村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー 2015年1月4日放送回

放送日 2015年1月4日(日) 4:55~ 5:50
放送局 テレビ朝日

番組概要

オープニング (その他)
04:55~

本屋大賞を受賞した和田竜の「村上海賊の娘」で、瀬戸内海の海賊が注目されている。香川照之がこの地ををおとずれ、村上水軍と塩飽水軍、ふたつの海賊のいきざまに迫る。

本屋大賞を受賞した和田竜の「村上海賊の娘」(新潮社)で、瀬戸内海の海賊が注目されている。香川照之がこの地ををおとずれ、村上水軍と塩飽水軍、ふたつの海賊の生き様に迫る。

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村上海賊の娘
朝日新聞
本屋大賞
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瀬戸内海

村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー (バラエティ/情報)
04:58~

瀬戸内海西部、芸予諸島。戦国時代、この海で圧倒的な勢力を誇ったのが、村上水軍だ。その本拠地のひとつ、今治市大島には、村上水軍の博物館がある。ここには、一族の能島村上家につたわる貴重な資料が展示されている。村上家は、能島・来島・因島の3つの島からなり、総称して三島村上氏と呼ぶ。なかでも最強の勢力を誇っていたのが能島村上氏だ。海賊というと海の略奪者というイメージがあるが、戦国時代の海賊はさまざまな顔をもった海の領主だった。戦のときは、豪族や大名のもとで海のサムライ軍団として活躍。普段は、航行する船の警護、水先案内、帆別銭という通行料をとって生計を立てていた。中世の瀬戸内海は、京都と西日本各地を結ぶ最も重要な交通路だった。瀬戸内海を制する者は天下を制する、とまでいわれ、村上水軍は天下の動向にも影響をあたえていた。厳島の戦いでは、劣勢の毛利側に村上水軍がつき、暴風雨にまぎれて奇襲をしかけ、陶側を破った。

CMの後は、香川照之が海賊の海で驚きの体験!

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陶晴賢
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能島
来島
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村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー (バラエティ/情報)
05:04~

瀬戸内海は、干潮時と満潮時の水位の差が大きく、潮の流れが激しく、船の航行には高度な操船技術と潮を読む能力が必要とされる。そのため、高度な技術で3種類の船を操れた村上水軍が栄えたといわれる。能島村上氏は、周囲約850mの能島と、隣接する鯛崎島全体を要塞化し、能島城としていた。

村上水軍が最強になったのは、船戦のスペシャリストだったから。木津川口の戦いでは、機動力と手投げ弾「ほうろく火矢」を駆使して、織田信長にも勝利した。

村上水軍は、戦況に応じて、鶴翼の陣、魚鱗の陣などを使い分け、これを受け継いできた。兵法のほかにも、家訓を後世にのこした。その中に、「大将たる人道を正しく行うべし」という一文がある。

芸予諸島のほぼ中央にある大三島。ここに村上水軍ゆかりの、大山祇神社がある。古くから、山の神・海の神・戦の神として多くの武将から崇拝されてきた。伊予国の一の宮で、官制時代は国幣大社に格付けされていて、豪族の河野氏・村上氏が氏神として崇敬していた。武将の神としての信仰があるという。

CMの後は、香川照之が大興奮!武将たちの宝物!

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木津川口の戦い
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魚鱗の陣
軍船巻第一
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大三島

村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー (バラエティ/情報)
05:15~

大三島の大山祇神社には、宝物館がある。ここには、全国で国宝・重要文化財の指定を受けた武具類の8割が収蔵されている。そのなかのひとつ、紺糸裾素懸威銅丸は、鶴姫が着たとされる。鶴姫とは、戦国時代の伊予国にいたと伝わる女性で、討ち死にした兄に代わって伊予水軍を率いたという。しかし村上水軍は、天正16年に豊臣秀吉が出した海賊禁止令によって、衰退していった。なお、大山祇神社の宝物館は、赤絲威鎧・薙刀なども収蔵している。

CMの後は、瀬戸内海で海賊の痕跡発見!?

