ファミリーヒストリー 「中村勘九郎〜中村屋 挑戦の原点〜」

『ファミリーヒストリー』(FAMILY HISTORY)は、NHK総合テレビジョンにて2008年から放送されている、ドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2019年2月11日(月) 19:30~20:43
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
19:30~

歌舞伎俳優6代目中村勘九郎さん。大河ドラマ「いだてん」で主演を演じている。18代目父(提供)は同じく大河ドラマ元禄繚乱の主役を務めた。

今日のゲストは中村勘九郎さん。今まさに走っているなどと話した。

キーワード
いだてん
中村勘九郎
中村勘三郎
新・平家物語
元禄繚乱

中村勘九郎 (バラエティ/情報)
19:32~

勘九郎の曽祖父である時蔵は「はの」と名乗っていたが、いつの間にか「なみの」になっていったという。波野という名字をつけたのは、時蔵の父方の屋号が丹波屋、母方が平野屋だったのでそこから1文字ずつとった結果だという。時蔵は父と同様に俳優の道へと進み、明治6年に東京の芝居小屋から誘いがかかる。時蔵は自分の芝居を試すため東京へ行く前に、長田神社で祈願したという。時蔵は浅草の市村座という芝居小屋に出演した。時蔵は「一谷嫩軍記」で重要な役をつとめるが、衣装が地味だと断ってしまった。そんなある日、小屋でボヤ騒ぎがあったが時蔵は自分で火を消してセリフのように客の前で言い回した。絶妙な言い回しに客は沸いたという。58歳になった時、時蔵は中村歌六を襲名して妾となる人物と親しくなっていた。この妾が勘九郎の曾祖母にあたる人物だった。

昭和64年に父を失った哲明は中村屋を背負うことになった頃、歌舞伎界は低迷化を迎えていた。そこで若者の街・渋谷で歌舞伎を行うなど挑戦を続けてきた。哲明の妻・好江は哲明が舞台前におまじないして舞台に上がったとのこと。平成12年に哲明がさらなる挑戦として浅草にある芝居小屋の復活を考え、浅草中を周り協力を求めた。

中村勘九郎さん本名は波野雅行。波野家のルーツはほとんど聞かされていないという。波野家の戸籍から分かる最も古い先祖は4代前の高祖父・歌六は女形として人気を集めた。大阪市立大学の名誉教授坂口さんが今から約200年前の記録が保管されており紹介。歌六は他の役者に比べて非常にレベルが高かったよう。歌六は養子に入り6歳で俳優となりその後人気俳優となり81歳まで舞台に立った。早稲田大学演劇博物館で歌六に関する記述を見せてくれた。やはり俳優としてのランクは高かったよう。

VTRを振り返り、丹波屋と平野屋がルーツ、台本上じゃないアドリブはお父様の特徴もすごいなどと話した。

中村勘九郎の曾祖母 山本ろくの本籍地は浅草寺のすぐ裏手、待合を経営していた。95歳の戸田美代子さんが幼い頃はまだ待合の風情が残っていたという。当時ろくは義太夫を教えていた。中村歌六と親しくなり聖司(十七代目 中村勘三郎)誕生。ろくの父 山本竹治郎は江戸歌舞伎の開祖と呼ばれる中村勘三郎という俳優を好んでいた。波乃久里子は竹治郎が名古屋弁で聖司に勘三郎を継ぐと言っていたと語る。聖司は7歳で初舞台を踏む。それから間もなく歌六が死去。ろくは聖司をいい役者にしてみせると誓った。そこで資産家男性から支援を受けることにした。

中村勘九郎は父親について映像で見ているといまだに信じられない、ポロッと出てきそうとだという。有言実行の父親で「俺は早死にするから」と言っていた、そんなところまで有言実行にしなくていいんだよって思ったという。芝居をしているときに怒られるのが一番怖かったと話した。ファミリーヒストリーを知って、みんな情熱を持って楽しんで芝居している人たちだったなと思うので、楽しむことが一番だなと思ったと話した。

平成27年4月、十八代目 中村勘三郎の追善公演が平成中村座で行われた。勘九郎さんは会場を満席にし、見事に成功を収めた。2年後に勘九郎さんの2人の息子が初舞台を迎えた。演目は桃太郎。この時に2人が着たのは、勘九郎さんと七之助さん兄妹が30年前に使った衣装だった。60年前、父の初舞台も同じ桃太郎だった。芸は受け継がれていく。今、勘九郎さんは大河ドラマ「いだてん」の主役を演じている。祖父と父も大河ドラマに出演した。劇作家の野田秀樹さんは父の勘三郎さんと交流があった。野田さんは勘九郎さんのことを真面目で膝を壊してまでやるような役者さんなので、すごみは随分出てきていると思う、父親にはできなかったものを自分で探してきてやってみせれば大きな自信になるのではかいかと話した。

