ファミリーヒストリー ロバート秋山竜次〜75年前の事件浮かびあがる不思議な絆

『ファミリーヒストリー』(FAMILY HISTORY)は、NHK総合テレビジョンにて2008年から放送されている、ドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2018年10月29日(月) 19:30~20:43
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
19:30~

今回の主人公はロバートの秋山竜次。この日は秋山竜次が手がける「クリエイターズ・ファイル祭」を行っていた。自ら考えた架空の人物を演じその動画をインターネットで配信していてキャラクターは40人以上いる。番組では秋山に変わり家族のルーツを取材した。

池田伸子らの挨拶。本日のゲストはロバートの秋山竜次。秋山竜次は「ちょっと緊張してます。どういうファミリーなんだろうって思ってます」などと話した。

キーワード
池袋(東京)
クリエイターズ・ファイル
梅宮辰夫

ロバート 秋山竜次 (バラエティ/情報)
19:33~

秋山竜次は福岡・門司区で生まれた。門司区役所を訪れ古い戸籍を調べた結果、明治の初め秋山家の本籍は現在の門司区の庄司町にあることがわかった。明治の地図を見ると今の庄司町付近に10数軒の家が書かれていて周りは一面の田畑だった。農家に生まれた秋山の曾祖父、秋山利作は二男だったため家を出たという。

利作について伝え聞いてる羽場いつ子さんは祖父が利作と親しかったという。利作は仲町で大きな米の卸屋をやっていて大繁盛していた。利作は明治22年、32歳で結婚した。相手は小川ユリで竜次の曾祖母になる。ユリの出身地は田野浦で明治時代は漁村として栄えていた。田野浦で長く暮らしている豊浦弘さん。ユリの実家は地元でも有数の資産家で田野浦でも1、2位を争う名家だったなどと話した。明治33年に2人の三男として生まれが秋山の祖父・秋山松次だった。

松次の次女で竜次の伯母にあたる秋山久乃さんは門司で倉庫会社を経営している。戦時中の空襲で古い写真はほとんど焼けてしまったが、残っている中で一番若い松次の写真を見せてもらった。松次は昭和の初め20代の若さで10数人の職人を雇い秋山組を立ち上げた。鉄でタンクや階段などを作りビルや工場に取り付ける仕事だった。当時、秋山組が手がけた建物が「旧 門司食料倉庫」だった。松次の母方の親戚、小川辰男さんは「モダンなきっぷのいい、いいおやじだった」などと話した。昭和14年、松次は、通行人が荒くれ者に絡まれ助けに入ったが、荒くれ者を怪我させてしまい追われる身となった。松次が身を寄せたのが親戚の辰夫さんの家だった。

しばらく身を隠していた松次は、昭和14年、妻と長女を連れ満州の鶴岡へと向かった。鶴岡は今でも石炭の採掘が行われている。旧満州時代はここで1000人を超える日本人が働いていた。松次の長女・今長谷タカさんは「覚えてます」などと話した。松次は炭鉱施設の補修の仕事を始めた。松次が住んでいた工員用の住宅は2年前まで使われていて、撮影の3日前から再開発のため取り壊しが始まったという。昭和17年、次女の久乃が生まれ、仕事は順調で50人ほどの作業員を雇うまでに成長した。しかし昭和19年、松次は急にソ連が危ないと日本に帰ると言い出し5年ぶりに門司へ戻った。再び秋山組を立ち上げ仕事を始めた。ところが昭和20年、6月米軍による大空襲を受けた。家族は山の中腹の防空壕に逃げ込み生活をした。満州では8月9日にソ連軍が進行してきて多くの日本人が命を落とした。昭和25年、竜次の父となる幸重が生まれた。

