ファミリーヒストリー 倉本聰〜父からの贈り物 125年前の火事〜

『ファミリーヒストリー』(FAMILY HISTORY)は、NHK総合テレビジョンにて2008年から放送されている、ドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2016年12月8日(木) 19:30~20:15
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
19:30~

今回のゲストは脚本家・倉本聰さん。スタジオの今田耕司は倉本聰さんにお見せするのでスタッフにプレッシャーがかかっていると話した。

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北の国から

倉本聰〜父からの贈り物 125年前の火事〜 (バラエティ/情報)
19:31~

倉本聰(本名 山谷馨)が自らのルーツで特に気になっているのは母方の浅井家について。浅井家は新潟・佐渡にあったが明治になり京都へ移ったという。

倉本聰の父・太郎は波乱の人生を送っている。岡山で生まれた太郎は父・徳治郎とともに東京で暮らしたが高校で故郷に戻り、「旧制 第六高等学校」に入学、柔道部に所属していた。柔道部は全国8連覇を成し遂げた柔道部の名門であったが、上下関係が厳しい中で太郎は違ったとのちに後輩は綴っている。井上靖の小説「北の海」には太郎がモデルとされている人物が登場する。現在も続く六高柔道部同窓会の会長によると大正9年に警視庁を破った柔道部の伝説の一戦があるとのことで、太郎は小柄ながら一生懸命だったという。

倉本さんの母方の浅井家がもともとあったのは佐渡で明治になり京都に移った。倉本さんはなぜ佐渡から京都に行ったのか見当がつかないと話した。浅井家があった新潟県佐渡にある新潟県立佐渡高校では今から200年前の佐渡奉行所の記録が残されていて浅井家についての記述も残されていた。そこには倉本さんの4代前の高祖父が記載されていて奉行所の出入りを許された高い地位の医師だった。

山谷家は医学と関わりがあった。住んでいたのは岡山県真庭市。家を守る山谷さん。庄屋をしていた山谷家は265年分の徴税令状が残っているという。年貢を集め領主に納める役だ。倉本さんの祖父徳次郎が生きた時代はころりが流行っていた。1日に20~30人死んでいた。徳次郎は岡山県医学校に入学。100人入学して15人しか卒業していないという。徳次郎はその後東京帝国大学医学部に入学。卒業後故郷岡山に戻り入院施設を備えた病院を作った。明治24年結婚し長男太郎が生まれた。設備の整った病院にはたくさんの患者が来た。地域の開業医から患者を奪われたと抗議を受けた。岡山医学同窓会報に当時のいきさつが書かれていた。徳次郎は恩師の病院で働き製薬会社へ務めた。2年後最新の医学を学ぶためドイツに留学。そこでは現役医師が働きながら学んでいた。徳次郎は医学専門雑誌の発効を始めた。東京神田に日新医学社を立ち上げた。各専門の第一人者に現行を依頼した。徳次郎は岡山で勢力的に活動した。医学図書館の設立に尽力した。大賞9年医学図書館を作った。世界的な学者に公演を依頼した、それは野口英世だ。手紙が順天堂大学に残っている。徳次郎は医学ジャーナリストとなった。

幕末の万延元年に生まれたのが倉本さんの祖父である貞吉で父を目指し医師を目指した。そして貞吉は明治14年に佐渡から東京大学医学部別科に入学し卒業後佐渡に戻り、予備役の軍医だった兄と共に医療設備が整った病院を始め明治24年5月に浅井病院が開業した。そして開業記念として盛大に花火を打ち上げることが決まった。

その後太郎は東京帝国大学工学部に進学、酵母菌の研究に勤しんだ。食品の研究職に尽きたいとしていた太郎は大学3年の時に急性腎炎を発症、入院した。2年後退院できたものの柔道はできなくなり、信濃町教会でキリスト教に入信した。倉本聰の兄で太郎の長男・山谷渉によると真面目に信仰生活をしていたという。2年遅れて帝大を卒業した太郎は日清製粉に就職、酵母菌の研究に取りかかった。翌年に志津子と結婚し2人の子どもに恵まれた。

打ち上げ場所は地元の日吉神社となった。そして打ち上げられた花火は100発以上だったが花火の火の粉が落ちで神社の拝殿が燃え上がり、さらに飛び火して本殿もほとんど全焼になる事故が起きてしまった。そして幸い神社は地域の人たちの寄付で無事再建され浅井家も多額の寄付を行った。