勘九郎の祖母となる寺島久枝の父は六代目尾上菊五郎こと寺島幸二。幸二は妾の子で後ろ盾の父も早くに亡くした。それが原因で肩身が狭い思いをし、悔しさから稽古を積み17歳で六代目尾上菊五郎を襲名する。ある日子役である中村米吉こと波野聖司に声をかけた。同じような境遇の聖司に「妾の子は偉くなる」などと話し、聖司を事あるごとに気にかけるようになる。

2人は千葉・市川市に引っ越す。聖司はここから東京の劇場に通った。ろくは男性から一軒の料理屋を任された。中山裕子さんの家の金庫には料理屋にお金を貸した記録が残っていた。ろくは聖司に様々な習い事をさせ、借金をセざるを得なかったという。

5ヶ月後、哲明が初舞台を踏み五代目 中村勘九郎を襲名。テレビ・CM・映画などに次々と出演し、その堂々たる演技でお茶の間の人気者となった。哲明は父・勘三郎から歌舞伎の基本を厳しく教え込まれたが、それを嫌がることはなかったという。哲明は演技に磨きをかけ、歌舞伎界を代表する俳優の一人になっていった。25歳になった頃、七代目 中村芝翫の娘・中村好江と婚約。

中村聖司は身寄りのない飴売りのお婆さんと出会い、一緒に暮らすことを申し出た。ろくは自宅に引き取ることを許した。このことは東京朝日新聞に載っている。また聖司はその後ホームレスの人と仲良くなり引き取ったこともあるという。聖司が14歳の頃、ろくは本家に行くことを提案、聖司は本家の兄、初代 中村吉右衛門と暮らすことになる。兄の後押しもあり聖司は中村もしほを襲名、いい役につけるようになった。そして昭和10年、母と一緒に暮らすため東宝劇団へ移籍、様々な役に挑戦した。昭和14年に東宝劇団の経営が傾き、再び松竹に戻ることになった。翌年、六代目 尾上菊五郎の長女と縁談が持ち上がった。

十七代目中村勘三郎こと聖司は、70歳を超え俳優として円熟期を迎えていた。雅行が勘九郎が4歳の時に盛綱陣屋で小三郎という役で、出したくて、自分の息子役に孫の雅行を指名した。座る場所がまちまちで注意されたが4歳でできなくて、引っ込んできたら烈火のごとく怒ったという。中村勘三郎は「雅行を怒ったんじゃないんだよ、周りのお弟子さんとかいろんな人がちゃんと教えないってそのことをお弟子さんたちに、大事な孫にでもこれだけ怒るんだってことを知らせたかった。ごめんよ」と何回も謝っていたと好江さんは語った。“”年後の昭和63年4月、十七代目中村勘三郎こと聖司は78歳で亡くなった。生涯に演じた役の数は803、それは俳優人生を貫き通した証でもあった。

聖司と久枝の縁談が持ち上がり、六代目尾上菊五郎を崇拝していた聖司の母ろくは大いに喜ぶ。そして昭和18年に2人は結納を交わした。しかし時代は戦争の只中で大劇場が閉鎖され、若い歌舞伎俳優も次々と戦地へ。そして聖司にも召集令状が届き、歩兵第49連隊への配属を命じられた。ところが入隊した日の検査で痔が悪いとわかり、即日帰郷になった。

勘三郎という名前について、縁があったのかなあと思いますねと中村勘九郎がコメント。また、父が子どもの頃にテレビで芸能人運動会の選手宣誓をやっていたのを明石家さんまがが見て芸人を志したというエピソードを披露した。

VTRを振り返り、中村勘九郎の祖父は苦労を本当にしたと思う、お婆さんを引き取ってきたのはびっくり、情に厚い人だったんだろうなどと話した。中村勘九郎もホームレスの人と仲良くなりお年玉を渡したことがあるという。

戦史研究家の白石氏は「徴兵検査の記録では約1%が痔で外されている」などと話した。聖司が入隊するはずだった歩兵第49連隊はその後レイテ島でアメリカ軍と激戦し、日本兵の9割が亡くなった。聖司は昭和19年に久枝と結婚。翌年2人は鎌倉に疎開し終戦を迎えた。間もなく後に勘九郎の叔母となる久里子が誕生した。同じ頃歌舞伎が再開され聖司は再び舞台に立つようになった。昭和24年春に松竹の社長大谷竹次郎に呼び出され「名跡を預かっている中村勘三郎を世に出したいと思う」と言われる。聖司は幼いころ祖父山本竹治郎からよく中村勘三郎の名前を聞かされていた記憶が蘇り「ゼロから勘三郎を作れる」と考え、翌年「中村勘三郎」を襲名し中村屋という屋号を名乗った。

中村勘九郎は4歳の頃に優しいおじいちゃんが「長刀の前に座んなさい」とずっと言われていて怒られたのを覚えているという。祖父にごめんよって抱きしめられた記憶はないという。

エンディング (その他)
20:42~

「ファミリーヒストリー」の次回予告。

番組宣伝 (その他)
20:42~

「鶴瓶の家族に乾杯」の番組宣伝。

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