秋山竜次は「満州に行っていたのも全然知りませんでした」などと話した。

秋山竜次は「傷ありましたね、背中にも事故かなんかのやつがあって。父の分まで脱いでます」などと話した。

竜次の父・秋山幸重さんは門司港に停留した船でレストランを営んでいる。地元ではロバート秋山の父としてテレビにも出演している。松次からは人間の持ち時間は一緒であって、その持ち時間の中で好きなものに夢中になればいいという生き方を教えられた。幸重さんは高校を中退し夢の芸能人になるためレストランで働き資金を貯めた。昭和44年19歳で上京し、歌舞伎町のバーで住み込みで働いた。客で来ていた映画会社の社員から役者になりたいなら研修所に入れと言われ、東映の研修所に通った。しかし2年経っても芽が出ず、ある俳優に大部屋に入れてくださいと直談判した。大部屋に入りちょい役で映画などにも出始めたが、まだ芸名はなかった。幸重が直談判した俳優は城春樹さんだった。当時、東映のトップスターだった梅宮辰夫さんの映画にも少しだけ幸重が出演していた。

ようやく幸重は夢への階段を登り始めたが、肺気胸に侵され1年間の入院を余儀無くされた。胸に大きな手術のあとが残ってしまい幸重は役者の人生は終わったと夢を諦めた。幸重は22歳で地元に戻りレストランで働いた。資金が貯まると小さな喫茶店を始めた。そしてウエイトレスとして入ってきて女性に心を奪われた。その女性が後に竜次の母になる、横尾登代子だった。

竜次の母・登代子さんの実家には大量の写真が残っていた。写真を撮ったのは竜次の祖父・横尾登一だった。登一の戸籍を調べると養子だったことがわかり、元の性は山本だった。山本家の本籍は三重・川添村と書かれていた。本籍地には今は別の人が暮らしていた。山本家を知る西岡キヌさんは「この辺に山をたくさんお持ちでした」などと話した。山本家の子孫が松阪市で見つかった。山本裕さんは登一の従兄弟の長男にあたる。山本次郎吉は竜次の高祖父にあたる人物で、山を資本にして雑貨店や食料品店やいろんな商売をしていた。竜次の曾祖父にあたる義一郎の戸籍を調べると大正11年、三男として生まれ、生まれた場所は台湾の台北だったことがわかった。

義一郎は台湾で山京運送店という店を営んでいた。義一郎がいた大正時代、台湾・嘉義には6000人ほどの日本人が暮らしていた。江振裕さんが日本統治時代の地図を見せてくれた。山京運送店のあった場所は現在、商店が並んでいた。義一郎たち日本人の運送店が運んでいたのは台湾ヒノキだった。大正9年に立てられた明治神宮の大鳥居は台湾ヒノキでつくられていた。現在の鳥居は2代目でこれも台湾ヒノキで作られている。義一郎は台湾で家政婦として働いていた森カイと出会った。森カイは明治31年、熊本の湯島村の生まれで義一郎と結婚したのは大正3年、16歳の時だった。天草諸島は耕作地が少ないため多くの人が台湾へ出稼ぎに行ったという。大正11年に三男として生まれたのが登一、のちの竜次の祖父。昭和4年、義一郎は40歳で亡くなり登一ら4人の息子が残された。一家は台北に引っ越しをした。ある日、知人から小学生だった登一を養子に出さないかと持ちかけられた。登一が養子に入ったのは、カイの故郷・天草にあった横尾家だった。

秋山竜次は「まさか、じいちゃんが台湾だったのは聞いたことがなかった」などと話した。

昭和の始め登一は幼くして天草諸島にある湯島にやってきた。渡邉時雄さんに登一の養父となった横尾英太郎の写真を見せてもらった。英太郎は湯島の漁業協同組合に職員として勤めていて、島の総会議員も務める名士だった。登一の幼馴染・石橋ツギノさんが見つかり話を聞いた。石橋さんは湯島尋常小学校で登一と同級生だった。登一は小学校を卒業し進学するために島を出た。秋山登代子さんが詰め襟姿の登一の写真を見せてくれたがどこの学校かはわからなかった。写真の裏には新井薬師のスタジオにてと書かれていた。戦後、友人から登一に送られてきた手紙の中にも新井薬師の文字があった。差出人は浅川泰介さんは亡くなっていたが、その娘と連絡がとれた。娘が持っていたアルバムに手がかりがあった。陸軍気象部の通信班に委託生として入部と書かれた写真があった。陸軍気象部は昭和13年に東京・杉並区に作られた。戦後に書かれた陸軍気象部の学生一覧に横尾の名前があった。当時、登一は新井薬師のそばに下宿し陸軍気象部に通っていた。昭和17年、20歳になっため登一は陸軍に入り通信兵として出生した。向かったのは中国大陸だった。昭和19年5月、大陸打通作戦に参加した。大陸打通作戦に動員されたのは50万の兵士、約1500kmを歩いて行軍しなければならなかった。大陸打通作戦に参加した小澤喜代志さんは「これ以上は痩せれないっていうほど、みんな痩せた」など話した。途中、米軍の戦闘機による攻撃を受け、登一は銃弾を受けたという。大陸打通作戦では10万を超える兵士が命を落とした。昭和21年6月、終戦を迎え登一は鹿児島港に上陸した。

