ファミリーヒストリー オノ・ヨーコ&ショーン・レノン

『ファミリーヒストリー』(FAMILY HISTORY)は、NHK総合テレビジョンにて2008年から放送されている、ドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2017年12月20日(水) 1:00~ 2:13
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
01:00~

今回はジョン・レノンの妻でアーティストのオノ・ヨーコさんと、一人息子のショーン・レノンさんが家族の歴史に向き合う。最近、体調が芳しくないと報じられていたヨーコさんだったが、番組の取材には元気な姿を見せていた。ヨーコさんは病気になり周りからは「あと3週間ぐらいで死ぬんじゃないかな」と言われていたという。収録は米・ニューヨークにあるショーンさんの仕事場で行われ、ヨーコさんが日本語版の画面、ショーンさんが英語版の画面を見るというスタイルで行われた。

キーワード
ニューヨーク(アメリカ)
ジョン・レノン
オノ・ヨーコ
ショーン・レノン

ファミリーヒストリー (バラエティ/情報)
01:02~

北海道・札幌でヨーコさんのいとこにあたる小野有吾さんのもとを訪れた。有吾さんは北海道大学名誉教授。長年、小野家の歴史を調べてきた。有吾さんの家にあった一番古い写真は、天保4年に生まれた曽祖父・作十郎のもの。筑後柳川藩に仕える武士だった。小野家のルーツをより深く掘り下げたいという有吾さんと共に福岡・柳川市を訪ね、旧柳河藩の資料などが収蔵されている柳川古文書館へ。江戸時代、小野家の石高は100石。明治維新後は10石になったと記されていた。

明治10年、ヨーコさんと有吾さんの祖父・英二郎さんが家督を継いだ。武士の身分を失った小野家において自らの手で人生を切り開こうと考えた英二郎は、学問を身に着けようと柳河中学へ入学。京都の同志社英学校を卒業した先輩の演説を聴き、人間平等・博愛主義・キリスト教を通して語られる西欧の神秘的な姿に魅せられた。明治13年、英二郎は同志社英学校へ入学。父・作十郎は田畑を売り払い学費を捻出した。英二郎は同志社英学校の創設者・新島襄に出会いキリスト教の洗礼を受けた。しかし明治16年、徴兵令が改正。それまで免除されていた私立学校の学生も対象となった。生徒は同志社をやめるか、転校するか、留学で逃げる、という選択肢しかなかったという。学問を続けたかった英二郎は、徴兵が免除される東京帝大などを受験するも失敗。郷里・柳河の先輩で文部省官僚だった清水彦五郎の勧めなどもあってアメリカへと渡り、オハイオ州の大学へと留学した。渡航費用は父が借金をして工面した。英二郎は図書館の手伝いや給仕などをして学費を稼いだ。

英二郎はその後、ミシガン大学大学院へ入学。経済学を学んだ。当時英二郎が書いた論文には、江戸から明治への転換期にある日本が近代国家となるためには経済・金融面でどう歩むべきかが記されていた。その後、英二郎は教授全員の薦めで博士号を取得。このことは地元の新聞にも掲載された。

英二郎は柳川に暮らす父・作十郎へ頻繁に手紙を送っていた。作十郎は英二郎から送られてきた手紙の期日を詳細に記録している。しかし、博士号を習得してから1ヶ月後、父・作十郎が死去。英二郎は急遽帰国せざるを得なかった。日本に戻ってすぐ恩師の新島襄にも手紙を送っている。新島は英二郎に対し「同志社が新たに作る政治経済を専門とする学校の責任者になってほしい、ついてはドイツに留学してきてほしい」と要請していた。英二郎は父が亡くなり母も病弱、借金もあり難しいと返信。この返信があったのは11月のことで、翌年1月に新島は逝去している。その翌年、明治24年に同志社政法学校が開校。英二郎は教授として迎えられた。この頃、後の妻となる税所鶴と出会う。鶴は同じ同志社系の看病婦学校で布教の手伝いをしていた。

オノ・ヨーコとショーン・レノンはVTRを見て面白いとコメント。ショーンは英二郎が博士号を持っていたことは知らなかった。試験に落ちなければアメリカで経済を学ぶこともなかったかもしれないし、そこまで成功しなかったかもしれないなどと話した。オノ・ヨーコは困ったことや悪いことに思えても本当は一番よいことかもしれないと「不運に見せかけた幸運」という言葉をいつも言うという。

