NHKスペシャル 戦後70年 ニッポンの肖像 日本人と象徴天皇「第2回」

『NHKスペシャル』(エヌエイチケイスペシャル)は、NHKのドキュメンタリー番組。略称は「Nスペ」。単発のドキュメンタリーを制作・放送していたNHK特集に代わり、1989年4月2日放送開始。原則、毎週日曜日の21:00 - 21:50に放送するが時間枠を拡大したり他の曜日・時間に放送することもある。再放送は、火曜・水曜深夜。多くはハイビジョン放送である。本項では前身である『NHK特集』(エヌエイチケイとくしゅう)についても記述する。

出典:goo Wikipedia

放送日 2015年4月19日(日) 21:00~21:50
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
21:00~

オープニング映像。天皇陛下が忘れてはならない4つの日、8月6日広島・8月9日長崎・8月15日終戦・6月23日沖縄。

オープニング映像。

キーワード
ちばてつや
天皇陛下

日本人と象徴天皇 第2回 平和を願い続けて (バラエティ/情報)
21:03~

出演者が挨拶した。

1958年ミッチーブームが巻き起こるなど、皇室は平和で豊かな象徴となった。1964年10月東京オリンピック開会、国内外に奇迹の復興を印象づけた。一方、戦後日本から切り離されアメリカの施政権下にあった沖縄、当時はアメリカの軍事拠点となっていた。当時復帰に取り組んでいた新垣雄久は沖縄戦で家族を亡くし、家族を奪ったアメリカ軍に支配し続けられていたことにやりきれない思いを抱いていた。

国内で唯一住民を巻き込んだ地上戦があった沖縄、住民の4人に1人が犠牲となった。今の天皇陛下の本棚に収められている書籍を見るに沖縄戦だけでなく歴史・文化も詳しく理解しようとしていたことが伺える。1972年5月沖縄は27年ぶりに日本に復帰した。しかし県民の期待とは裏腹に基地のほとんどは残されることに。復帰を記念した海洋博覧会が沖縄で開かれ、皇太子夫妻が訪ねた。しかし県民の受け止めは複雑だった。

皇太子は訪問前の3か月間に60人以上の学者や関係者を招き沖縄についてさらに学んだという。沖縄文化研究者の外間守善は出発前日に、何が起こるかわからないのでくれぐれもお気をつけてと警告したが殿下は「私は何が起きても受けます」と答えた、とメモに残している。1975年7月17日皇太子夫妻は初めて沖縄を訪問。真っ先にひめゆりの塔を訪れ説明を聞いていたが、訪問に反対する地元の青年が火炎瓶を投げつけた。当時現場に居た報道カメラマンの山城博明さんはその時の皇太子の状況について「熱心に話しを聞いて汗がたらたらで、沖縄に関心を持たれているとすぐわかった」と語った。皇太子夫妻は一時車内に避難したが直後の混乱の中ですぐに塔の前に戻った。その日の夜に皇太子は沖縄県民に向けた「わたくしたちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなげ、共々に力を合わせて努力していきたいと思います。払われた多くの尊い犠牲は一時の行為や言葉によって贖えるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人々々、深い内省のうちにあってこの地に心を寄せ続けていくことを置いて考えられません」とのメッセージを発表した。

スタジオトーク。保阪正康、御厨貴が紹介された。この頃の国民が天皇や皇室をどう見ていたかについて保坂は「皇太子夫妻の結婚には戦争の陰もなく、新しい時代がこれから作られていくことの象徴だった」と解説した。今の天皇陛下が沖縄に寄せ続けている思いの背景について御厨は「沖縄について学び、訪問し、火炎瓶も投げつけられ修羅場を超えたことで、”学ぶ”天皇から”祈る”天皇へ変わっていく兆しだった。沖縄に寄り添っていくと当時から言っている」、保阪は「今の天皇は、なぜあの戦争が起きたのかとずっとお考えだと思う。一番大きな犠牲を受けたのは沖縄だから、きちんと理解して追悼、慰霊し、歴史の中に語り継ぐことを自らに課しているのでは」と解説した。

