くまもとの風 スペシャル「プロローグ“いだてん”」

『くまもとの風』(くまもとのかぜ)は、NHK熊本放送局が金曜夜に放送している地域情報番組。

出典:goo Wikipedia

放送日 2019年1月12日(土) 2:25~ 3:10
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
02:25~

大河ドラマ「いだてん」は、日本初のオリンピック選手である金栗四三が主人公。ドラマの舞台裏を特集する。

キーワード
金栗四三
東京オリンピック
いだてん

プロローグ“いだてん” (バラエティ/情報)
02:27~

大河ドラマ「いだてん」は、日本初のオリンピック選手である金栗四三が主人公。金栗四三は、ストックホルム五輪に日本人として初出場する。いだてんでは、中村勘九郎が金栗四三を演じる。いだてんの後半の主人公は田畑政治で、阿部サダヲが演じる。いだてんの脚本は、宮藤官九郎が担当する。

大河ドラマ「いだてん」のロケが熊本・芦北町で行われ、地元の人達もエキストラとして出演した。金栗四三の生家のある和水町でも、ロケが行われた。

大河ドラマ「いだてん」の本編映像の一部を紹介。

大河ドラマ「いだてん」では、中村勘九郎が金栗四三を演じる。中村勘九郎が、金栗四三を演じる意気込みを語った。大河ドラマ「いだてん」のロケ風景を紹介。

大河ドラマ「いだてん」で、綾瀬はるかは熊本弁で演じている。大河ドラマ「いだてん」のロケ風景を紹介。

金栗四三が、オリンピックで使用した足袋を紹介。金栗四三は、帰国後に足袋の改良に取り組み、晩年までマラソンの発展に情熱を注いだ。金栗が製作に携わった、日本初のマラソン専用シューズを紹介。

嘉納は金栗に「日本スポーツ界のため黎明の鐘となってくれ」と声をかけた。金栗は予選会で足袋の底が途中で破れ、はだしで走っていたとのことで、マラソンに耐えられる足袋がほしいとした。そして、日本初のマラソン足袋が作られ、底には厚めの布が3枚貼ってあった。この布は柔道着が最も近い素材ではないかとのことである。

つくばみらい市で、大正時代の東京を再現したセットが作られ、大河ドラマ「いだてん」のロケが行われた。美術担当の山田チーフプロデューサーは、主張しすぎない色合いに気をつけたと語った。中村勘九郎が走るシーンの撮影が行われた。

南関第三小学校の児童らが、金栗四三のことを歌った歌を作った。南関第三小学校では授業で、金栗の精神を学んでいる。南関第三小学校の児童らが、42.195キロを2日かけて歩いた。

大河ドラマ「いだてん」に出演するビートたけしらが、記者会見で意気込みを語った。

大河ドラマ「いだてん」では、中村獅童が金栗四三の兄を演じる。金栗四三を演じる中村勘九郎が、中村獅童とは兄弟弟子のような間柄だったので、本当の兄弟ができたようでうれしいと語った。大河ドラマ「いだてん」のロケ風景を紹介。

大河ドラマ「いだてん」では、勝地涼が金栗四三の幼馴染・美川秀信を演じる。勝地涼が、美川秀信の親族と話をして、役作りを行った。大河ドラマ「いだてん」のロケ風景を紹介。

大河ドラマ「いだてん」では、宮崎美子が金栗四三の母親を演じる。宮崎美子が、熊本弁で芝居できることがうれしいと語った。大河ドラマ「いだてん」のロケ風景を紹介。

大河ドラマ「いだてん」の見どころを、主演の中村勘九郎が語った。

キーワード
金栗四三
東京オリンピック
いだてん
田畑政治
和水町(熊本)
芦北町(熊本)
高瀬船
美里町(熊本)
玉名市(熊本)
金栗
嘉納
ストックホルム五輪
つくばみらい市(茨城)
ビートたけし
生田斗真
竹野内豊
大竹しのぶ
役所広司
中村勘三郎
坂東三津五郎
坂東玉三郎
市川海老蔵
菊池(熊本)
山鹿(熊本)
美川秀信
西区(熊本)