入社三年目に父・徳治郎が日本脳炎で倒れたため太郎は日清製粉を退社、父の経営する日新医学社を引き継ぐこととなった。後年牧師であった叔父が当時の太郎の様子を、従業員のストライキに遭うも好意が理解され和解に至る、などと振り返っている。出版社に移って2年目で妻・志津子が急死した。さらに3年後、太郎は叔父の紹介で綾子と結婚、綾子もキリスト教徒で、後に子ども・のちの倉本聰が生まれた。

スタジオトーク。倉本聰は親父がケンカするのが好きだというエピソードを語り、任侠的な人であったことを明かした。

札幌で暮らしていた倉本さんは富良野へと移り住む。自ら土地を開拓し、自宅を建てた倉本さんが当時、書いたのは大ヒット作である北の国からだった。倉本さんはこのドラマに自らの戦争中の疎開体験を投影させ、その当時に感じたものを純の目線で放り込んだと話し、父・太郎さんへの思いを語る。父が亡くなったときの葬儀で読まれた豊島武治の弔辞が収められていた。

地元で流行していた病気にも力を注いだ貞吉と兄。新潟大学 医歯学図書館に保管されていた当時の論文では、肺に寄生虫が入り込み呼吸困難になる病気の対処法を紹介していた。論文発表から2年後に日清戦争が勃発。軍医が不足し、貞吉が体を壊した兄の代わりに出征することを決意。日本赤十字豊田看護大学で保管されていた書類には、中国から日本に戻る兵士たちを船内で治療する任務に就いていたことが記録されていた。

大学の学会がなんなのかわからなかったが発表と開発をしているんだなと話す倉本さん、医者が病院を開いたら終わりではなくそこから勉強しないといけないという考えがまだない時代だったと話す今田耕司。

子どもに恵まれる一方、太郎は出版社の経営に神経をすり減らしていた。そんな太郎にとって癒やしの時間だったのが野鳥の観察。「野鳥歳時記」という本を執筆し、設立されたばかりの日本野鳥の会にも加わった。昭和16年に太平洋戦争が始まると、太郎は教会の機関紙に、「人間同士で審判し、剣によってことを解決しようとすること。これ以上に戦争の罪悪性を決定づけるものはない」と書いて問題になる。太郎は特高警察の取り調べを受けたが、教会の関係者がかけ合い、数日後に自宅に帰ることができた。しかしその後、警察から監視されるようになり、仕事にも影響した。

日清戦争が終わった直後、12歳年上の兄が亡くなる。しばらく経ったある日、京都で医師をしていた東大時代の友人から、京都で医師が不足しているという手紙をもらう。迷っていた貞吉だが、地元の後輩医師が浅井病院をそのまま引き継いでくれることになり、貞吉は35歳の時に佐渡を離れる。貞吉は手紙をくれた東大時代の友人のもとを訪ね、友人の病院をそのまま引き継ぐことになった。貞吉は京都に移り住んですぐ、佐渡から京都にやって来た若者を下宿させたり、仕事を紹介したりした。下宿人の中には、後に日本を代表する画家・土田麦僊もいたという。

倉本聰の祖父・貞吉の半生についてトーク。倉本は、「僕の聞いていたのと違う。火事出して(佐渡に)いられなくて、京都に逃げたと思っていた」とコメントした。

昭和19年、太郎はついに出版社の経営を他人に譲ることにする。失意の中、太郎は故郷・岡山に疎開した。戦後、東京に戻った山谷家。太郎は新たに出版社を立ち上げるが、結局うまくいかなかった。そして昭和27年、太郎は大学時代に患った腎炎が再発。52歳の若さで亡くなった。

夫を失った綾子は茶道の教室を開き、なんとか家計を支えた。父の死から3年後、倉本聰は祖父・父と同じ東京大学に入学。卒業後、ニッポン放送に入社し、会社に内緒で脚本を書き続けた。4年後に退社すると、次々と話題作を手掛け、昭和49年に大河ドラマ「勝海舟」の脚本を担当。しかし、大河ドラマが始まってわずか3か月後、綾子は69歳で亡くなる。それからまもなく、倉本は大河ドラマのスタッフと対立。喧嘩別れした形で札幌に向かった。その7年後、名作「北の国から」が生まれた。

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エンディング (その他)
20:14~

エンディングの挨拶。

次回のファミリーヒストリーの番宣テロップ。

所さん!大変ですよの番宣テロップ。

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