追跡者 ザ・プロファイラー 黒田官兵衛の夢と野望

放送日 2014年7月13日(日) 1:35~ 2:34
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
01:35~

2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の黒田官兵衛を演じているのが岡田准一という事で、岡田自ら黒田官兵衛を徹底プロファイルする。始めは小さな豪族の1家臣にすぎなかったが、その才能はある日突然、織田信長の目に留まり、信長をうならせた知略と駆け引きなど分析する。

キーワード
黒田官兵衛
軍師官兵衛
織田信長
豊臣秀吉
徳川家康
関ヶ原の戦い

黒田官兵衛の夢と野望 (バラエティ/情報)
01:37~

岡田准一によるオープニングの挨拶。まさか自分の番組で自ら演じる黒田官兵衛を取り上げる事になるとはなどと語りつつ、スタジオには官兵衛ゆかりの特別な兜を用意。この兜は朱漆塗合子形兜というもので、黒田官兵衛が10代の頃に手に入れ、終生愛用したと伝えられている。

兵庫県姫路市にある世界遺産「姫路城」は今から400年前、江戸時代に建てられた天下の名城となっている。当時の姫路は中国地方をおさめるための重要な拠点となっており、交通の要所として大きな可能性を秘めた地だった。戦国時代真っ只中の天文15(1546)年に黒田官兵衛が姫路で誕生。その頃はまだ城は無く、注目されない場所であった。官兵衛が生まれた黒田家は姫路周辺を支配する小さな豪族で、播磨をおさめる小寺氏を主君として仕えてきたが弱小勢力だった。こうした中で攻め寄せる敵を度々撃退し、頭角を現したのが官兵衛だったという。

官兵衛が30歳の時、人生の大きな転機が訪れる。西の巨大勢力である毛利が圧倒的な軍事力ですぐ近くまで領土を広げてきた。危機感を強めた小寺は家老たちを集め、今後取るべき道を相談。毛利に従うのが賢明などの意見が出る中、官兵衛は「織田信長の天下になるべき」と提案し周囲を唖然とさせた。織田信長は中部地方を拠点に勢力を急速に拡大し、それまでの軍事や経済の常識を次々に変えていった風雲児。当時、勢力範囲から遠い播磨の人々にとっては信長はいまだ謎の人物であったが、官兵衛は将来性を確信するなど、独自の情報網が秘められていた。

黒田家がおさめる姫路の街を見下ろす山に立つ「廣峯神社」がそのカギを握っており、農業の神を奉るこの神社は当時、日本有数の規模を誇り、豊作祈願をして各地に回る御師と呼ばれる神職が多数存在した。彼らの活動範囲は西は現在の山口県から東は京都・大阪まで及んでおり、その情報範囲は織田信長の勢力圏とも重なっていた。いずれ信長の代が来るとし、官兵衛は主君の小寺に毛利ではなく信長につくよう説得し認めさせた。

官兵衛の魅力について一際思いが強い本郷氏、火坂氏、宮下氏の3人がトークを広げる。火坂氏の考える官兵衛の存在についてはは、アーティストだと語る。それは、政治家より芸術家に近い存在だと考える。宮下氏は近代的なインテリジェンスに近く国家の存亡を考えていたのではと話す。

織田信長が認めた官兵衛について、信長は人間の才能を見抜いたときに惜しげもなく何かを上げる存在だと本郷氏は話した。何故官兵衛は、毛利ではなく信長についたかについては、たとえリスクがあったとしても正しいと思う道を先駆けて進むタイプだった官兵衛の性格や、最先端の考えをもった人と話したいという考えがあり信長についた。

さらに官兵衛は驚きの行動に。姫路を立つや官兵衛は東へと進み、200Kmも離れた岐阜城へ。ここは天下取りをめざす織田信長の拠点。自ら直接信長に会いに出向いた。信長を前に官兵衛は小寺家が服従する申し出にとどまらず、毛利攻めの戦略まで語り始めた。信長は官兵衛の知略と大胆さが初対面で気に入ったといい、褒美に国宝・圧切長谷部を与えたという。その後、官兵衛は周囲の豪族たちを次々と蹴散らし、小寺家の宿敵を抑え込むことに成功した。