プロローグ“いだてん” (バラエティ/情報)
03:09~

熊本・和水町の金栗が通っていた玉名北高等小学校では、運動場で子どもたちが走っていた。1891年、明治中期の日本で金栗は8人兄弟の7人目として誕生し、体が弱く泣き虫な子どもであったという。金栗がマラソンランナーへとなった秘密を子どもたちは道徳の授業で勉強していた。金栗は毎日往復12kmの山道を走って登下校するのが嫌であったが、兄の実次の励ましにより走っていた。南関第三小学校では金栗のオリジナルソングを作詞した。

1910年、金栗は東京高等師範学校に入学した。金栗をマラソンランナーに導いたのは校長の嘉納治五郎であった。嘉納治五郎は柔道の創始者で、日本の体育の父とも呼ばれ日本にスポーツを広めた人物である。当時、体育は兵士育成の役割が強かったが、嘉納は心身を鍛えるのに最適と考え、毎年長距離大会を行っていた。新入生の金栗は上級生を抑えて3位となり、嘉納は長距離ランナーとしての金栗の才能に惚れ込んだ。嘉納にはオリンピックに日本人が出場するという夢があり、当時は西洋の国々しか参加していなかった。目指すは第5回ストックホルム大会で、1911年11月にオリンピック国内予選大会が行われた。足袋を履いて挑んだ金栗は2時間32分45秒で完走し、見事優勝となった。しかし、金栗はもし結果が出せなければ国の恥となると考え困惑した。

嘉納は金栗に「日本スポーツ界のため黎明の鐘となってくれ」と声をかけた。金栗は予選会で足袋の底が途中で破れ、はだしで走っていたとのことで、マラソンに耐えられる足袋がほしいとした。そして、日本初のマラソン足袋が作られ、底には厚めの布が3枚貼ってあった。この布は柔道着が最も近い素材ではないかとのことである。

金栗は初の海外遠征のストックホルムで採取した花を押し花にして集めていたという。1912年、金栗は船と列車を乗り継いでストックホルムに向かい、道中をイラストや地図で詳細に記録した。6月2日に17日間かけてストックホルムに到着し、白夜を初めて体験するなどコンディションは最悪であった。7月6日、第5回ストックホルム大会が開幕し、各国の選手団2000人以上が参加する中、日本は団長の嘉納と選手は2人だけであったことから、金栗は生きた心地なしであった。そんな中、金栗はマラソンの練習途中に花を摘んでいた。押し花の多くは金栗の故郷の熊本でもよく見かける植物であった。中でもオオイヌノフグリの仲間が特に好きであったという。

金栗は「道ばたの野ばらをつみてわが部屋にいけて眺むるここちよきかな」として、押し花をすることで心を休めていたと考えられる。7月14日のマラソン当日、ゼッケン番号822の金栗は後ろから5番目と出遅れてしまった。金栗は外人がスタートから速く走ることが初めての経験で慌てたという。そして、折り返し地点でコンディションを崩し、コースを外れて行方不明となってしまった。見つかったのは翌日のことであった。

日本人選手その後の活躍では1920年のアントワープ大会ではテニスの男子シングルスの熊谷一弥が初銀メダル。アムステルダム大会では男子三段跳びで織田幹雄が初金メダル。ロサンゼルス大会では男子水泳で金メダルを5つも獲得した。その世界一の水泳チームを率いた総監督田畑政治を阿部サダヲが演じる。静岡県浜松市の図書館では去年貴重な金栗四三と田畑政治が一緒に写真を撮っていた資料が見つかった。田畑政治は東京にオリンピックを招致して立派な大会をやりたいというのが私の夢であり、大袈裟に言うなら私の人生最大の目標だったと答える。

