歴史秘話ヒストリア 世界が驚いた3つのグレートウエーブ 葛飾北斎

『歴史秘話ヒストリア』(れきしひわヒストリア)とは、2009年よりNHK総合テレビジョンで放送されているNHK大阪放送局制作の歴史情報番組。

出典:goo Wikipedia

放送日 2017年10月1日(日) 0:05~ 0:50
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
00:05~

ことし夏、大英博物館で葛飾北斎の展覧会が開かれ、行列ができた。神奈川沖浪裏は海外では日本以上に大人気で、モナリザと並び世界で最も有名な絵画と言われている。世界の人々を魅了する葛飾北斎。アメリカの雑誌「LIFE」では、過去1000年間の重要人物100人に日本人として唯一選ばれている。葛飾北斎が残した3つの波の作品について紹介する。

キーワード
大英博物館
葛飾北斎
神奈川沖浪裏
モナリザ
LIFE
歌川広重
小布施(長野)

歴史秘話ヒストリア (バラエティ/情報)
00:08~

2019年、日本のパスポートのデザインが葛飾北斎の富嶽三十六景に変わる。外国人観光客が訪れる浅草界隈では、葛飾北斎の名前や作品を至る所で目にすることができる。そして去年、東京・墨田区に葛飾北斎専門の美術館「すみだ北斎美術館」が誕生した。大人気の作品は神奈川沖浪裏。葛飾北斎が72歳の時に完成した。

今から約250年前、北斎は本所に生まれた。6歳のころから絵を描くのが大好きだったという。19歳の時、人気浮世絵師の勝川春章に弟子入り。わずか1年でプロデビューした。しかし無名の絵師に仕事はなく、北斎は唐辛子や暦などを売って食いつないでいた。気がつくと30代に差し掛かっていた。このままでは浮世絵師として一流になれないと考えた北斎は、他流派に浮気をする。北斎は、江戸時代を代表する様々な有名流派に頼み込み、腕を磨いた。しかしそれは、自分の流派を裏切る掟破りの行動だった。ある日、北斎は店の看板を描く仕事を引き受けるものの、兄弟子から作品を叩き壊されるという仕打ちを受けた。この時、北斎は世界一の画工を目指すという宣言をした。

37歳になった北斎。東京・芝にある愛宕神社で、代表作の神奈川沖浪裏のきっかけになる司馬江漢作の「相州鎌倉千里浜図」に出会った。北斎が初めて出会った、本格的な西洋風の絵だった。翌年、北斎は「江島春望」を描き上げる。しかし本人は納得いかず、西洋画を極めるためにオランダ人と接触。オランダ人たちに絵を描き、修練を積むことにした。シーボルトも、北斎が絵を売った一人だった。昨年10月、オランダにあるシーボルトのコレクションの中から北斎の絵が見つかっている。増上寺や日本橋を西洋画風に描いたものだった。模索を経て、北斎は50歳ごろに「おしをくりはとうつうせんのづ」を描き上げた。波は以前よりも格段に迫力あるものになっている。

西洋画にのめり込んだ北斎。しかし日本の絵師としての誇りは、人一倍だった。北斎はオランダ人に納めようとした絵巻を半額に値切られ、怒って持ち帰ることもあった。試行錯誤を続けて40年、富嶽三十六景の出版を開始。各地の風物と富士山を、大胆な形と奇抜な構図で捉えていった。そして、現在の横浜沖の光景として「神奈川沖浪裏」が誕生した。遠くの富士山と手前の大波の鮮烈な対比が、世界中の心を掴んだ。西洋の遠眼鏡で富士山を見ていた時、思いがけないところから波が入ってきたという視覚体験から、「神奈川沖浪裏」が生まれたとされている。

今や世界的にも有名な北斎。その理由は“グレートウェーブ(神奈川沖浪裏)”だけではなかった。北斎は人物や動植物・幽霊などのスケッチを数多く残している。そうした絵を約4000点集めたのが「北斎漫画」であり、絵を志す人の手本となるよう作られている。欧米では江戸時代末期に“Hokusai Sketch(ホクサイ・スケッチ)”の名で伝えられ、ゴッホやマネ、ゴーギャンといった有名画家の創作にも大きな影響を与えている。

「富嶽三十六景」によりトップの人気絵師となった北斎。そのライバルとして登場したのが、37歳年下の歌川広重だった。「東海道五十三次」「蒲原 夜之雪」など、広重の叙情的な作風は北斎をも上回る人気を博した。この二人は生涯で1度だけ対面したことがあると伝えられている。この好敵手の出現こそが第2のグレートウェーブとなる。