官兵衛が33歳となった天正6(1578)年、窮地に追い込まれる大事件が勃発。信長の重臣で強大な軍師力を誇る荒木村重が突如、毛利方に寝返った。荒木の領地は小寺家と織田信長をつなぐ位置にあったため、この寝返りは小寺が孤立する事を意味した。そこで小寺は毛利へ乗り換える事を決意してしまう。これを知った官兵衛は「織田方にとどまるべき」と小寺を説得。小寺は「荒木を説得できるなら考え直す」とした。そして官兵衛は荒木を説得するため、単身で荒木の城へ乗り込むという無謀な行動に出る。無残にも荒木に会う事は出来ず、長期間にわたって牢獄に閉じ込められてしまった。何か月経っても小寺が助けに来ることは無かった。

官兵衛と家臣の絆について、当時の主従関係は契約で、家臣は主人を変えることも出来た。しかし、官兵衛の家臣たちは官兵衛亡き後も家柄を守る契約書を全員で作成していた。家臣から、しても、頭がいい官兵衛だが、家臣が慕いたくなる一面もあったのではと話題に上った。官兵衛は30歳になってようやく家臣たちとの接しかたについて理解した。それを「夏の火鉢 日照りの傘」とたとえた。これは、夏の暑い時期に火鉢は不要で、冬には発揮できる。官兵衛は、相手のいいところを伸ばしてやると言ったことが残っている。

小寺家をはじめとした播磨では、その全域が毛利一色に塗り替えられていた。こうした中であくまで織田方を支持し孤立する勢力が。そこは黒田家の領地・姫路だった。その中心にいたのは官兵衛の家臣たち。官兵衛が行方不明となっている中で彼らは官兵衛の妻に誓いの文章を提出した。官兵衛の投獄から1年、織田軍が荒木の居城を攻略し、閉じ込められていた官兵衛がようやく開放。官兵衛を助け出したのは、誓いの文章に名を連ねていた家臣たちだった。こうした中で官兵衛が主君と信じた小寺家には皮肉な運命が待っており、信長の軍勢が播磨を制圧していく中で毛利方の小寺は不利な立場に。小寺は毛利の地へ逃亡し、官兵衛は信長の配下へ着く事となった。

官兵衛の中国大返しのときの策略を整理する。1、すばやい停戦交渉、2.兵に金をばらまく、3.沿道のまかない飯、4、宿敵の旗、これについて、ゲストに官兵衛のすごいといった所を聞いていく。宮下氏は、毛利との外交交渉だと挙げた。それについて本郷氏は毛利方が背後から秀吉を襲わなかったのは交渉時に官兵衛が何かしたのではと話す。官兵衛役を演じる岡田は、これまでの話を聞いてきて、どのように演じるかについて自分自身のイメージがあるとコメント。

黒田官兵衛が新たな主君としたのが織田信長の重臣・羽柴秀吉、のちの豊臣秀吉。官兵衛が37歳の天正10(1582)年、織田軍の中国方面の司令官である羽柴秀吉とともに、毛利攻略の最中にあった。秀吉の2万5000もの大軍勢は、官兵衛の所領がある姫路を戦略拠点とし、毛利の勢力下へと攻め込んだ。迎え撃つ毛利軍とぶつかったのが、今の岡山県(備中)にある高松城だった。城を取り囲んだ秀吉軍は川の流れを変えて城を孤立させてしまうというもの。

官兵衛の夢と希望について、官兵衛は老荘思想に奉じていた。本郷氏は、官兵衛の他とは違う兜について、ダンディズムがあったのではと話す。また官兵衛はキリスト教に入信していて「ドン・シメオン」という洗礼名だった。これは耳を傾けるという意味がある。それは、哲学的な思考で、当時の男からすると珍しく只者ではなかった。 

そんな最中の6月3日深夜、遥か京の都から「信長公を明智が弑し奉りたり」という信じられない知らせが飛び込んできた。これが「本能寺の変」で信長が明智光秀の謀反に遭い、命を落とした。天下を目前にした信長の急死は勢力図を根底から覆し、政治の中心地だった京都周辺は明智光秀の勢力となり、秀吉軍は前が毛利、後ろが明智に挟まれるという危機に陥った。そこで官兵衛は秀吉に対し「貴公、天下の権柄を取り給ふべき」と囁き、悲しみと絶体絶命の危機を天下取りのチャンスに変えようと提案。官兵衛は直ちに毛利と停戦交渉をまとめて戦いを終わらせ、6月6日に京都へ向けて移動開始。これが俗にいう「中国大返し」となる。

