ファミリーヒストリー 大竹しのぶ〜語り継がれる大竹様伝説 1世紀を経ての出会い

『ファミリーヒストリー』は、NHK総合テレビジョンで不定期に放送されているドキュメンタリー番組。

出典:goo Wikipedia

放送日 2017年1月26日(木) 19:30~20:43
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
19:30~

天才、魔性の女など語り尽くせぬほどのキャラクターを背負う大竹しのぶ。彼女は謎に包まれた母方の祖母・八重のことが気になっている。

今夜のゲストは大竹しのぶだ。大竹しのぶはかねてからファミリーヒストリーに出演したいと思っており、ルーツが明かされることにドキドキしていた。

大竹しのぶ〜語り継がれる大竹様伝説 1世紀を経ての出会い (バラエティ/情報)
19:32~

大竹しのぶの母・江すてるさんも若き日の八重の人生をほとんど知らないという。八重は明治時代にアメリカに渡った情熱的な女性だったらしい。無鉄砲なところが似ていると大竹しのぶの姉妹は話す。115年前、家具屋を営んでいた八重の実家は麹町に所在し、祖父は外国公使館に土地を課すほどの大地主だった。小山内薫の自叙伝・背教者には八重をモデルにした絹子という女性が登場する。絹子は周囲を虜にする女性として描かれ、小山内薫も彼女に首ったけだった。内村鑑三の研究をしている鈴木さんは当時珍しかった女性弟子・八重の資料を集めていた。八重はのちに社会主義に目覚める山内権次郎と出会い惹かれ合った。女学校を卒業した八重は女子英学塾(のちの津田塾大学)に進学。山内権次郎とともに幸徳秋水と親しくなっていく。日露戦争中、非戦を訴えていた秋水は投獄されたのちにアメリカへ渡った。明治38年、女子英学塾を辞めた八重は権次郎との子を身ごもりつつ彼と秋水とともに渡米した。彼女の渡ったアメリカ・サンフランシスコには新天地を求めた日本人が多く押し寄せていた。

2人の子どもと生き別れた八重は大正4年30歳の時新たな愛を育もうとしていた。相手は4歳年上の吉川一水。後のしのぶの祖父。実は一水は19歳の時内村鑑三の聖書講談会で八重と出会っていた。一水は教会に属さない無教会派として清貧と非戦を訴えた宗教家だった。大正4年一水と八重は結婚。翌年には長男が生まれる。間もなく一家は仙台へ移った。一水はキリスト教系の女学校で教鞭をとるようになった。大正11年後のしのぶの母となる江すてるが生まれる。その名は聖書に登場する民衆のために尽くすエステル姫から一水が名付けた。仙台に来て6年後一水は教師を辞め、貧しい人々のための布教活動に専念することにした。一水は東京に戻り機関紙の発行に携わる。しかし当局から目をつけられ機関紙は発禁処分となる。その後一水は小さな家を借り聖書の講談会を始め、労働者などが集まった。一水の収入はほとんどなく、一家の収入は厳しいものだった。家計を支える母の姿を見て育った江すてるは必死に家計を助けようとしたという。昭和15年各教派に分かれていた教会は統合され、戦争協力を余儀なくされた。キリスト教信者への監視が厳しくなり、反戦分子と冷たい目をが向けられた。そんな中で一水は聖書の講談会を続けた。一水への監視の目はますます厳しくなる。八重は憲兵が来ても全く動じず、むしろ親しくすることで一水の活動を支えた。この頃一水の日記にはある青年の名が頻繁に登場する。その青年とは大竹章雄。一水の聖書の講談を熱心に危機に訪れていた。後のしのぶの父。

日本の社会主義活動を伝える新聞に秋水と赤ん坊を抱く八重の姿があった。権次郎は平民社に務めていたようだ。当時は日系人の増加から排斥活動が現地で高まっており、彼らの社会主義活動は迷惑でしかなかった。当時八重が出産したアパートが残されており、子は敏子と名付けられた。平民社創設者・岡の妻から貰った名で、岡夫妻の孫は「祖母が八重のよい友人だったのは確かです」と話した。秋水は社会革命党を結成したが当時の写真にも八重の姿があった。外務省のスパイによって八重の行動も監視されていたと専門家は話した。渡米から2年後、夫・権次郎がチフスにかかり死亡した。彼の死から2ヵ月後、22歳の八重は敏子とともに帰国した。夫の実家に身を寄せた八重は義理の母から敏子を置いていくように言われた。八重は山内家を出た後に二度目の結婚を果たし男児を生んだが、男児と夫は八重と別れた。

続いては、しのぶの父・章雄の人生に迫る。戸籍で最も遡れたのは4代前の高祖父・大竹章作。新潟・山林町で生まれ、地元では有名な一族だった。山林町には今も大竹家にまつわる碑が残されていて、そこには大竹与茂七と書かれていた。与茂七は江戸中期に山林町の名主だった人物。村人からの人望が厚かったため、他の名主の嫉妬を買い、濡れ衣を着さられて処刑されたという。今も山林町に残る碑は、与茂七の獄門台があった場所に建てられたものだった。地域の人たちは今も与茂七を慕い、お盆になるとその霊を慰めている。

