歴史秘話ヒストリア 三菱をつくった男 岩崎彌太郎 海の明治維新

『歴史秘話ヒストリア』(れきしひわヒストリア)とは、2009年よりNHK総合テレビジョンで放送されているNHK大阪放送局制作の歴史情報番組。

出典:goo Wikipedia

放送日 2018年9月26日(水) 22:25~23:10
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
22:25~

四方を海に囲まれた日本。経済を支える貿易は99%以上が船で物資を運ぶ海運によるもの、輸送力は世界第2位という海洋国家。今夜のテーマは「海の明治維新」。幕末から明治の海洋国家誕生を目指した男たちの物語。当時日本の海運業は欧米列強に牛耳られていた。このいち早く立ち上がったのが岩崎彌太郎。後に三菱の礎を築く。若き日彌太郎に強い影響を与えたのが坂本龍馬。貿易に乗り出した彌太郎に強力なライバル。欧米の巨大企業。その時彌太郎がとった秘策とは。

オープニングテーマ”storia”Kalafina。

今回の主人公は岩崎彌太郎。現在も続く三菱を起こした。グループのビジネスは多岐にわたるが、始まりは海運業。なぜ海を志したのか、大きなきっかけは坂本龍馬との出会いだった。

キーワード
岩崎彌太郎
坂本龍馬
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storia
三菱

三菱をつくった男 岩崎彌太郎 海の明治維新 (バラエティ/情報)
22:28~

高知県安芸市の郊外にある彌太郎の生家。土佐藩の下級武士の子として生まれ、土佐弁で負けん気が強く豪快な「いごっそう」だった。生家には日本を動かす男になりたいと日本列島をかたどった石が並べた。21歳の彌太郎は高名な学者の元で学問を収めようと江戸に出た。ところが実家から父が揉め事に巻き込まれ重体との知らせが入り土佐に戻った。訴えようと奉行所に駆け込むが相手にされなかったことに怒り奉行所の壁に落書きを繰り返したため牢に入れられるが、同室の泥棒がそろばん上手だったため教えを請いそろばんを習得。

彌太郎は34歳の時に長崎で藩の貿易事業「土佐商会」で会計を担当。土佐商会は外国商人から18万両の借金を抱えていたが、彌太郎が外国商人を頻繁に訪ねあの手この手で借金の返済を先延ばしにした。その腕が認められ商会の責任者に抜擢。またこの時海援隊を率いていた坂本龍馬と出会い意気投合、論じあった。ところが1867年4月23日、海援隊が操るいろは丸が紀州藩の船と衝突、いろは丸は荷物とともに海に沈んだ。急ぎ長崎に戻った竜馬は彌太郎と土佐藩の重役・後藤象二郎に事態を報告。いろは丸は借りていたため弁償しなければなかったが、高額だった。2日後談判が始まったが議論は平行線をたどった。そこで竜馬は国際的な航海規則が書かれた万国公法を持ち出し、紀州藩に8万4千両、船、銃400丁の代金うぃ弁償させることに成功。しかし近年いろは丸の潜水調査が行われると、そこには銃の部品がなかったことがわかった。

いろは丸事件が一段落すると、竜馬は大政奉還のため長崎を離れるが、出発の日彌太郎は竜馬に仙台平という袴をプレゼントした。この日彌太郎は龍馬を港まで見送り、日記には涙が流れたと書かれていた。

明治維新が始まり土佐商会は廃藩置県により存続の危機に立たされていた。彌太郎は借金を引き継ぐ代わりに海運会社「三菱」を起こした。しかし経営はうまく行かなかった。その理由は1872年にできた政府が国内の開運会社を育成するための海運会社「帝国郵便蒸気船会社」の存在。大量の船と年貢米の輸送を独占するなど手厚い保護を受けていた。これに対し三菱は客に愛想よく接することで顧客を掴もうとした。また三菱は社員の約2割が外国人で、西洋の最新技術を日本人社員に教える役目を担っていた。また働きの優れたものには日本初のボーナスを支給するなど先進的な経営で郵便蒸気船会社に迫る業績を上げていった。1874年、政府から頼まれた台湾出兵の仕事を引き受けたことで三菱を高く評価、一方で輸送に協力せず業績も下向きだった郵便蒸気船会社を解散させた。三菱はその後、政府の助成を受けることになった。

1875年、三菱は日本の会社として初めて外国定期航路・上海航路に参入。上海はアジア有数の貿易港で欧米の海運会社にとって日本の市場を押さえるための最重要のルートだった。危機感を抱いたアメリカの海運会社は運賃を大幅に引き下げ客の囲い込みにかかるが、三菱も値下げ合戦も対抗。9ヶ月の競争の末アメリカは上海航路から撤退。しかし次にイギリスが参入。三菱社員の中には会社を去る人も出た。そこで彌太郎は荷物を預ける商人に積荷を担保にお金を貸す荷為替金融を始めた。これに東京や大阪の問屋組合が契約、顧客の大幅な獲得に成功。イギリスも撤退し、日本と海外をつなぐ航路を奪われたことで国内からも手を引き、彌太郎は東洋の海上王と呼ばれる様になった。

幕末の黒船来航の後、一気に開かれた日本の海運市場は船の性能の違いから欧米諸国にとってビジネスチャンスだった。明治始めの横浜港の絵には西洋諸国の旗を掲げた蒸気船が並べられ、三菱が出てくるまで欧米の独占状態だった。

三菱はその後金融・造船・鉱山など経営を多角化しながら成長を続けたが、その成長に明治政府の政治家たちが三菱を敵視。新聞・雑誌に働きかけ反三菱のキャンペーンを開始し、世論も傾いてきた。また政府は新たな海運会社「共同運輸」設立。これに彌太郎は激怒。1883年、船着き場では激しい値下げ合戦が行われ、主戦場となった神戸-横浜間の運賃は10分の1まで下がり、スピード競争も激化、それが原因で衝突・沈没事故も起き両者ともに疲弊し大赤字になった。1885年、彌太郎は52歳でこの世を去った。彌太郎の死後、世論は功績を讃える声が高まり、葬儀の参列者は5万人を数え人々は死を悼んだ。

彌太郎の死から半年後、三菱は共同運輸と合併し日本郵船が誕生。8年後、日本郵船は初の遠洋定期航路を開設、インドから独自に綿花を輸入できるようになり国内の紡績業は急速に発展、綿糸は日本を支える輸出品となった。更に3年後には三大定期航路を解説し、日本の貿易立国を確かなものにした。1875年、日本初の船の学校・三菱商船学校を設立した。

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岩崎彌之助
永代橋
三菱商船学校

エンディング (その他)
23:09~

エンディング映像。

歴史秘話ヒストリアの次回予告映像。

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