NHKスペシャル 民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯

『NHKスペシャル』(エヌエイチケイスペシャル)とは、NHKのドキュメンタリー番組である。略称は、「Nスぺ」単発のドキュメンタリーを制作・放送していたNHK特集に代わり、1989年4月2日放送開始。原則、毎週日曜日の21:00 - 21:50に放送するが時間枠を拡大したり他の曜日・時間に放送することもある。再放送は、火曜・水曜深夜。多くはハイビジョン放送である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2014年6月22日(日) 21:00~21:50
放送局 NHK総合

番組概要

オープニング (その他)
21:00~

2014 FIFAワールドカップが開幕した。出場32チームの中でただ1つの初出場国、ボスニア・ヘルツェゴビナ。彼らの初戦を特別な思いで見つめる男がいた。元日本代表監督のイビチャ・オシムである。ボスニア代表は3つの民族の混成チーム。3つの民族は互いに憎しみ合い、かつて20万人もの命が失われたボスニア内戦を戦った。そんなボスニアを団結させ、ワールドカップ初出場に導いた立役者がオシムだ。対立と憎悪を乗り越え、奇跡のチームはどうやって生まれたのか。ボスニア代表とオシムの戦いの記録を追う。

キーワード
2014 FIFAワールドカップ
イビチャ・オシム
ボスニア内戦
ボスニア・ヘルツェゴビナ

民族共存へのキックオフ~“オシムの国”のW杯~ (バラエティ/情報)
21:03~

内戦で最も傷ついたのはオシムの故郷・サラエボ。サラエボの公園では内戦犠牲者追悼式が毎年行われている。対立する3つの民族を分けていたのは宗教の違い。人々は宗教の異なる民族ごとに分かれ、殺し合った。ボスニアでは今も、内戦中に行方不明になった人の捜索が続いている。去年10月には森の中で数百人の遺体が見つかった。平和を取り戻したかに見えるボスニア。しかし、憎悪の記憶は人々の心に焼きついたままだ。

激戦のヨーロッパ予選を勝ち抜いたボスニア・ヘルツェゴビナ。主軸となったのはエースストライカーのエディン・ジェコとズビェズダン・ミシモビッチ。ジェコはムスリム人でマンチェスター・シティに所属。リーグ優勝にも貢献した選手。ミシモビッチはセルビア人で、かつてブンデスリーガのトップクラブで活躍し、歴代最高の20アシストを記録。ミシモビッチがゲームを組み立て、ジェコが決める。それがボスニア代表の戦い方だ。

6月15日。2014 FIFAワールドカップ・ボスニア代表初戦のキックオフを1時間後に控えた首都サラエボのスポーツバーで、イビチャ・オシムの姿を見つけた。今はボスニアサッカー協会の顧問を務めているオシムだが、ここまでの道のりは長く険しいものだった。

24年前、オシムはW杯イタリア大会にユーゴスラビアの監督として出場。ドリームチームと言われていたが、その内実は複雑で、5つの民族・6つの共和国からなりモザイク国家と言われていた。80年代後半から民族主義が高まり、分離独立運動が激化。サッカーは民族の代理戦争と化し、マクシミル事件などサポーター同士の暴力事件が頻発していた。そんな中で監督に就任したオシムは民族主義者からの圧力をはねのけ、民族の利害ではなく実力だけで選手を起用。ユーゴ代表をW杯に導き、準決勝まで駒を進めた。準決勝の相手はマラドーナを有する優勝候補のアルゼンチン。試合は0-0のままPK戦へ突入。オシムは誰がPKを蹴るか選手たちに聞いたが、蹴りたいと名乗りでたのは2人だけ。躊躇させたのは、失敗すれば民族主義に囚われた人からどんな攻撃を受けるかわからない恐怖だった。

当時ボスニアサッカー協会はムスリム系、セルビア系、クロアチア系ごとに3人の会長が存在する異常事態に陥っていた。セルビア系・ミレ・コバチェビッチは他の民族は我々が地上からもいなくなることを望んでいる、クロアチア系・ヨシプ・ベヴァンダはムスリム人がサッカー協会を独占しようとしたことが許せなかった、ムスリム系・ディーノ・ベギッチは他の民族に支配される不安があるのは事実だと話した。

異常な緊張に支配されていた選手たち。Jリーグでも活躍した元ユーゴスラビア代表のドラガン・ストイコビッチもその1人だった。取材に対しストイコビッチは、「とても責任が重かったから蹴りたがらない選手はいた。恐怖があったのかもしれない」と話した。ストイコビッチはPK戦で外してしまい、ユーゴスラビアは準決勝で敗退。この敗戦あと、民族間の亀裂は急速に深まっていく。

