ファミリーヒストリー 山本寛斎〜逆境が力に 母との別れの真実〜

『ファミリーヒストリー』(FAMILY HISTORY)は、NHK総合テレビジョンにて2008年から放送されている、ドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2014年12月19日(金) 22:00~22:50
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
22:00~

今回取材する山本寛斎さんを紹介。番組で伝える内容のダイジェストを流した。

山本寛斎~逆境が力に 母との別れの真実~ (バラエティ/情報)
22:03~

祖父・男寛は故郷高知の製糸工場で働くことになり一家は高知へ。父・一男は男寛のすすめで地元名門の高知県立海南中学校に進学、同級生だった村田惇雄さんによると一男は「人が目をひくような男前、いわゆる美男子」だったという。昭和16年に太平洋戦争開戦、紙の生産統制で男寛の仕事にも影響が出、他の仕事を探すため一家で横浜市磯子区へ。一男は肺に異常が見つかり兵役免除となったため軍需工場で働いたが、ある日電車で後の寛斎の母となる津吹甲子に一目惚れした。

寛斎の母・津吹甲子さんの父は海軍出身で横浜刑務所の刑務官だった。母は小学校の代用教員だった。甲子さんは7人兄弟の長女で幼いころから家の手伝いと兄弟の世話に明け暮れていた。甲子さんの妹・柚井美代さんは、甲子さんはとにかく手先が器用だったと話す。小学校の同級生・鈴木正子さんは、甲子さんはクラスでトップの成績だったと話す。地元の女学校に進学した甲子さんは、自分の服を作るのが唯一の楽しみだったという。

寛斎さんが知りたかったルーツ、中でも気になっていたのは祖父男寛のこと。寛斎さんが幼い時に亡くなったため、写真でしかしらない。山本家は男寛の代で時代の波に乗り大きく変貌していく。山本家の本籍は男寛の代で高知県高岡郡高石村、現在の土佐市に移っている。近くを流れている仁淀川周辺えは土佐和紙作りが古くから盛ん。男寛のことを唯一伝え聞いているのは男寛の孫である川澤洋佑さんと廣井梯子の兄弟。廣井梯子は「大したおじいちゃんだったという風には聞いている」と話した。

山本寛斎は父方山本家のルーツについて詳しいことを知らない。しかし高知に住む親戚との付き合いは殆どない。山本寛斎のコメント紹介。手がかりにしたのは古い戸籍、高知県香美郡香宗村だった。香宗村は現在の野市町にあたる。

甲子さんは電車の中で見知らぬ人に声をかけられる。それが後の寛斎の父・山本一男さんで、戦時中にも関わらず印象的な服装だったという。一男さんの突飛な行動にその日は無視した甲子さんだったが、それから一男さんから熱心にデートに誘われる。断り続けた甲子さんだったが、一男さんからラブレターを渡される。甲子さんは一男さんの根に負けてしまったと話す。

山本寛斎の母・甲子さんは寛斎の弟の家族とともに穏やかな生活を送っている。今年2月、甲子さんの90歳の誕生日を祝うため、寛斎ら兄弟の家族が一同に会した。そんな甲子さんが今回、これまで誰にも見せたことのない写真を見せてくれた。それは、子どもを手放すことになった甲子さんが親子で撮った写真だった。甲子さんはこの写真をずっと心の支えにしてきたという。

父と母の出会いまでを振り返ったが、「祖先というよりも、この当時の大きな時代の揺れみたいなものを感じる」「なぜ高知の人が横浜に戦時中に出てきたか、長い間よくわからなかったが理由がわかった」などと話した。

昭和18年、寛斎の父・一男さんと寛斎の母・甲子さんは結婚。翌年の昭和19年(1944)2月、寛斎が誕生する。一家は高知に疎開することになり、終戦となって一男さんは親戚を頼って紳士服を仕立てるテーラーの仕事をすることになる。

