ファミリーヒストリー SAM(TRF)〜医師の家系に生まれて 亡き父の思い

『ファミリーヒストリー』(FAMILY HISTORY)は、NHK総合テレビジョンにて2008年から放送されている、ドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2018年11月26日(月) 19:30~20:43
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
19:30~

TRFのダンサーSAM。本名は丸山正温。丸山家は明治時代から続く医者の家系。自らのルーツについては知らないという。SAMの家族の歴史を追った。

本日のゲストはTRFのSAM。SAMは「今の僕の代で、医者なんですけど4代目っていうのは知っている。だいぶドキドキしている」などと話した。

キーワード
TRF
SAM
丸山正義

SAM(TRF) (バラエティ/情報)
19:33~

SAMの実家、丸山家は埼玉・岩槻区で総合病院を営んでいる。SAMは5人兄弟の2番目、長男の正隆さんは歯科医師、弟の正統さんは産婦人科医、四男の正詩さんは整形外科医。現在病院の理事長を務めているのは叔父の正董さん。初代の丸山龍八は勝浦藩所属の武士だったが、大岡家が移封してきて丸山龍八が呼ばれ、岩槻に来て丸山家が始まった。岩槻市史は江戸時代の岩槻藩の様子が書かれている。大岡家の家臣が200人ほど書かれていて、そこに丸山吉定の名前が書かれていた。吉定はSAMの4代前の高祖父。吉定は藩士の監督をしていたという。吉定に関する資料が発見された。1861年、皇女和宮が徳川家茂に嫁いだ。和宮は中山道を通り江戸へと向かい、吉定はその街道の警備を担当していた。吉定の日記をさいたま市立博物館の学芸員に見てもらった。「警備にあたった人の記録はあまり残ってなくてすごく貴重な資料」などと話した。時代が明治になると、吉定は埼玉県庁の職員になっていた。浦和に置かれた埼玉県庁は岩槻から10キロ以上離れていて通勤するのは大変だった。そこで県庁近くの宿で下宿生活をおくっていた。吉定は埼玉県庁で租税係を担当していた。明治政府の大改革、地租改正を推し進める立場だった。

吉正は妻との間に1人娘のよ袮をもうけた。吉正の孫の妻、丸山松枝さんがよ袮の写真を見せてくれた。吉正はその後、男の子ができず、よ袮に婿を迎えた。よ袮は式台のある家に住みたいと行っていたので、式台は武家の屋敷によく見られ、医者の屋敷にもよくあったという。そこで医者の婿を探した。吉正が下宿していた女将が、甥っ子で医者だった横田吾郎を紹介した。この男性が後にSAMの曽祖父になる人物だった。明治29年、よ袮と吾郎は結婚し丸山家の婿養子に入ることになった。

SAMは「もともと丸山家は医者じゃなかったんですね」などと話した。

SAMの曽祖父で丸山家に婿養子に入った横田吾郎。横田家の実家をたどると意外なルーツが浮かび上がってきた。埼玉・羽生市に住む横田家の子孫のもとを訪ね話を聞いた。横田武子さんは、吾郎の姪にあたる。家系図を見せてもらうと山ノ内氏勝という名前があった。氏勝は会津の戦国武将で、横田を名乗る前は山ノ内という性だった。福島・金山町に山ノ内氏勝の直系の子孫がいることがわかり訪ねた。山ノ内不二彦さんは「伊達政宗との戦いが大きな戦いになったことがあるが、抵抗し続けた勇気ある武将です」などと話した。氏勝が使用した馬具や、石田三成、上杉謙信からの書状を見せてくれた。山ノ内家は中丸城を構え、鎌倉時代からこの地を治めてきた。しかし1590年、奥州仕置ですべての所領を失った。SAMの直系の先祖に当たるのが氏勝の二男、氏重だった。奥会津の地を取られた氏重は江戸に出て、性を横田とした。その後、氏重の息子の氏澄は眼科医になった。

横田氏澄が知り合いのツテで移り住んだのが武蔵国にある榎戸村、現在の埼玉・鴻巣市だった。郷土史家の加藤勉さんが横田の屋敷の写真などを見せてくれた。横田家は昭和20年頃までこの地で病院を営んでおり地元の名医師だった。加藤勉さんは横田家の歴史を調べる中で、江戸時代後期の人物に注目した。6代目の横田玄庵は、眼科医、土生玄碩の一番弟子だった。土生玄碩は徳川家斉から奥医師として抱えられ日本中に名を轟かせていた。土生玄碩のもとで当時最先端の医療を学び榎戸村にもどった横田玄庵。掛け軸にはその当時のことが書かれていた。1828年、土生玄碩は、瞳孔を開く薬があると聞き、シーボルトのもとを訪ね瞳孔を開く薬を教えてもらう見返りに、奥医師として将軍から拝領した葵の紋服を渡した。その後、シーボルトが帰国する際、持ち出し禁止の日本地図や、紋服を持ち帰ろうとしたことが発覚。これが世にいう「シーボルト事件」だった。土生玄碩は財産を没収され牢に入れられた。医者だった息子の玄昌も職を失った。そんな玄昌を世話したのが横田玄庵だった。玄昌はそのお礼にシーボルトの技術を横田玄庵に伝えたという。

