歴史秘話ヒストリア 戦国 美の革命〜異色の武将・古田織部の生涯

『歴史秘話ヒストリア』(れきしひわヒストリア)とは、2009年よりNHK総合テレビジョンで放送されているNHK大阪放送局制作の歴史情報番組。

出典:goo Wikipedia

放送日 2014年2月5日(水) 22:00~22:45
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
22:00~

オープニングテーマ:Kalafina「storia」

日本の伝統文化には、侘び寂びなどのイメージがあるが、今から400年前にはクスっと笑ってしまうような焼き物が大流行した。織部焼と言われ、戦国から江戸時代の間に突然現れ、熱狂的なブームを巻き起こしたと思えば、わずか30年ほどで突然消えてしまった謎の焼き物。古田織部の名前からつけられている。謎に包まれた織部焼と、古田織部との共通のキーワードは「ひょうきん」。

キーワード
storia
Kalafina
織部焼

episode1 ようこそ!“ひょうきん美学”の世界へ (バラエティ/情報)
22:03~

古田織部は、れっきとした戦国武将の出。残された資料が少なく謎の多い人物。出身は岐阜県南部の美濃。古田織部が20代前半の頃、美濃に織田信長がやってきた。織田信長は美濃を拠点に天下統一を目指し、この出会いが古田織部の人生を大きく変える。古田織部が得意とした任務は使番だったという。また、説得工作が得意で、人の心をつかむ能力が認められ、織田信長が死ぬまで家臣をつとめた。一方、古田織部にとって織田信長は「美の革命家」、安土城は当時の白の常識をくつがえし、美と威厳で人々を圧倒した。また、織田信長は身の回りに南蛮美術も取り入れていく。

古田織部は30代の頃に、千利休と出会う。茶の湯で、茶室はいわば総合芸術。千利休が愛用したり、作らせたりしたものは「利休好み」と言われ人気集めた。そうした中から物静かな詫びの美学を完成させた。古田織部が京都で千利休から教えを受けていたころ、千利休は日頃見慣れたものでも美しさを見出す目を磨くよう諭していた。すると、古田織部は何事も自分で確かめなければ気が済まないと、千利休の理念を体ごと実践していった。ある茶の湯の席で、千利休が用いた茶入れのフタに傷があり、それを千利休は隠そうとした。一方、古田織部はその傷のついた茶入れをもらいうけた。しばらくして、古田織部が千利休をもてなした時、その茶入れの傷を客に見せるようにし、傷にさえ美しさを見出す独自の美学で応えた。

古田織部の茶碗「十文字」は、わざと割ってから付け直したと言われる。また、古田織部が褒めたたえた水差しはヒビがはいっている。「波長の美」に古田織部は美しさを見出した。こうしたセンスは戦国時代の終わり、新しい価値観を求める時代の中で評判になった。そうしたなか1591年、千利休は豊臣秀吉の怒りを買い、切腹を命じられる。千利休が死の間際、古田織部に手渡した茶杓の名前は「泪」。千利休の古田織部に託した想いが込められている。古田織部はこの茶杓を竹筒に納め、遺灰に見立てて拝みつづけた。千利休の志を受け止めた古田織部は新たな日本の美を打ち立てようとする。やがて、古田織部が認めた焼き物、茶室、庭などが「織部好み」として大流行した。

京都を尋ねると、古田織部ゆかりの茶室を守り伝える家がある。茶道、藪内流家元のお宅。藪内流初代の藪内剣仲は、古田織部の妹と結婚。古田織部が藪内剣仲へ譲った茶室は、窓の数が多く明るいものだった。藪内流は代々、この茶室を大切にしてきている。

キーワード
古田織部
岐阜県
美濃(岐阜)
織田信長
千利休
京都府
十文字
豊臣秀吉
織部好み
藪内流
藪内剣仲

episode 2 誰が?どうやって?織部焼の謎に迫る旅 (バラエティ/情報)
22:18~

常識を破って登場した織部焼は、多種多様な形や、画期的な絵付けが特徴。この織部焼という名は、後世につけられたもので、古田織部が関わった証拠はない。どこで作られたのか判明したのは80年前の岐阜・美濃地方。昭和5年、ここで絵の描かれた焼き物が見つかり、桃山時代のものだった。発掘を進めると大量の織部焼が見つかった。さらに注目を集めたのは、丘の斜面にへばりつくような窯の跡だった。14個の窯が連結する連房式登り窯で、織部焼の多くはこの窯を使って作られたことがわかった。美濃で焼き物が本格化したのは、戦国時代の後半で瀬戸から職人が来た後のことだった。