1970年代、戦後生まれが人口の半分を占め戦争はますます過去のものとなった。1971年9月に昭和天皇は半世紀ぶりにヨーロッパを訪れ、各国の王室と親交を深めることになった。象徴天皇となってからの初めての訪問は各地で歓迎を受けたが、ロンドンで昭和天皇の植えた樹木が切り倒され、オランダでは激しい反対デモが起こるなど市民の複雑な感情にも触れることとなった。昭和天皇は旅の間に公式に過去の戦争について語らないまま帰国した。70歳となっていた昭和天皇はこの年に「戦いを とどめえざりし くちをしさ ななそぢになる 今もなほおもふ」との歌を詠んでいる。4年後、戦後30年の節目にはアメリカに招待された。政府の中には、また反発が起きるのではとの懸念があった。訪問に先立ち、政府はアメリカのメディアに昭和天皇へのインタビューを許可した。「戦争を避けるための道はなかったのでしょうか」との質問に昭和天皇は「その時には相互理解に不十分な点があったように思われる。今後はできるだけ話し合って平和的な道に進みたいと私は思っている」と答えた。ホワイトハウスでの晩餐会で昭和天皇は戦争について「私が深く悲しみとするあの戦争」と語り、戦後のアメリカの支援に感謝する、とのスピーチを行った。案の作成に携わった藤井宏昭は「一番大事なのは戦争をどう表現するかだった。昭和天皇の名前で宣戦布告されたわけで、あのスピーチで、戦争をある意味で本当に終わらせるという、昭和天皇でなくては出来ないことを成し遂げられた」と解説した。昭和天皇は2週間で全米6都市を周った。

アジア諸国との関係も改善していった。昭和天皇は1978年10月、ようやく国交を正常化したばかりの中国の指導者トウ(登におおざと)小平と初めて面会を果たし、1984年9月にはかつて日本の植民地だった韓国のチョン・ドゥファン(全斗煥)大統領とも初めて会談した。改善しつつあった近隣諸国との関係に象徴としての昭和天皇の姿があった。1985年8月15日、中曽根総理が靖国神社を公式参拝し、中国や韓国から批判が起きた。靖国神社は国のために戦い亡くなった人達を祀ってきたが、1978年に敗戦後の東京裁判で「A級戦犯」14人が合祀された。たびたび靖国神社を参拝していた昭和天皇は1975年を最後に参拝しておらず、後に靖国神社について「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」と詠んだ。歌の相談役を務めていた歌人の岡野弘彦さんは「あれはA級戦犯の問題ですと侍従長がはっきりおっしゃった」「侍従長が、陛下が『禍根を残すとおっしゃった』と言っていた。これは重大なことだなと思った」と証言した。中曽根康弘元首相は当時について「天皇の参拝は遺族も願っていた。分祀して天皇が行けるようにするとの案もあったが実行はとてもむずかしい問題だった」と語った。その後も昭和天皇が靖国神社を参拝することはなかった。

沖縄は昭和天皇が晩年まで足を運べずにいた場所だった。本土復帰後に沖縄県の職員となり後に副知事となった新垣雄久さんは昭和天皇の沖縄訪問の実現のために奔走した。新垣さんらの尽力で1987年の国体が沖縄で開催されることが決定し、昭和天皇が開会式に出席することになった。厳重な警備が敷かれたが、昭和天皇は開会式を前に体調を崩し入院。訪問は中止となり急遽皇太子が出席した。新垣さんは「昭和天皇が来られて初めて復帰したとの気持ちになる」「この国体に見えていただきたかった。とうとうおいでになれなかった。その意味では安易も戦後は終わっていない」と語った。那覇市の神社には昭和天皇が病床で詠んだ「思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果たさん つとめありしを」との歌が石碑になっている。1988年8月、昭和天皇は静養していた那須からヘリコプターで東京に向い、病気を押して全国戦没者追悼式に出席した。これが国民の前に見せた最後の姿となった。

