地方発 ドキュメンタリー 姉さん 僕も苦しかった〜ハンセン病 家族の葛藤〜

『地方発 ドキュメンタリー』(ちほうはつ‐)は、NHK総合テレビジョンで2013年4月1日(日付上は4月2日)から2015年3月23日(同3月24日)にかけて放送されたドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2014年9月16日(火) 0:40~ 1:25
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
00:40~

井土一徳さんは、ハンセン病患者だった姉の遺骨を、ふるさとである田之浜に持ってきた。井土一徳さんは世間の目を恐れ、ハンセン病である姉の存在を隠してきた。心に闇があると話す井土さんが、自らと向き合う日々に迫る。

キーワード
田之浜(愛知)
ハンセン病
田之浜(愛媛)

胸の泉に~ハンセン病 家族の葛藤~ (バラエティ/情報)
00:42~

井土一徳さんが香川・高松港に到着。大島にある国立ハンセン病療養所「大島青松園」などでは、ハンセン病患者が強制隔離された。戦後、特効薬で治る病気になったが、社会の偏見が強く残った。一徳さんの姉は2013年8月に、島で83歳の生涯を終えた。島には姉が住んでいた家が今でも残っていた。一徳さんは、世間に対する恨みつらみは言わない人だったと述べた。一徳さんの姉、井土ヤツ子さんは、塔和子の名で詩を書くようになった。塔和子さんは、自分の中に何匹も鬼がいて命令するようなことも書いたと語っている。「希望の火を」より抜粋された詩が披露された。

一徳さんは姉にとって、詩は生きた証だったと語る。大島青松園の職員、丹生将一郎さんは、一徳さんの姉は、一徳さんが来る日は前日から楽しみにしていたと語り、ハンセン病である自分をずっと自分を責めていたと明かした。

一徳さんは愛媛・田之浜に姉の遺骨を持ち帰った。両親と同じ墓で眠りたいということが、姉の最後の願いだった。一徳さんは墓に姉の本名を刻んだ。約束を果たした一徳さんは涙した。塔和子として書いた詩は多くの人が共感している。愛媛・酉予市で、一周忌をしのぶ集いが行われ、沢知恵さんが「胸の泉に」を披露した。

一徳さんは、ハンセン病を出した自分の家はどう見られているのかたしかめるため、ふるさとの愛媛・田之浜へ向かった。実家は一徳さんがいた頃とすっかり変わっていた。一徳さんはみんながここで暮らしたと思うと懐かしいと話した。上中彌一さんは、昔はハンセン病は伝染病だと言われ消毒臭かった記憶があると述べ、お姉さんが隔離されれば自然と偏見の考え方をもつと示し、誰もそんな目で見ていないと語った。一徳さんは、心の中の壁が溶けたと話した。塔和子さんの詩が披露された。

愛媛・田之浜では400人ほどの集落。姉がハンセン病を患ってから両親は偏見に怯えて暮らした。父親は人目を避けて姉の見舞いに行った。姉が25歳の頃に母親に宛てた手紙には「旧正月に帰ってくるように」と言われたことを喜んでいるが、私は帰ってはいけない存在だと書かれていた。両親は7人の子どもを村の外で働かせ、田之浜から井土家は両親の死でなくなった。

井土一徳さんがハンセン病を患った姉と再開を果たすのは、隔離され24年目の時に父が亡くなり自殺を図ったことがきっかけだった。一徳さんは子育てと写真館の切り盛りで忙しい毎日だった。44歳の姉から電話がかかって、1度会いたいと言われた。姉は島から高松に出てきた。一徳さんは姉について、母親の若いころにそっくりだったとし、なんの抵抗もなく受け入れたと話した。

一徳さんが姉とドライブに出かけ、昼食を取りにうどん屋に入った。店員はハンセン病を患った姉のことを見られ姉さんと言えなかった。一徳さんは今考えたらひきょうだったと話した。一徳さんは姉が隔離された島へ見舞うようになった。一徳さんが姉の前で泣いていると、姉にもう泣かんときと言われた。一徳さんは島に40年で800回通った。島の高台には隔離された人たちの納骨堂があった。隔離された人たちが亡くなったあともここで眠る。姉は死んだら故郷に帰りたいと託したが、井土家の墓に入ることができなかった。姉は塔和子の名前で納骨堂に眠っていた。

一徳さんは東京の国立ハンセン病資料館に向かった。ここには姉が普段使っていたものが数多く保管されている。姉が詩を作る時に使ったノートが40冊あった。一徳さんが初めて見る日記があった。一徳さんからの電話を心から待っている日記だった。一徳さんは知らなかったとした。

キーワード
田之浜(愛知)
ハンセン病
塔和子
希望の火を
大島青松園
香川県
大島
沢知恵
胸の泉に
田之浜(愛媛)
土佐市(高知)
東京都
高松市(香川)

エンディング (その他)
01:22~

エンディング映像。

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