田畑政治の経歴は異色で、水泳選手としての現役生活はわずか四年。10代の頃病気にかかち医師から競泳の選手を諦めるように宣告されならば指導者で日本一になってやると闘志を燃やした。田畑は東京帝国大学を卒業し新聞社の政治部記者となり、人脈をフルに活用して水泳の連盟を立ち上げた。田畑が特に力を入れたのは世界の実力を選手達に肌で感じさせること。当時アメリカ選手を日本を招いて日米対抗戦を開催した。次の目標は東京でオリンピックを開催することだった。1931年には日本はオリンピック招致に名乗り出、代表は金栗をオリンピックに参加させた嘉納治五郎。当時30代だった田畑は嘉納のもとで学んでいく。日本側がオリンピック委員会たちを説得するために特にアピールしたのが明治神宮外苑競技場。スポーツを国民に普及させるために作り上げた東洋1の競技場で、説得が実を結び東京で1940年にアジア初のオリンピックが開催されることになった。しかし1937年に日中戦争が始まり、海外からの批判が殺到。窮地に追い込まれている時に嘉納治五郎が死去した。求心力を失った日本はオリンピック返上を決定した。戦後わずか二ヶ月で嘉納治五郎の志を継いた田畑が立ち上がった。ロサンゼルス大会で大勝利した時、田畑はスポーツのちからを目の当たりにしていた。

しかし敗戦国の日本は戦後初のロンドンオリンピックに参加が認められなかった。大胆にも田畑は水泳の日本選手権をオリンピックの水泳競技と同じ日程で行うと発表した。多くの日本人が神宮プールに詰めかけた。1500メートル自由形決勝でトップを泳ぐの古橋廣之進。驚異的な記録を出しオリンピック優勝者よりも早かった。この結果は日本人に自信と勇気を与えた。日本は国際舞台への復帰を果たした。残る最大はオリンピックを東京に承知すること。オリンピック委員の説得する上で大きな役割を果たしたのは小学6年の教科書。五輪の旗という文書があり、日本人は誰もが平和な祭典であることを理解し、待ち望んでいることを訴えた。1964年オリンピックは東京に決定。金栗がオリンピックに初めて参加してから半世紀、ついに自国で開催できるまでになった。東京オリンピックの総責任者となった田畑。その貴重なインタビューが残っている。田畑は聖火をアジア各国に回そうと提案した。1964年に東京オリンピック開会式が行われ、国立競技場として生まれ変わった場所で聖火リレーの最終ランナーは現れた。そのランナーは8月6日に広島で生まれた青年で原爆を落としたアメリカに忖度し、周囲が反対する中、田畑は自説を貫き通した。その事実を知った外国人は列を乱して駆け寄った。田畑は平和だからこそオリンピックができるが、オリンピックをすれば平和になるわけではないとしている。

国立競技場は100年前にスポーツの普及のために建設されたが、戦中は学徒出陣の壮行会が行われた。1964年の東京オリンピック開催で本来目指したスポーツの殿堂になった。それが来年のオリンピックで生まれ変わる。設計を担当した建築家の隈研吾さんは10歳だった1964年の東京オリンピックの時に、代々木競技場第一体育館を訪れたのがきっかけで建築家を志したという。隈さんはデザインをする上で1964年という時代との対比を重視した。当時は高度経済成長期だったが、今の日本は少子高齢化で別の豊かさを探す時代なので、そういう時代には木の持っている「やさしさ」を主役につくったという。新しい国立競技場は日本全国から集められた木材が競技場を包み込む。

キーワード
金栗
RUNNER 人生をかえた十二キロ
和水町(熊本)
東京高等師範学校
嘉納治五郎
オリンピック
アテネ大会
ストックホルム大会
スウェーデン
嘉納
白夜
ストックホルム(スウェーデン)
熊本県
菜の花
ブニアス
メギ
セイヨウメギ
ゲンノショウコ
ゲラニウム
オオイヌノフグリ
ベロニカ
田畑政治
熊谷一弥
織田幹雄
浜松市(静岡)
金栗四三
東京帝国大学
日中戦争
東京オリンピック
学徒出陣
第二次世界大戦
国立競技場
  1. 前回の放送
  2. 1月12日 放送