今回の取材で一男さんが働いていたテーラーが見つかり、一男の親戚にあたる岡本寛さんに弟子入りして一人前のテーラーを目指した。しかし、昭和23年(1948)に山本男寛さんが死去し、この頃から一男さんの態度が横暴になってきてしまったという。昭和26年(1951)、一男さんは甲子さんに一方的に離婚を突きつける。甲子さんは子供たちを連れて家を出て、実家のあった横浜市上大岡に戻る。ところが間もなくして一男さんが押しかけてきて「子供たちを返せ」と迫る。甲子さんは子供たちを一男さんに引き渡す覚悟を決め、別れの前日に子供たちを連れて写真館で親子の写真を撮った。

7歳で生き別れた母の初めて知った真実をまとめたVTRを見て、山本寛斎は涙を流して当時の思い出を語った。

高知に引き取られた寛斎たち兄弟だったが、父・一男は子供たちを育てることを放棄。児童養護施設に預け、一男は姿を消してしまった。まだ7歳だった寛斎が幼い弟たちの面倒を見るしかなかったが、一年後に突然一男が寛斎たちを引き取りにやって来て岐阜に移り住み、一男の母・友喜に寛斎たちの面倒を任せた。酒や女性に溺れる荒んだ生活を送っていた一男だったが、テーラーとしての腕は確かで地元の紳士服メーカーの工場長にスカウトされる。そこで作ったスーツをコンクールに出品すると高く評価された。

寛斎の祖父・男寛は21歳の時、政巳と結婚し、翌年には長女・富士江が誕生した。東京・王子の紙の博物館に保管されている「日本紙業大観」には、賎機製紙の住所が記されていた。静岡・水落町の瀧一朗さんは、戦前まで自宅の向かいに賎機製紙があったという。賎機製紙は船が出港する際の紙テープを主力製品とし、男寛は技術者として紙テープの制裁に携わっていたと思われる。

山本寛斎は「参ったなという感じですね。途中から私の中では開き直っていて、日とそれぞれが感情を持っていて愛もあれば怒りもあり、悩みがあるのが人生」、「今は子どもでも父親や母親になり、その人から失望されない生き方をしないといけないと考えている」とコメントした。

山本寛斎の父の一男さんは50代半ばまで 離婚を繰り返し、仕事を止めた後に中学生時代の同級生を訪ね歩いたという。同級生の福永さんは中学時代はそれほど親しくなかったが突然の訪問に驚いたという。一男さんはかつての恩師、公文塾の創始者でもある公文さんも訪ね、自伝に和夫さんが訪ねてきたことも記している。公文さんの部下の中城さんは一男さんは寛斎がj息子であることを語っていたという。

多感な少年時代を過ごした寛斎は父と離れて家を出たいと思うようになり、昭和37年(1962)に大学進学のために上京する。真っ先に訪れたのは母の元で、母・甲子さんは再婚せずに一人でいればいつかまた子供たちと暮らせるかもしれないと思っていたという。

ファッションに興味のあった寛斎は、母の家にあった雑誌でデザイナーの登竜門である装苑賞の存在を知る。自分もデザイナーになりたいと決心し、コシノジュンコさんに弟子入りする。寛斎さんは弟子の中でも異色で、3年後には23歳で念願の装苑賞を受賞する。自分にしかないデザインを追求した寛斎は周囲を圧倒していき、斬新なデザインは海外でも注目を集め、寛斎の服は世界のトップスターたちからも支持されるようになった。

男寛が23歳の時、妻・政巳が病死した。戸籍に書かれている和歌山・藤田村にある南海紙業の社長の孫にあたる瀬戸康治さんは、親から男寛が南海紙業に勤めていたと聞いたことがあるという。南海紙業は現在、旭化成ケミカルズに引き継がれており、男寛が工場長として働いていたことが分かった。また、男寛は二段廻流式丸網抄紙機を考案したことも分かった。

男寛は、友喜と再婚。大正11年には長男の一男が誕生した。一家は豊な生活を送り、当時南海紙業の近くで暮らしていたという鳥居美喜雄さんは、一家が暮らした跡地を案内し、山本家にはラジオがあると近所でも有名だったと話した。

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エンディング (その他)
22:46~

「ファミリーヒストリー 石田純一 」の番組宣伝。

エンディングが流れた。

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