猿を抱きかかえて頭をなでながら「勉強したいという心がけが感心じゃ」と褒めてあげたという伝説があるという。

佐賀県唐津市、秀吉の天下統一後の一大拠点となった場所。小林隆さんと新納慎也さんと一緒に訪れた。ここはどんな場所だったのか、3人は係の人からタブレットを渡された。タブレットを向けるとその方向に420年余り前の光景がコンピューターグラフィックスで再現。かつてここに築かれた名護屋城。日本国内の統一を果たした秀吉は海の向こうの大国、「明」への海外進出、通称唐入りの拠点だった。大阪城に次ぐ巨大が城が作られた。大阪城と同じように黄金で作られた茶室もあったとされている。

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名護屋城には秀吉の家臣と全国の名立たる大名たちが集結。それそれが陣屋を設けていた。その数は130を超えていた。唐入りで三成が担ったのは戦地への兵糧や兵士の管理、片桐且元は名護屋城と戦地の連絡係、豊臣秀次は秀吉に代わり国内政務をしていた。

新納慎也さんは「この土地の広さを目の当たりにし、実際秀吉が踏んだなど言われると怖くなってきた」と話した。130あったと言われる陣屋。建物は残っていないが3人はその痕跡に触れることができた。420年前の石垣・真田昌幸の陣屋の跡を見た。息子・真田信繁と真田信之も陣屋を持ち、真田信繁は自分の陣屋から名護屋城に通い秀吉の警護にあたっていた。

石田三成が現地を視察し目の当たりにした戦況を秀吉の側近に内々に報告した書面を紹介。「兵糧が底をつきかけている」「兵士の数が足りない」、三成は”唐入りの続行は困難”と独自に判断し講話政策を主張、秀吉を説得するため清正らの戦いを否定的に報告したと言われている。その話を知った清正は秀吉の別の側近に書面を送っている。「都衆が偽りばかりを述べている」、都衆は三成らを指していると言われている。

1598年豊臣秀吉死去。三成と清正ら武将たちらは対立したまま撤退していった。三成は秀吉亡き後大阪へ帰り、豊臣家を支えながら実権を握った。そして2年後1600年、天下分け目の「関ヶ原の戦い」。加藤清正は東軍、石田三成は西軍。真田親子が出した答えは真田昌幸、真田信繁は西軍、真田信幸は東軍。どちらが勝っても負けても真田家が存続できるよう敵味方にわかれた。これが「犬伏の別れ」。山本さんは決戦の地を訪れ、思いをはせた。「関ヶ原の戦い」はわずか1日、東軍の勝利で決着。西軍の大将・石田三成は1600年斬首され、41歳で亡くなった。1611年加藤清正も享年50歳で病死した。

清正は、東軍についたが、秀頼の身を案じ、かくまえるように熊本城に特別な部屋をつくっていた。

三成の佐和山城は、関ヶ原の戦い後壊された。三成のゆかりのものは龍潭寺にわずかに残されている。そこへめったに公開されない、三成の辞世の句を紹介した。残り紅葉という題で書かれていた。負けを覚悟で戦いにのぞむ三成の思いを表していると言われている。

青森・弘前市は石田三成の末裔が今もこの地に暮らしており、新井さんが宗徳寺で会ったのは、16代目の杉山さん。三成の息子の重成は戦いに敗れ杉山と姓を変え逃亡し、津軽為信を頼りこの地に逃げ延びたと言われている。関ヶ原後の徳川の時代に見つかれば死罪も覚悟で、杉山家の墓には「豊臣」の文字が刻まれている。津軽為信を祀る革秀寺には、秀吉の座像が置かれている。新井さんは、男気の真っ直ぐなところを見せるというのは加藤清正がやりそうなことなので意外、などと話した。

新井さんは、石田三成のイメージと違うところが分かりおもしろかった、山本さんは、2人の衝突はゆかりの地を訪れお互いに正義がありぶつかったと解釈した、などと話した。最後まで台本がわからないので、2人も視聴者目線で楽しみにしているという。

キーワード
長浜市(滋賀)
長浜城歴史博物館
加藤清正
石田三成
大河ドラマ 真田丸
大原観音寺
米原市(滋賀)
長浜城
真田信繁
龍潭寺
佐和山城研究会
佐和山城
熊本城
本妙寺
熊本市(熊本)
片桐且元
豊臣秀次
名護屋城
唐津市(佐賀)
佐賀県立名護屋城博物館
関ヶ原の戦い
犬伏の別れ
熊本城 昭君の間
宗徳寺
革秀寺
弘前市(青森)
津軽為信

エンディング (その他)
16:58~

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エンディング映像。

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