きんくる〜沖縄金曜クルーズ〜 甲子園 100回大会!うちな〜高校野球物語〜

放送日 2018年8月2日(木) 2:35~ 3:47
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
02:35~

夏の全国高校野球に出場した沖縄県立北部農林高等学校について紹介したあと、オープニング映像が流れた。

津波らが挨拶し、「100回目の甲子園楽しみですね」などとコメントしたあと、ゲストを紹介した。甲子園についてゲストに質問すると「地元の方の声援がすごかった」と語った。また、中継で沖縄県立博物館・美術館の甲子園の展示を紹介。高校野球の年表を使ってMEIRIが沖縄の高校野球の歴史を紹介した。

キーワード
岸本宗太
第100回 夏の全国高校野球
沖縄尚学高等学校
沖縄県立博物館・美術館
第100回夏の甲子園
夏の高校野球

きんくる〜沖縄金曜クルーズ〜 (バラエティ/情報)
02:40~

沖縄県立首里高校は沖縄県初の全国出場を決めた高校。福原朝悦さんは沖縄戦の鉄血勤皇隊に参加。そこで多くの学友を亡くし、戦後教員になった福原朝悦さんは野球を通して子どもたちに夢を与えることが役目だと考えるようになったという。戦後は野球の道具を揃えるのも難しい状況。独学でやるしかなかったと資料で紹介した。当時福原朝悦さんは粘り強く勝つために守備力の強化に注力した。初出場のときのメンバーで山口辰次さんは「グランドは砲撃のあとに作ったのでイレギュラーバンドなどもあり、鼻にぶつけて内出血して真っ黒にした」と当時の様子を語った。夏の甲子園で初出場となった一回戦は敦賀高校と対戦。3-0で負けて帰ってきたがいい試合だったとみんなに言われてよかったと山口辰次さんは語った。アメリカ統治下の沖縄には甲子園の記念の砂は持ち込めないとし、海に捨てられたという。全国でも話題になり、学校には甲子園の石などが送られたとのこと。再び甲子園に出向き、本土と同じレベルで野球をすることが唯一の道だと同窓会の甲子園参戦記には書かれていた。

安仁屋さんは「印象に残っているのは沖縄に球場がなかったので、甲子園球場のクッションをたらいで練習したこと」だと語った。野球が支えになっていたことを感じるとして沖縄県立博物館・美術館と中継をつなぎ、アメリカ軍基地の中にあったパラシュートを再利用して作った優勝旗、首里高校の寄せ書きなどを紹介した。福原朝悦さんについては外間一先は礎を築いた存在だと語った。

栽弘義監督は沖縄を強豪にした名将。豊見城高校を3大会連続のベスト8に、沖縄水産を2大会連続で準優勝に。指導者を目指した背景には福原朝悦さんを尊敬していたという。栽弘義は本土の大学へ進学し、一から野球の指導論を学んだ。本土では沖縄への偏見に直面し、それをバネに本土に負けない野球をしようという心持ちだったと神山さんは語った。屋良景太さんは栽弘義監督のもとで主将を務め、「グラウンドに来るか来ないかで緊張感を持たせる人は会ったことがない。今でも現れたら緊張してこんな立ち方しない」と語った。また緻密な分析による戦略も組んでいたという。「自分たちも本土と同等にやれる。自信がついた」と屋良景太さんは話した。1990年の決勝では沖縄水産と天理高校。優勝には届かなかった。翌年には大阪桐蔭と決勝。またしても決勝で敗れた。栽弘義監督は「生きている間に全国制覇をするべくがんばりたい。沖縄県は野球大好き。本土のみなさんと方を並べてやれている」と当時は語っていた。

大野倫が入学した当時を思い出しながら「先人たちの土俵があったから野球ができるようになってきた」と語った。沖縄県立博物館・美術館と中継をつなぎ、沖縄水産が準優勝したときのたてや、ノートを紹介した。栽弘義元監督のノートに関してはリアルタイムに書き記し、戦術など多才に書き込み、貴重な資料だと外間一先は語った。安仁屋宗八は「優勝候補になるレベルにしたのは栽監督たち。歴史を変えた」と話した。

キーワード
福原朝悦さん
敦賀高校
夏の甲子園
沖縄戦
鉄血勤皇隊
夏の高校野球
栽弘義監督
高度経済成長
栽弘義元監督
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