1964東京オリンピック 第2回「オリンピック招致にかけた男たち」

放送日 2017年10月25日(水) 0:10~ 0:55
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
00:10~

まだ貧しかった敗戦国・日本でオリンピックを開こうと戦った男たちのドラマを紹介する。

キーワード
1964東京オリンピック

俺たちの“夢”がかなった~オリンピック招致にかけた男たち~ (バラエティ/情報)
00:10~

アジアで初めて開かれた1964年の東京オリンピック。開催国が東京に決まったのはその5年前の昭和34年だった。日本はこの時、敗戦から14年しか経っていなかった。当時の東京には仮設住宅で暮らす人や、仕事に就けず住むところさえない人たちが数多くいた。当時、東京のライバルとなったのはアメリカのデトロイト、オーストリアのウィーン、ベルギーのブリュッセルの3都市。どの都市も国をあげて活発に招致活動を行っており、日本は到底勝てないと言われていた。今夜は、そんな日本の招致活動を支えた田畑政治、フレッド・イサム・和田、平沢和重の知られざるドラマを紹介する。

昭和11年に開催されたベルリン五輪で日本は、前畑秀子など6個の金メダルを獲得した。その次のオリンピックは東京で行われる予定だったが、戦争の中で開催を断念した。この決定に誰よりも落胆する男がいた。それが田畑政治。田畑は当時、水泳日本代表の総監督だった。病気で選手生活を諦めた田畑は選手育成に人生をかけ、ベルリン五輪では教え子の新井茂雄が金メダルを獲得した。東京オリンピックが幻と消えた後、教え子たちは次々に召集され、多くの教え子が戦死した。やり場のない思いを抱えて田畑は終戦を迎えた。

戦後間もない昭和24年、アメリカ・ロサンゼルスで全米水上選手権が行われた。当時日本は占領下だったが、橋爪四郎や古橋廣之進など世界レベルの実力を持つ選手が数多く育っていた。しかし戦後、海外の大会への出場は一度も認められず、前年のオリンピックは参加を拒否された。立ち上がった田畑は連合国軍の総司令部に向かい、ダグラス・マッカーサーに特別な出国許可を掛け合った。なんとか出場のチャンスをもらった全米水上選手権で日本勢は大活躍。自由形の古橋廣之進は世界記録を大幅に上回るタイムで優勝し、橋爪四郎も2位に入った。遠征から日本に帰ると、日本全体がお祝いムードとなっていた。田畑はこの時、東京のオリンピック招致を心に誓った。

アメリカへの遠征チームには後に田畑の招致活動に支えていく人物が関わっていた。それがアメリカ在住の日系人、フレッド・イサム・和田。和田はホテルから宿泊を拒否された選手たちを大会期間中、ずっと自宅に泊めて面倒をみた。今年100歳になった和田の妻・正子さんが当時を振り返り、「これ白い飯だ、白い飯ってみんな言って。うちのお米は茶色やって言うから。それで聞けば日本はかわいそうに」と話した。

フレッド・イサム・和田はアメリカ生まれの日系二世。家が貧しかったため、学校には行かず牛乳配達などで働いて自分の店を持った。しかし、戦争が始まると日系人の多くは収容所に送り込まれ、和田の店は一部を爆破された。戦後、店を再開した和田は選手たちが困っていると聞くとすぐに手を挙げた。全米水上選手権で日本人が活躍すると、それまでは「ジャップ」と蔑んでいたアメリカ人たちが、「ジャパニーズ イズ グレート!」と叫んだ。生前、和田はこの時のことを思い出して、「世界記録作って日本人を尊敬の目で見るかどうか知りませんが、手のひら返ったように良くなった」と話している。和田はこの時の体験が忘れられず、後のオリンピック招致活動へとつながっていく。