(関が原の戦いで)軍師として完成された何かがあればいいという思いがあったのではと岡田が話した。火阪氏は、官兵衛は自分の知謀がどれほど通じるのか試さざるを得ないという軍師の血が騒いだのでは話す。宮下氏は、哲学者・官兵衛と比喩し歴史を動かすのは才能なのか天命なのか官兵衛は見極めたかったのではと自身の考えを述べた。また官兵衛を演じる岡田は、官兵衛の魅力について現代の人にも通じるまっすぐなものがあったのではと演じてきて思ったと話した。

中国大返しがどれほど大変だったかを石井が当時の足軽の装備で登場。石井がきている当時の足軽の装備は、ひょうたんにお酒、首元にはお米、背中には鍋を背負っていた。当時の足軽がきていた装備は、およそ20kg近くあったのでは考えられていた。 しかも、中国大返しが行われていた時期は6月から7月頃とされ梅雨時で過酷な条件の中で行われた。

秀吉軍はわずか1日半で100Kmを駆け抜け、6月8日の朝に姫路到着。足軽達の疲労は早くも限界に近付いており、ここ危機の乗り越えるべく官兵衛は未来の展望を見据えて蔵が空になるまで金銀を兵士に分け与えた。秀吉軍の士気は一気に高まり、官兵衛は先回りをしてこれから通過する兵士達に飯の準備をして配る「まかない作戦」を行なった。さらに先読みする官兵衛の知略が真骨頂を見せ、先日まで戦っていた宿敵・毛利から手に入れた旗を掲げ、毛利を味方にしたかのような演出に周辺の武将たちも次々と秀吉方へ合流。明智軍1万に対し、秀吉軍は4万という勢力となった。秀吉軍は明智軍を壊滅させ、秀吉は信長の敵を討った。この後、秀吉は信長の後継者として認められた。

官兵衛は、この後秀吉とともに天下を取るべく奔走していく。晩年の名前「如水」から紐解いていく。天下統一を狙う秀吉の尖兵となった官兵衛は、敵対する島津にたいして手紙作戦をとった。これは、島津の武将に精神的なゆさぶりをかける目的があった。武将たちを次々に降伏させた官兵衛は、無用な戦いをさけ僅か10ヶ月で九州制圧を成し遂げた。そして関東を支配する北條氏との戦いに望んだ。官兵衛は一人で北条氏が立てこもる小田原城を訪れ誠心誠意の停戦交渉を行ったといわれる。北條氏を説得した官兵衛は、これで秀吉による天下統一を成し遂げた。秀吉から大分に12万石の領土を与えられた官兵衛は、この頃から秀吉との仲が悪くなっていった。

これまで秀吉に従順に仕えてきた官兵衛は、自分に野心がないことを示す為に家督を息子の長政に譲った。官兵衛44歳だった。この頃官兵衛は出家し、仏の道に入っていた。官兵衛がこの頃につけた名は、水の如しという意味がある「如水」。如水として生きる官兵衛は、水の如く表舞台から身を引いた。秀吉死去後、如水が知人に当てた手紙では、こういう時には、戦で世が乱れると案じていた。次に天下人を狙う石田光成と徳川家康が激突した関が原の戦いでは、如水の息子長政が5千の兵で家康側につき、光成を破る活躍を見せた。誰も居なくなった城で如水は、金を集め兵を率い僅か1ヶ月で九州の半分を納めたが、家康側から停戦命令に応じた如水は戦いを止め、制圧した土地も家康に差し出した。その僅か4年後59歳で如水は死亡した。

キーワード
黒田官兵衛
朱漆塗合子形兜
世界遺産
姫路市(兵庫)
織田信長
毛利
小寺
姫路城
山口県
京都府
大阪府
姫路(兵庫)
岐阜(岐阜)
官兵衛
圧切長谷部
岐阜城
荒木村重
播磨(兵庫)
軍師官兵衛
豊臣秀吉
徳川家康
関ヶ原の戦い
岡山県
明智光秀
中国大返し
石田光成
黒田長政
秀吉

エンディング (その他)
02:33~

エンディング映像。

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