昭和天皇とその時代について、保阪正康は「昭和史には人類史が体験した社会的事象が詰まっている」、御厨貴は「昭和天皇の前半生は戦争の時代、後半生は平和の時代。昭和天皇は常に悩み、後半生も常にいろんなことと戦った天皇だったと思う」と解説した。靖国神社に参拝しなくなったことについて保阪は「A級戦犯合祀に起因すると思う」と解説した。病床で詠んだ歌の「つとめ」について保坂は「歴史的な精算などいろんな意味があると思う。果たせなかった悔しさを残しているところに、昭和天皇の強い遺志がある。だからこそ平成の天皇は理解して受け継ごうとしていう」、御厨は「昭和天皇の歌には悔しいとの表現がけっこうある。激しい感情の発露だと思う。戦争の精算もしたいが歩みがとどかないとの苛立ちもあるのだろう」「象徴となったからこそ、もう一度戦争などの責任を背負うことになり、象徴に対する”意味込め”がはじまった。今となってみれば、象徴とはすごい言葉だと思う」と語った。

1989年1月8日、天皇陛下は55歳で即位された。即位直後から象徴としての模索がはじまった。新たな天皇の姿として多くの人の印象に残ったのは国民との距離の近さで、雲仙普賢岳の噴火の被災者へのお見舞いでは膝をついてじっくりと話をされた。昭和天皇の時代には考えられないことだった。国際親善にも重要な役割を果たし、アジアの国々次々と訪問した。1992年には国交正常化20年の節目に招かれて初めての中国訪問が決まった。日本国内では訪中を決めた政府に抗議も起きた。当時内閣外政審議室長だった谷野作太郎さんは「両陛下をお迎えする市民たちは能面のように笑い顔ひとつなかった」と報告を受けたが、北京での晩餐会で天皇陛下が過去の戦争に触れられてからは変化が起き、「その後は市民たちの表情に笑顔が出てきて、最後は上海の市民が夜、笑顔で押しかけてきた」と解説した。天皇皇后両陛下は2005年には激戦地サイパンを訪問。2011年は東日本大震災の被災地を訪問、2014年は広島土砂災害の現場を訪問した。昭和天皇は沖縄訪問を果たせなかったが、現在の天皇陛下は2014年の訪問で10度目となり「この地に心を寄せ続けていく」との自らの誓いを実践されている。

天皇陛下が歴史に向き合われる姿について、保阪正康は「4つの日、つまり非戦闘員が大量に死んだ日はご夫婦で皇居で祈ってらっしゃる。戦争という政策のために亡くなった庶民、市民の為に祈ってらっしゃる。これは歴史的に見ても、国民に向けたメッセージだと思う」、御厨貴は「今の陛下、ご夫妻が立派だったと思うのは、象徴との役割にイデオロギー性などを一切付けずにやれることだけをきちんとやってこられた。象徴の中立性は今の陛下ご夫妻が作り上げたもの」と解説した。未来について保阪は「未来に何をつなげていくか試行錯誤されて考えている」、御厨は「今の天皇陛下は最初から象徴なので、それを考えざるを得ない。日本国の歴史のつながりの接点にいて、未来への方向性を模索している」と解説した。

キーワード
天皇陛下
美智子さん
屋良朝苗知事
東宮御所
戦争を知らない子供たち
王立植物園
泰緬鉄道
トウ小平
チョン・ドゥファン(全斗煥)大統領
朝見の儀
加藤紘一
千代田区(東京)
雲仙普賢岳

エンディング (その他)
21:48~

エンディング映像。

NHKスペシャルの番組宣伝。

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