W杯の翌年、ユーゴスラビアは内戦に突入。とりわけ凄惨な戦いとなったのがボスニア内戦。3つの民族の利害が激しく衝突し、20万人が命を落とした。オシムは戦争に抗議するため1つの決断をする。それは、代表監督の辞任。その後ユーゴは分裂し、民族ごとに新たな国家がつくられた。しかし、3つの民族がせめぎ合うボスニアでは国の主導権を巡り、さらに内戦が続いた。戦いを集結させるため、国はムスリム人とクロアチア人の地域とセルビア人の地域に分けられた。

W杯ヨーロッパ予選でボスニアは勝てば本大会出場が決まる最終戦を迎えていたがミシモビッチは膝を負傷し欠場しており、W杯への切符を逃してしまった。その5日後、当時の監督・ブラジェビッチが敗戦の原因はセルビア人のミシモビッチにあると発言した。

サイビチャ・オシムは、サラエボでW杯初戦を見守っていた。ボスニア代表はオウンゴールで失点したもののアルゼンチン相手い互角の戦いを見せていた。オシムはミシモビッチが頑張ればチームにもっとチャンスが生まれると話した。オシム自身はクロアチア系の血を引き妻のアシマはムスリムである。一次は解体寸前だったボスニア代表チームをW杯の舞台に導いたのがオシムだった。

2011年ボスニアはスイス・チューリヒにあるFIFA本部から会長が3人乱立する状況が解消されない限り国際試合の参加を認めないと通告を受けた。そこで、オシムは各民族の政治家や関係者を訪ね説得を行った。少数派のセルビア人は他民族への警戒心が強くボスニアが1つになることにも否定的で、オシムはミロラド・ドディックに直接掛け合いその結果、ドディックはサッカー協会をまとめることを指示した。オシムの力で出場が認められたFIFAワールドカップ ヨーロッパ予選で、ボスニアは快進撃を続けミシモビッチとジェコの活躍でワールドカップ出場を決め、オシムは涙を流した。

2014年6月15日。かつて民族の対立に絶望し、代表チームを去ったオシムが見守る中、ボスニア・ヘルツェゴビナの初戦が始まった。ボスニアはオウンゴールで1点を失うも、冷静な試合運びでアルゼンチンのエース・メッシに仕事をさせない。必至にチャンスを作ろうとするミシモビッチとジェコ。ボスニアの主力はオシムが率いたユーゴ代表に憧れた少年たち。彼らは激しい民族対立の中で少年時代を過ごし、サッカーと出会った。

ボスニア代表の出発式が行なわれた空港でオシムは選手1人1人にエールを送った。サラエボでアルゼンチンとの試合を鑑賞していたオシムは、ボスニアが初得点を決めると涙していた。試合は1-2で負けてしまったが祖国の人々の声援はいつまでも鳴り止むことがなかった。ズビェズダン・ミシモビッチは、この試合のおかげで強くなれたと思いますと話した。試合後サポーターたちはオシムを称える歌った。民族の違いを超え共存が可能だと信じる人々が確かにこの国に生まれはじめている。今朝ボスニア代表はナイジェリアに敗れたが最後の1戦で初勝利を目指し戦いに挑む。

1986年、エディン・ジェコはサラエボで生まれた。小学校に入った年に内戦が始まり、戦火の中を生き抜いた。ジェコの家族は内戦中に団地に避難。テレビを観ることも騒ぐことも許されず、差し込む光を頼りに絵を描いていたというジェコ。砲撃が止むわずかな時間を惜しんで命がけで練習したのがサッカーだった。

ボスニア代表の多くの選手は過酷な少年時代を生き抜いてきた。セルビア人のズビェズダン・ミシモビッチもまた、戦火とは無縁ではない。ミシモビッチが生まれ育ったのはドイツ・ミュンヘン。父親から教わったサッカーで才能を開花させ、バイエルン・ミュンヘンの育成選手に選ばれた。ミシモビッチには10歳年上の兄・ヴィートがいる。兄は兵士として内戦を戦った。戦った相手はムスリム人の武装勢力。内戦終結後、セルビア人たちは国内の少数派として生きることを余儀なくされた。ムスリム人への反感は根強く、ムスリム人のいる代表チームでミシモビッチが戦うことを快く思わない人も多いという。

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サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)
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