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村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー (バラエティ/情報)
05:20~

同志社大学のチームが、沈没船調査を、小豆島の沖合でおこなっている。このあたりで、多くの船が座礁・沈没したとされる。このあたりで発見された人工的にカットされた石がある。これらは江戸時代初期、大坂城をつくり直したとき、石垣に使うために切りだされたもの。近くに丁場跡もあり、大名の刻印入りの石も残っている。切り出した石は、海岸に落とし、船で大阪まで運んでいたと考えられている。石を運ぶには海を熟知していなくてはいけない。よって、海底に残された石は、海賊の痕跡と考えられる。

CMの後は、天下人が認めた海賊に香川照之が迫る!

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小豆島

村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー (バラエティ/情報)
05:26~

塩飽諸島で活躍したのが塩飽水軍。その本拠地の塩飽勤番所をたずねた。村上水軍と塩飽水軍とは対照的な組織。村上水軍が権力に媚びずに毛利氏に味方したのに対し、塩飽水軍は、ときの権力者の味方をして、生き延びた。

塩飽水軍の生き方を物語る資料が残されている。歴代の天下人から送られた朱印状がそれだ。織田信長から送られた朱印状には、天下布武の朱印があった。注目すべきは、徳川家康からの朱印状。日付が慶長5年9月28日とある。関ヶ原の戦いが慶長5年9月15日だから、早い段階で徳川が勝利することを読んでいたことがわかる。操船技術の高さを物語るエピソードも残されている。小田原城攻めのとき、塩飽水軍をはじめ四国・九州の軍船は米を積んで小田原を目指した。途中で台風に遭い、ほとんどの船が避難するなか、塩飽水軍だけは台風をものともせずに乗り切った。このことに豊臣秀吉は感心し、650人の船方に1250石の領地を与えた。船方たちは「人名」を名乗り、自治を行った。塩飽水軍が勤番所を所有していたのはそのためだ。塩飽水軍の繁栄は江戸時代にピークをむかえる。幕府の御用船方として活躍し、廻船業で巨万の富を築いた。

一見おだやかに見える塩飽の海だが、紀伊水道と豊後水道の潮流がぶつかることから、複雑で激しい潮流がうずまく、船の難所だ。香川大学工学部で潮流を再現しても、そのことは明らかだった。

CMの後は、海の技術者集団は大工になってもすごかった!

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村上水軍と塩飽水軍 海の覇者 瀬戸内海賊ヒストリー (バラエティ/情報)
05:36~

笠島地区は、江戸時代後期から昭和初期の町屋建築が立ち並び、国の伝統的建造物保存地区に指定されている。これらの建築物を手がけたのが、江戸時代に大工に転身した、塩飽大工と呼ばれる人たちだ。最後の塩飽大工である高島昭夫さんに、船の底の構造をひっくり返して屋根にした建築物などを案内してもらった。塩飽大工は宮大工としても活躍した。善通寺五重塔・吉備津神社・備中国分寺五重塔なども、塩飽大工の手によるもの。塩飽大工の功績を後世に伝えていこうという取り組みも始まっている。長本朝子さんがそのひとり。長本さんが注目しているのは、名工・橘貫五郎。芸術性の高い彫刻が特徴だ。塩飽大工がすぐれた彫刻を残せたのは、倭寇に加わった先祖が大陸から優れた大工道具を持ち帰ったことによる、といわれている。

「ギャラリー&カフェ 吾亦紅」で、塩飽大工についての勉強会が定期的に開かれている。関係者は「フェイスブックなどを利用して、若い建築家にも広めていきたい」などと話した。

村上水軍の子孫たちは、毛利家の家臣となり御船手組として幕末まで活躍した。彼らの武力の真髄は、武芸書・兵法書として多くの書物に残されている。日露戦争の日本海海戦では、聯合艦隊参謀をつとめた秋山真之が、村上水軍の兵法をもとにした丁字戦法を使い、ロシアのバルチック艦隊を撃破した。丁字戦法とは、敵艦隊の進行方向をさえぎるように自軍を配置、敵の先頭に砲撃を集中させて撃破するという戦術だ。

塩飽水軍は海の技術者集団として繁栄した。日本初の太平洋横断を成し遂げた咸臨丸の水夫50人のうち、35人が塩飽出身者だった。

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エンディング (その他)
05:46~

香川照之がロケを振り返り、瀬戸内海に感謝を述べた。

番組内で紹介したスポットを改めて紹介した。

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  1. 1月4日 放送