最新技術はどこから?という疑問の答えを求めて向かうのは、佐賀・唐津。唐津にも美濃と同じような連房式登窯が残っている。この技術がやってきたのは、朝鮮半島からだった。豊臣秀吉の時代に、朝鮮への出兵が行われ、基地となった唐津からは武将たちが朝鮮半島へ攻め込んだ。一方、この戦争で朝鮮半島から大勢の陶工たちが連れてこられた。彼らたちからもたらされたのが、連房式登窯など、焼き物の技術で、唐津は最先端の焼き物の地となった。こうした唐津の新しい技術が美濃に伝わることから、焼き物の産地となり、織部焼が大量に作られたとみられる。焼き物の研究をしている中里さんは「織部焼の影響で新しい唐津風ができた。唐津の黄金時代を織部が作ってくれた」と話す。

京都市内で近年、織部焼の発掘が相次いでいる。数は1200点以上で、素材から美濃で作られたものだとわかった。当時、京都は最新の商品が流通する流行の発信地だった。織部焼は、京都などの商人たちからデザインされ、唐津からの技術を使って美濃で作られたのではとかんがえられる。また、古田織部は織部焼誕生に関わる3ヶ所全てにゆかりがある。

古田織部が用いた茶碗は「ヘウケモノ」と呼ばれた。漫画家の山田芳裕さんは、2005年から古田織部を主人公とした漫画を描いている。漫画に描かれている古田織部はひょうきんなセンスで人々を巻き込み、独自の美学を打ち立てている。ひしゃげているものや、欠けているものに魅力を感じる古田織部の美意識について山田芳裕さんは「動と静でいうと、静な感じ」と話す。

キーワード
織部焼
古田織部
岐阜県
美濃(岐阜)
桃山時代
唐津(佐賀)
豊臣秀吉
唐津焼
京都市(京都)

episode 3 “ひょうげもの” 天下人に反抗する (バラエティ/情報)
22:29~

古田織部は50代後半、関ヶ原の戦いで戦場へ向かう途中、徳川家康から「佐竹義宣を味方に引き寄せてほしい」と頼まれた。佐竹義宣も古田織部と同じく茶の湯を愛好する武将だった。味方にすることに成功した。やがて、古田織部は徳川秀忠の茶の湯の指南役となる。

関ヶ原の戦いから10年後、徳川家康はさらなる野心をあらわにし始めた。当時、豊臣家は大阪城で権威を保っていて、家康にとっては邪魔な存在だった。対立を深める徳川と、豊臣。そんななか、古田織部は徳川秀忠に謁見する際、豊臣方の片桐且元を伴った言われる。徳川家康の方針に歯向かうような古田織部の動きの理由について、歴史研究家の久野さんは「文化人であり、平和的に共存ができないかと思っていた。」と話す。しかし、徳川家康はこれをはねのけ、豊臣家が作った鐘に「国家安康」との文字が自分の文字を分断し、貶めていると難癖を着けて豊臣家を追い込む。徳川家康は鐘の銘文を考案した僧侶の文英清韓に蟄居を命じていた。ところが古田織部は、文英清韓を茶会に招くなど、誰の目にも徳川家康への反抗精神は明らかだった。専門家の熊倉さんは「傷や乱れを許そうとしない社会への抵抗ではないか」と考えている。

1615年、大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。徳川家康は、一点の傷のない徳川の世を完成させた。戦いの直後、徳川家康の矛先は古田織部へと向けられる。謀反の疑いがかけられ、徳川家康が下したのは、古田織部は切腹し、古田家は断絶という厳しい処分だった。古田織部は「かくなる上はさしたる申し開きはなし」と最後に命がけで時代にひょうげてみせた。

古田織部の死後、徳川の支配する時代が訪れる。200年以上のあまり大きな動きのない世の中がやってくる。一方、焼き物の世界では古田織部の死後、磁気が作られるようになった。近年、京都の街の中心部で1200点以上もの織部焼が相次いで発掘されるが、庭の隅にごみと一緒に埋められていた。久野さんは、古田織部が徳川に刃向かって死んだことに関係しているのではとかんがえている。織部焼は徳川の世が固まっていくと共に消えていった。

エンディングテーマ:夢の大地(Kalafina)

キーワード
古田織部
関ヶ原の戦い
徳川家康
佐竹義宣
徳川秀忠
片桐且元
文英清韓
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Kalafina
京都府
織部焼

エンディング (その他)
22:41~

エンディング映像。

エンディングテーマ:夢の大地(Kalafina)

キーワード
夢の大地
Kalafina

次回予告 (その他)
22:42~

「歴史秘話ヒストリア 和泉式部の恋多き生涯」の番組宣伝。

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