葛飾北斎は絵を描くこと以外には全く無頓着なその暮らしぶりから奇人として知られていた。また、引越しが大好きだったという北斎の生涯通算引っ越し回数はなんと93回。名前も頻繁に変えており、“北斎”の名も30に及ぶ名前の1つに過ぎなかった。家ではひたすら絵を描き続け、疲れて体が動かなくなってきた頃に蕎麦を食べて寝るという生活だった。そんなある日、北斎の名声を耳にした若き歌川広重が教えを請いにやってきた。この頃、30代で全く売れない絵師だった広重。北斎に倣い風景画で道を開こうと大先輩を訪ねた。しかし広重は、北斎のあまりの態度の悪さに嫌気が刺し、北斎に似た絵は絶対に描かないと誓ったという。これが両者唯一の対面となった。

その後、広重が出したのが「東海道五十三次」だった。江戸から京まで東海道沿いの風物を描いた浮世絵で、富嶽三十六景を凌駕する大ヒットとなった。名古屋市博物館副館長の神谷浩氏は「広重はデッサンは下手だが、人物の背中が哀愁を誘う」とその理由を語った。一方、若きライバルの登場で独自のスタイルを極めていった北斎。変化する海の一瞬の姿を捉えるなど、持ち味である形や構図の面白さを追求した。やがて第2のグレートウェーブ「富嶽百景 海上の不二」が誕生。北斎はこの絵で進むべき道の手がかりを掴むこととなった。

北斎は他人に冷たい人柄だったわけではない。みんなを喜ばせようとライブイベントも。ある寺の境内に紋付き袴で現れ、ワラで作った大きな筆で境内に敷いた畳120畳分の紙に描いた。北斎が紙を掲げると大きなダルマが描かれていて大喝采だったという。文化14年10月16日の北斎の手紙では自分のことを「屁クサイ」と名乗り、お辞儀する自分の絵も描かれていた。北斎の性格は絵と同じく変幻自在だったようだ。

信州・小布施に晩年の葛飾北斎は幾度も訪れ、最後のグレートウエーブに挑んだ。晩年、絵の名人としてたたえられた北斎。しかし私生活では不運続き。毎朝北斎が描いていたのは獅子や獅子舞で「日新除魔」という一種の魔除けだった。北斎は不良の孫に金をせびられていた。北斎は60代で脳卒中になり、自家製の薬を調合して飲み続けていた。さらに幕府の出版規制のため絵が描けなくなり、極貧生活に。

そんなとき、小布施の商人・高井鴻山が救いの手を差し伸べた。江戸から小布施まで240kmだったが絵を描きたい一心で北斎は歩き抜いた。小布施に到着すると、村人から上町祭屋台の制作を頼まれた。北斎にとって生涯唯一の立体作品となったこの屋台の天井には波が描かれていた。「男浪」「女浪」と名付けられた2枚の絵は世界の全てを表現しようとしたかのようで究極のグレートウエーブだ。大和文華館の浅野秀剛さんは一点一画が生けるがごとくなって、すべてが呼応して森羅万象の形、宇宙を表すと話した。この波を完成させた4年後、北斎は浅草の長屋で世を去る。享年90。最後の言葉は「天が我をあと5年生かしてくれれば真正の画工になれたはず」だった。

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千絵の海
富嶽百景 海上の不二
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北斎大画即書細図
浮世絵類考
日新除魔
葛飾北斎伝
脳卒中
小布施(長野)
高井鴻山
上町祭屋台
男浪
女浪

エンディング (その他)
00:42~

東京・上野の誓教寺に葛飾北斎の墓がある。亡くなって170年余り、今では世界中から北斎のファンが訪れている。墓石の側面に刻まれた辞世の句は「ひと魂で ゆくきさんじや 夏の原」。住職の本多英之さんは「死というものは人魂となって夏の原っぱを散歩に行くようなものだよ」と解説した。今年10月、大阪・天王寺のあべのハルカスで「大英博物館 国際共同プロジェクト 北斎―富士を超えて―」が開催される。およそ200点が集結。「男浪」が国内では小布施を除いて初めての展示。大英博物館から「神奈川沖浪裏」も到着した。浅野秀剛さんは初期の版画は絵師と版元の意思、制作意図がそのまま表れている、生で見る作品の魅力を味わっていただきたいと話した。命の限りを尽くして波に挑み続けた北斎は、今も世界中の人々の心を震わせている。

“into the world” Kalafina

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歴史秘話ヒストリアの次回予告。

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