同志社で英二郎と出会った税所鶴。続いてはヨーコさんの祖母・税所鶴に迫る。有吾さんの家には130年前に撮られた鶴の写真や、鶴の両親の写真などが保存されていた。

オノヨーコの曽祖父の税所篤人は元岡山藩士で、妻の嘉與は戊辰戦争の二本松の戦いで出会ったとされている。オノさんのいとこの宏子さんは祖母から「二本松の戦いで旧幕府軍の二本松藩は官軍の圧倒的な兵力の前に力尽き、城が炎上した。二本松藩士の死体が転がる中、岡山藩士の税所篤人は城内に飛び込むとそこには父が自害した後の嘉與とその弟がいた。篤人はその2人を岡山に連れて帰り、嘉與を嫁に迎えた」などと聞いた。この話は先祖代々から言い伝わっており、大学教授の宏子さんの長男は税所家に伝わる巻物で、その言い伝えを確認していた。

岡山大学には税所篤人の奉公書が残っており、篤人が11月28日に二本松に行くように命を受けており、実際に到着したのは12月10日で落城から100日あまり経っていたことが判明していた。岡山県の資料館館長の定兼さんに税所篤人の当時の役割を読み解いてもらうと、税所篤人は規律を守らせる監察役で戊辰戦争で出会い結ばれたという話はあくまで伝説だということが分かった。しかし嘉與については敵方の奥さんになったから福島にも帰れないで聖書を読んでいたという話が残っていた。

昨年亡くなった二本松史跡保存会の鈴木さんは、二本松の戦いについて調べていたという。鈴木さんの自宅の倉には二本松藩に関わる貴重な資料があり、鈴木さんの講演録には「戊辰戦争の藩士名簿の中には、嘉與の父親の名前は載っていないので、それ以前に亡くなっていた可能性がある」などと記述されており、二本松藩士人名辞典でもそれを裏付ける記述が残っていた。

明治2年、ヨーコの祖母 税所鶴が生まれた。鶴は母の影響もあり、幼い頃からキリスト教に接していた。近くには日本基督教団 岡山教会があり、ここでアメリカ人宣教師 イライザ・タルカットに出会い、神戸英和女学校(現 神戸女学院)に入学。神戸女学院には明治17年、鶴が神戸で洗礼を受けていた記録が残っていた。税所類三は、後の鶴の夫となる人物だった。

赤磐市郷土資料館 元学芸員の高畑富子さんを訪ねた。高畑さんは、類三が渡米から3ヶ月後に岡山の実家に送った手紙を紹介した。しかし渡米2年目、類三は病に倒れて21歳で亡くなった。野村毛の子孫 高田勝世さんは「8年くらいの間に家族が続々と亡くなっていて結核以外考えられない」と話す。

類三が亡くなった翌年、税所鶴は横浜共立女学校に入学。明治24年の卒業後、鶴は京都に行き、京都看病婦学校でイライザ・タルカットの助手となった。卒業式の記念撮影の時、隣に立ったのが小野英二郎だった。2人は結婚した。

同志社政法学校で経済学を教える英二郎。結婚したが暮らしぶりは次第に厳しくなり、同志社の経営が行き詰まった。そこで英二郎は同志社をやめることを決意、新たに日本銀行に入行。軍費調達の重要な資金源となる公債について理論付けるなど経済学者として高い評価をうけた。そんな英二郎を川田小一郎がミシガン大学へ誘った。そして大正12年、58歳の頃に日本興業銀行の総裁に就任したが半年後に関東大震災が発生し、昭和金融恐慌が起きた。

家庭で英二郎は7人の子どもに恵まれた。後にオノ・ヨーコの父親となる小野英輔は三男として生まれ、特に期待を寄せられていた。英二郎は英輔に自らの後継者にさせたが、英輔にとっては非常に不本意だったという。22歳の頃に横浜正金銀行に入行、海外の貿易・外貨を取り扱う特殊銀行で現・三菱東京UFJ銀行には横浜正金の当時の資料が残されている。この資料によると英二郎は執務中に脳梗塞で倒れ昭和2年になくなった。昭和6年、英輔は4大財閥の1つ宮田財閥の別荘を訪れ、宮田善次郎の孫でヨーコの母となる安田磯子と出会った。

祖父の小野英二郎について、ショーンさんは「『全ての国と人々は平等だ 互いに助け合うべきだ』という英二郎のスピーチが、ママみたいだなと思った。英二郎の性格はママによく似ている」などと話した。

ヨーコさんの母の安田磯子。磯子の母は暉子で、父は婿として安田家に入った善三郎だった。善三郎は、大正2年に創業者の善治郎から安田財閥を任される。金融が中心だった安田財閥だったが、善三郎は国産の釘を生産する製造業に乗り出した。しかし結果は失敗。引退していた善次郎が復帰すると、善三郎は会社を追われた。善次郎の評伝を書いた由井常彦さんは、「善三郎は金融を全然やらず産業を中心にしていた。善三郎が産業を中心に安田全体を動かすようになったら、安田も潰れるだろうという危機感が広がった」などと話した。