昭和32年、水泳連盟の会長となっていた田畑政治がオリンピックを東京に承知したいと宣言して周囲を驚かせた。田畑は自分の考えを説明して回り、当時の岸信介首相にも直談判した。田畑は日本人にはオリンピックが必要だと訴え続け、東京は正式に立候補することを決める。

オリンピック招致の鍵を握る第3の男は外交官の平沢和重。平沢は招致活動が始まる20年前の昭和13年に船の上で、日本人初のIOC委員となった嘉納治五郎と運命的な出会いをする。平沢は嘉納と出会ったことでオリンピックを東京で行うことの価値をより一層深いものにする。しかし、嘉納は平沢と会った船の上で亡くなった。奇しくも嘉納の最後の言葉を聞くことになった平沢は、それまで関わりのなかったオリンピック招致のキーパーソンとなっていく。

1964年のオリンピック立候補都市の中で田畑が最も警戒していたのがアメリカのデトロイト。当時のアイゼンハワー大統領は選手の旅費などは出してもいいと発言し、各国に投票を促した。田畑は外務省などを通じて世界中の情報を集め、中南米諸国の支持を重要視すべきという情報を手に入れる。中南米の票を取るには各国を訪れる必要があった。そこで田畑の頭に浮かんだのが、アメリカの水泳大会で選手を受け入れてくれたフレッド・イサム・和田だった。

昭和34年3月、和田は妻とともにロサンゼルスを発つ。まずメキシコで力のあるIOC委員のホセ・クラーク将軍の自宅を訪れ、少しずつ距離を縮めていった。日系人として苦労してきた和田と貧しい家で育ってきたクラーク将軍は生い立ちが似ていた。和田はクラーク将軍に対し、「アメリカではなく貧しい日本に復活のチャンスを与えてください」と訴えたという。

中南米で支持を訴える旅は治安が悪い上に、移動にも時間がかかった。当時の和田夫妻の日記には、「疲れてフラフラ」「気分悪く寝ている」などの言葉が書かれていた。8ヶ国目に訪れたパナマは当時、アメリカが強い影響力を持っていた。和田はそんなパナマでIOC委員のオーグスティン・ソーサ氏と会い、1年前に第3回アジア大会で活躍した日本人選手たちの映像を見せ、「もし中南米の国が五輪開催を目指す時、日本はあなた方に力を貸します」と訴えた。

同じ頃、日本では外交官を辞めた平沢和重がNHKの解説委員として15分間のニュース解説を任されていた。ある日、外交官時代の後輩がケガをしたと聞き病院に駆けつけると、そこで平沢は後輩に自分の代わりにIOC総会でスピーチをして欲しいと頼まれる。半ば強引に原稿を渡された平沢だったが、平沢の娘の言葉をきっかけにスピーチすることを決心する。

一方、招致活動を引っ張ってきた田畑は最後の票読みをしていた。勝利の目安である30票を取るにはさらに票の上積みが必要で、総会での最後の訴えに勝負がかかっていた。昭和34年5月、ドイツのミュンヘンでIOC総会が開かれた。平沢はこの総会でオリンピックを東京に招致することの価値を訴え、1時間の持ち時間を15分で切り上げたのにもかかわらず、会場からは大きな拍手が起こった。最終的に東京が34票を獲得し、他の都市に圧倒的な差をつけて東京招致が決まった。

スタジオの高橋克実が、「東京オリンピックという途方も無い夢が実現した日。人々は万感の思いで待ちに待った舞台を見つめていた」とコメントした。

昭和39年10月10日、国立競技場で1964年東京オリンピックが開催された。戦前から東京オリンピックを夢見てきた田畑はスタンドで開会式を見ていた。平沢は田畑とともにオリンピック開催の準備に力を注いだ。祖国のために世界を駆け回った和田は生前、「日の丸が揚がった時、僕は嬉しくて涙が止まらなかった。ナンバーワンジャパンになったと嬉しくて」という言葉を残している。

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東龍太郎氏
ミュンヘン(ドイツ)
国立競技場
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