終戦から3年後、章雄と江すてるは東京・大井町で新しい生活を始める。長女すなほ、翌年には長男の進が生まれ、八重も孫の誕生を喜んだ。八重は終戦の翌年夫を看取っていた。そして昭和27年3月、八重も病に倒れ息を引き取った。情熱のままに信じた道を貫いた66年の生涯だった。その5年後にしのぶが誕生する。”最後まで耐え忍ぶは救われる”希望を捨てるなと説くこの聖書の一節から章雄が名付けた。5人の子どもに恵まれた章雄と江すてる。しかし昭和38年章雄が結核を患い倒れる。一家は空気の良い場所を求めて秩父山地の麓埼玉県越生町へ移った。体調が回復すると章雄は高校の教師となり数学と倫理を教えるようになった。当時の教え子の田嶋さんは「高校時代の誇れる先生。優しくて一緒にいて落ち着く先生だった」と話す。 章雄は卒業後も教え子たちとの交流を続けていた。章男は人生の教訓を添えた手紙を送り、教え子たちのその後を見守っていた。昭和42年章雄は結核が悪化し、教師を辞めざるを得なくなる。一家は埼玉県毛呂山へ移り、章雄は結核病棟へ移った。暮らしは全て江すてるの方にかかっていた。パン屋で働きながら家政婦や子守をこなし家計を支えた。それでも女一人の稼ぎでは限界があった。大竹しのぶさんはその頃のエピソードとして、給食費を払うのをいつも遅れていたという話を紹介していた。

石碑のすぐ近くで社会科見学の小学生と出会った。向かった先は大竹邸記念館。ここは、明治から昭和にかけて活躍した政治家・大竹貫一の生家。大竹家のことを綴った古文書には、平安から明治まで31代の先祖の記録が記されており、確認してもらった結果、しのぶは与茂七や貫一らと親戚であることがわかった。今回、古文書に書かれていることを新潟大学の原直史教授に解読してもらったところ、繰り返される川の氾濫と戦い、地域が豊な米どころになることを目指してきた一族であることがわかった。

八重に抱かれた子どもが自身のおばさんだと知って大竹しのぶは驚いた様子だった。魔性的なところが大竹しのぶに似ていると今田は話した。

しのぶの曽祖父・国司は明治の世になり、名主制度がなくなると新天地を求める。移ったのは宮城・塩釜市。当時、塩釜は鉄道が開通し、発展著しい港町だった。国司はこの地で医者になった。

明治44年、塩釜市で国司の孫・章雄が生まれる。しかし、7歳のときに父を病で失い。それからは母が質屋を営んで生計を立てた。そして昭和12年、章雄は25歳のときに遠縁の娘と結婚。その2か月後、日中戦争が勃発。章雄はソ連との国境地域に配属された。戦地から帰還した章雄はキリスト教への信仰に目覚める。すると、実の母や妻との溝が深まり、塩釜を出て、川崎の会社に勤めるようになった。

明治から大正、昭和へと激動の時代を生き抜いたしのぶの祖母は初恋の男性とサンフランシスコへ渡り、娘を儲けたが夫の死後に娘を手放さざるを得なかった。娘の家族が大阪に暮らしている事が分った。彼女は父の実家で暮らし、横浜の実業家と結婚して5人の子供を育て上げ76年の生涯を閉じた。彼女の息子は生前、母の生い立ちを聞くことはなかった。

激動の時代にすごい平和への活動、ここまですごいとは思わなかったなどと出演者らがコメント。

この頃一家は、ある敷地の木造の物置で暮らしていた。つましい住まいだった。当時こちらの住まいを貸していた栗原サヨさんは、江すてるのことをサヨさんは「江すてるはほうぼうで働いて、お子さんを見ていた。あんな真っ正直な人は中々いない。江すてるさんありがとうあなたの頑張りは今も繋がっている」と話していた。そんな母の姿を子供達は見てきた。長女のすなほさんは、小さなころのエピソードを話し「それはそれは苦労して育ててくれた」と話していた。 章雄は入退院の合間に自宅に戻ってくると夕食の後デザートの時間だと子供達をよく外へ連れ出していた。デザートは川のせせらぎ、鳥たちやカジカの声。目を瞑り味わうのが日課だった。そんな父との思い出はいくつもあった。次女の真理さんは「感性の豊かさは父との生活で培われ、花開いた。しのぶは父が大好きだったので父とのそういう機会も多くあった」と話す。しかし現実は厳しいものだった退院し60近くになった章雄が見つけたのは溶接工場の仕事だった。当時仕事を教えたという和田さんは「元々教師だったので、うまく溶接ができなかったため、ペンキ塗りをずっとやっていた。仕事中はほとんど口をきかないし、お昼もみんなとは食べなかった。技術がなくペンキ塗りだけの仕事だったため給料安かった」と話していた。楽にならない暮らしに江すてるはある決断をする。章雄に「東京へ行きましょう、東京なら仕事も見つかります」と切り出した。