父が経営トップの座から退いたとはいえ、磯子は安田家のお嬢様として育った。磯子の兄の子どもで、ヨーコさんのいとこである安田敬子さんは、磯子に関する資料を持っていた。磯子は社交界で活躍していたため、始終何かしらの雑誌に載っていたという。そして磯子は、軽井沢で横浜正金銀行に勤める小野英輔に出会う。ヨーコさんの弟・啓輔さんの妻である雅子さんは、「英輔は上流階級のお嬢さんたちのあこがれの的だった。見かけもよくてピアノもうまく、秀才だった」などと話した。

昭和6年に小野英輔と安田磯子が結婚した。その2年後にオノ・ヨーコが誕生した。そこで80年前のオノ・ヨーコの様子が伝えられた。何不自由ない生活だった。昭和12年に父がアメリカに転勤になり、家族は日本とアメリカに別れて暮らすようになる。この頃、オノ・ヨーコらが住んでいた家の一つが現在のフィリピン大使館公邸だった。そこで間取りを見せてもらった。小野英輔は昭和16年に日本に戻ってきて、その年に太平洋戦争に突入した。開戦後の小野英輔の様子が横浜正金銀行の記録に掲載されていた。小野英輔はハノイで銀行業務を行なっていた。

小野英輔の思い出をオノ・ヨーコの妹である小野節子さんに話を聞いた。そこで戦争中に父が一度帰ってきたことがあるという思い出を語った。終戦後に家族は東京に戻ることになった。そして終戦から1年後に小野英輔が帰国した。終戦後に東京銀行が誕生して小野英輔はそこで働き、家族は平穏な日常を取り戻した。日本は昭和26年にサンフランシスコ講和条約を調印し、その翌年に小野英輔は東京銀行のニューヨーク支店の初代支店長になった。そのため家族全員でニューヨークに移り住んだ。そこでオノ・ヨーコはサラ・ローレンス大学に入学した。オノ・ヨーコはニューヨークを拠点にして独自のアートに取り組んだ。そして結婚をして家を出た。その頃に小野英輔は日本に一時帰国したが、その時に脳血栓で小野英輔が倒れた。一命は取り留めたが仕事に復帰することはできなかった。その後、小野英輔と安田磯子は長男の家族と共に暮らした。小野英輔は昭和50年73歳で永眠した。

オノ・ヨーコのアートはインストラクションという作者であるオノ・ヨーコの指示に従って観客自身が作り出すアートだ。1962年にオノ・ヨーコは東京で作品展を開いた。しかし当時の人にその芸術は理解されなかった。しかし小野節子さんにはそんな姉の姿を眩しく思っていたと語った。オノ・ヨーコはどのような評価でもブレなかった。そんなオノ・ヨーコの作品展にジョン・レノンが訪れた。そして1969年にオノ・ヨーコとジョン・レノンが結婚した。小野節子さんは姉はジョン・レノンの詩に影響を与えていたとと語った。スタジオではジョン・レノンが「イマジン」を出した頃について、オノ・ヨーコが思い出を語った。

明治・大正と、国際金融のパイオニアとして日本を見つめ続けた小野英二郎。その子である小野英輔も、戦前・戦中・戦後と国際金融の最前線に立ち続けた。そんな銀行家のDNAを引き継いだのが、ヨーコさんの妹の節子さんだった。1976年に世界銀行に入行して以来、アフリカや中南米地域の貧しい国々を支援する業務に力を注いだ。ヨーコさんいとこの小野有吾さんは、小野家を「小野家は何か使命をもってしまうDNAがあるのではという気がする。自分の生かし方が分かれば、人から何を言われようと頑張ってしまうという部分が共通している」などと話した。

キーワード
札幌(北海道)
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サラ・ローレンス大学
ニューヨーク(アメリカ)
ジョン・レノン
グレープフルーツ
イマジン
ザ・ビートルズ
世界銀行

エンディング (その他)
02:09~

ヨーコさんの半生は平坦ではなかった。時に中傷を受けることもあった。しかし決してブレることなく、愛と平和を訴え続けた。オノ・ヨーコの作品世界は、今では多くの人に理解され世界各地で大規模な作品展が開かれている。夫が凶弾に倒れた後、ヨーコさんの心の支えとなったのが、息子のショーンさんの存在だった。

ファミリーヒストリーの次回予告。

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