養父母の待つ、熊本・湯島に向かった登一は、永太郎が天然痘にかかり死亡したことを知った。当時の新聞には永太郎と永太郎から感染した島の人が亡くなったことを報じていた。登一は福岡に向かい知り合った女性、ウタコと結婚した。昭和24年に生まれたのが長女の登代子、後の竜次だった。登一は福岡の工場で工員として働いた。登代子は高校を卒業してしばらくすると地元の喫茶店で働き始めた。その店を営んでいたのが、竜次の父、秋山幸重だった。

戦争で祖父が銃弾を受けたことについて秋山竜次は「いつも話してくれましたよ。だいぶ友達も亡くなったといっていた」などと話した。

秋山幸重は昭和48年に登代子と結婚し昭和53年に竜次が生まれた。間もなく幸重は、妻子を置いてアメリカ・ロサンゼルスに旅立った。アメリカで車庫に眠っている中古車を買い取り、日本やサイパンで販売すると飛ぶように売れた。そんな中、秋山家には力也と健三の2人の息子が誕生した。竜次の親友の請川博文さんは「最初の印象はあまり喋らなかった。瞬間的に人の特徴をつかむということはすごかった。近所のおばちゃんのものまねだったりとか」などと話した。平成9年、高校を卒業した竜次は上京しやりたいことを探した。最初にはじめたのはビルの天井裏のダクト掃除の仕事だった。その会社の社長は秋山のことを「真面目ですね 本当に あんまり、しゃべらない子だった」などと話した。やりたいことを見つけられなかった竜次が書店でたまたま手にとったのがお笑いの情報誌だった。その中に東京NSCの記事があり、幼馴染の馬場を誘って東京NSCに入った。平成10年、養成所で知り合った山本と3人でお笑いトリオ「ロバート」を結成した。この頃先にテレビ出演していたのは父だった。NHKが新しいビジネスを取材していた。幸重は日本の農家で使われなくなったトラクターなどを安く買い集め東南アジアなどに輸出し1年に1万台売った。そのころ、竜次はビルの上から交差点を見渡し人間観察をしていたという。ロバートは、竜次が演じるくせの強いキャラクターが受け人気を集めていった。ブレイクするきっかけになったネタが、梅宮辰夫の体ものまねだった。梅宮辰夫は「僕の顔をお面にして使っていいかという問い合わせはあった、いいよいいよと言うところから始まったんですよね」などと話した。

秋山竜次は父について「勉強するな的な親父だった。学資保険を貯めていた分、大学いくならあげないから、このお金でどっか行くとか、部屋借りるお金にしなさいと言ってくれた」などと話した。

50年ほど前、梅宮辰夫主演の映画に出演していた父・幸重さん。梅宮さんは幸重さんのことは覚えてなかった。梅宮辰夫は幸重に「今 あんたの息子の世話になってるよ 俺は」などとメッセージを送った。クリエイターズ・ファイルをきっかけに上天草市が秋山に協力を依頼した。上天草市は、秋山の祖父・登一が台湾から養子にきた湯島がある。そんなつながりを市の職員も秋山自身も知らずにPR動画を撮影した。PR動画を撮影した場所は祖父・登一が通った湯島小学校でも行われた。そして今回、湯島小学校であるものが見つかった。曾祖母のカイさんもこの小学校を卒業していた。

秋山竜次は「小学校にルーツがあったのは全然知らなかった。これは凄い」などと話した。

キーワード
門司区(福岡)
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秋山利作
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20:42~

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