横田家に明治5年に二男として誕生したのが横田五郎だった。明治22年、五郎は東京慈恵医院医学校に入学した。東京慈恵医院医学校の創立者、高木兼寛は「病気を診ずして病人を診よ」という言葉を残し、患者に寄り添った医療に尽力した明治を代表する医師。高木から直接教えを受けた五郎は21歳で医師の免許を取得した。その翌年、日進戦争が勃発し、陸軍は民間の医師を雇員として募集。五郎はこれに応募し医師として出征し軍医部長を務めていた森鴎外のもとで働いた。明治29年、帰国した五郎は、丸山よ袮と結婚し丸山家の婿養子となった。そしてその年、岩槻に丸山医院を開業した。

VTRを見てSAMは「すごい奥までいきましたね。ちょっとびっくりしましたね。ご先祖様は面倒見がいいですね」などと話した。

SAMは「自分の先祖のことですけど立派だなと思いますね。僕は4~5年前から無性に能に興味をもっていて。能を習いたいと言うか、だからそのルーツが流れているのかなと思いました」などと話した。

明治29年、丸山五郎は埼玉・岩槻に丸山医院を開業した。北里研究所で五郎に関する記録が見つかり紹介した。当時、コレラや赤痢などの感染症は死に至る病として恐れられていた。五郎は北里柴三郎のもとを訪ね直接教えを受けた。明治39年に発行された細菌学雑誌の中に五郎のレポートがあった。五郎のもとに顎が痙攣し口が開かなくなったという少年が訪ねてきた。少年は1ヶ月前に竹やぶで転び足を怪我した。五郎は破傷風だと診断し手術を行って少年の命を助けた。明治44年の新聞で丸山医院の記事が見つかり紹介した。

長男の正、SAMの祖父は大正8年に東京帝国大学医学部に入学し家庭教師のアルバイトを始めた。教えていたのは当時女学校に通っていた、赤間光子。後のSAMの祖母となる。正と赤間光子は大正15年に結婚した。結婚式での写真を紹介した。

光子の祖父は宝生金五郎英周。伝統芸能の能で明治の頃、名人として名をはせた人物。13代目家元の宝生欣哉さんはSAMと高祖父が同じ。宝生欣哉さんは「能とダンスは共通点を多い、手先、手足とか気にして舞台に出ないときれいには見えない」などと話した。

丸山正は光子と結婚した翌年に東京帝国大学の大学院に入学し最先端の医学を習得した。その後、地方の病院で経験を詰み、昭和11年に岩槻の実家に戻ってきた。正は最新の設備を備えた病院を新築し患者に寄り添った診療に明け暮れ医療費が払えない患者からはお金を取ることはなかったという。昭和3年に生まれた、正義も父のような医者になり病院を継ぎたいと思うようになった。正義は順天堂医学専門学校に入学した。当時の同級生の吉元昭治さんは「成績は優秀だった。親父を尊敬していたんじゃないですか。あと継がなきゃいけないという義務感は持っていたはず」などと話した。卒業後、東京大学医学部産婦人科学教室に入局し岩崎寛和と出会い仲良くなった。岩崎寛和には温子という妹がいた。

SAMの母、温子のルーツを辿った。最も古い戸籍に寄ると4代前の高祖父、岩崎三四郎は、山口・周南市で暮らしていたことがわかった。徳山市史に岩崎家に関する記述が見つかった。三四郎の父は藤助といい「磯松屋」という店を営んでいた。磯松屋は江戸時代に、ロウを作っていた。岩崎家があった場所を紹介した。明治維新後、三四郎は、菜種などをつかった油の生産を任された。その後も油の生産などを続けた岩崎家は財をなしていった。明治31年に生まれたのがSAMの祖父、寛一だった。

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エンディング (その他)
20:42~

ファミリーヒストリーの番組宣伝。

SAMは「ここからですね、地元の人達に還元していくのは」などと話した。

番組宣伝 (その他)
20:42~

鶴瓶の家族に乾杯の番組宣伝。

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