章雄は、しのぶの祖父・一水の聖書の講談会に通い始める。そして、一水の娘・江すてるとも言葉を交わすようになった。次第に惹かれ合っていく章雄と江すてる。しかし章雄には妻と2人の子どもがいた。昭和19年、章雄は再び召集され、中国の戦地へ旅立った。江すてるは章雄の無事を祈り、手紙を送っていた。その手紙を章雄は生涯大切に持っていた。昭和21年7月、章雄が満州から復員。2人で闇市を歩いているとき、章雄は江すてるに「僕についてきてくれませんか?」と言い、江すてるは「はい」と返事をした。

両親の情熱的な愛の物語についてトーク。しのぶは、「あんなお手紙を父に書いていた母っていうのは姉たちも言ってましたけど、想像がつかないです。私の知らない江すてるさんがいたのかもしれない。私が激しいのはそういうところから」とコメントした。

自然に囲まれた環境を愛していた章雄は中々首を縦に振らなかったが、江すてるが初めて離婚を持ち出し、章雄も渋々ついていく形となった。昭和46年一家は埼玉から東京小岩へ引っ越す。会社の社宅に暮らし夫婦で働き始めた。章雄の仕事は倉庫番だった。江すてるは昼は社員食堂のまかない、夕方からは経営者の家の家政婦として働いた。子育てが一段落し、長女すなほに続いて二女まりが結婚すると章雄と江すてるは大きな喜びに包まれる。しのぶがオーディションに合格し突如女優の道を歩き出すことになった。昭和50年しのぶが18歳の時映画「青春の門」のヒロイン役で本格的なデビューを果たす。そんな矢先章雄は胃がんに侵されていた。入院していた章雄の楽しみは病室でしのぶの出演するドラマを見ることだった。そして6月19日の父の日章雄はこの日を心待ちにしていた。この日の夜しのぶの出演するドラマが2つあった。しかし放送当日の朝6時半容態が急変し、ドラマが始まる前に亡くなってしまった。章雄が亡くなった後すなほさんは父が同僚に宮城に残してきた子どもたちへの伝言を頼んでいたことを知った。しのぶの母江すてるさんは94歳になる。家族が集まると江すてるは決まって「私は日本一幸せなおばあさんです」と言う。

章雄の妻貞子さんは八重さんのお名前も聞いたことが無いなどとコメント。今から111年前に撮られた写真を見てお母さんもこんな時があった、どこかつながってると思ったら応援したいなどと貞子さんらがコメント。そして八重のもう1人の子どもは、サンフランシスコから帰国した後鈴木という男性との間に男の子を産んだ。しかしこの男の子とも別れ、ともに暮らすことは叶わなかった。今回手紙を頼りにこの男の子の消息を探した。すると自らのルーツを調べているというある女性の論文に行き着いた。大学で英語を教えている杉野俊子さんは自らの家族の歴史を調べてきた。俊子さんが聞いていた健さんの母の情報は僅かだったが八重と一致した。健さんは叔父夫婦に育てられ小学校の教師となった。親戚から母が再婚したと聞き、迷惑をかけてはいけないと探すことはなかった。6人の子の父となり平成2年69歳で亡くなった。俊子さんはずっと祖母のことだけがわからず気になっていた。俊子さんは話してみたかった、縁がある、不思議などと涙ながらにコメント。俊子さんの兄善勝さんはびっくり、我々兄弟はみんなえくぼがあるからしのぶさんのえくぼを出して皆さんを明るくしていただくのが孫同士の頼みなどとコメント。

大竹しのぶさんのお父さんが亡くなる前残した、しのぶさんの兄への伝言について、父が亡くなったあとに連絡を取り、しのぶさんが初めて自分の兄と顔を合わせたときのことを振り返った。「父にそっくりだった」、亡くなった父の顔しか知らないと言った彼には「本当に申し訳ないことをした」とコメントした。自身のファミリーヒストリーを振り返り、「この家に生まれて本当によかった」と話した。

キーワード
小山内薫
内村鑑三
立教大学
山内権次郎
女子英学塾
幸徳秋水
サンフランシスコ(アメリカ)
麹町(東京)
カリフォルニア大学バークレー校
山林町(新潟)
明治大学
大竹邸記念館
マタイ福音書
大竹貫一
新潟大学
武蔵越生高等学校
塩釜市(宮城)
日中戦争
仙台市(宮城)
結核
大井町(東京)
越生町(埼玉)
毛呂山町(埼玉)
秩父山地
キリスト教
闇市
ムーミン
スナフキン
カジカ
青春の門
水色の時
東芝日曜劇場
埼玉県
小岩(東京)
胃がん

エンディング (その他)
20:42~

兄妹みんなにえくぼがあることについて「これだけ力強い血のつながりがあるのだったら、もっと強くなれるような気がします」と大竹しのぶさんがコメントした。

  1. 前回の放送
  2. 1月26日 放送
  3. 次回の放送