たしかに、そこは町だった〜広島平和公園の下に〜 2016年8月13日放送回

放送日 2016年8月13日(土) 3:20~ 4:15
放送局 フジテレビ

番組概要

オープニング (その他)
03:20~

2016年5月27日。バラク・オバマ大統領が、現職のアメリカ合衆国大統領として始めて被爆地を訪問。世界中が見守った歴史的な1日になった。この日、大統領が思いを巡らせた物があった。「私たちはこの町の中心に立ち、勇気を奮い起こして原爆が投下された瞬間を想像します。目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。私たちは声なき叫び声に耳を傾けます。朝起きてすぐの子どもたちの笑顔、愛する人との食卓を囲んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁。そうした素晴らしい瞬間が71年前にもこの場所にあったのだと考えることが出来ます」と話した。二度と過ちを繰り返さないために、大統領が思いを馳せたのは、原爆によって消え去った町。そして、そこに暮らしていた人たちのこと。

オープニング映像。私たちは知らない。この平和公園がある中洲には、4000人近い人が暮らしていたことを。この街は沢山の笑顔であふれていたことを。そして今、平和公園の下から次々と掘り起こされる、人々が生きた証。71年前の8月6日、1発の原子爆弾が広島から奪い去ったもの、消えた町の声に耳を傾け、消えた町の姿に目を凝らすと、失ったものの大きさに心が震える。

キーワード
バラク・オバマ
アメリカ
平和公園
原子爆弾
広島県
オムライス

たしかに そこは町だった〜広島平和公園の下に〜 (バラエティ/情報)
03:24~

のどかさと活気が同居する町、広島。現在およそ120万人が暮らしている。その中心部にあるのが広島平和公園。日々、平和学習に訪れる子どもたちや外国人観光客が訪れる。まさにこの頭上にキノコ雲が立ち上ったのは、71年前の8月6日、午前8時15分のことだった。原子爆弾”リトルボーイ”は投下から43秒後、地上およそ600mのとこで強烈な光を放って炸裂、大人も子どもも川に飛び込んだ。爆心地近くの温度はおよそ4000℃近くにも及んだという。半径2キロメートルが焼きつくされた。一命を取り留めた人々も後遺症に苦しめられ、その年12月末までの死亡者の数は推計でも役14万人にも及ぶという。原爆投下から半年経っても、見渡す限り焼け野原のまま。戦後復興が急がれる中、原爆ドームの川向に建設が始まり、被爆から9年後に完成したのが平和公園。だが、美しい公園と引き換えに、わからなくなってしまった。ここに、どんな町があったのか。

消えた町の姿に注目が集まりだしたのは、60年代。広島市などが共同で元住民などへの聞きこみを重ね、復元地図を完成させた。今の平和公園がある場所は、かつて中島地区と呼ばれていた。この地図を現在の平和公園に当てはめてみると、狭い中洲に建物が密集し、多い時には4400人が暮らしていたという。消えた町、中島地区。幼少期をこの中島地区で過ごしたという女性に会った。中村恭子さん、83歳。原爆慰霊碑のすぐ横に自宅があった。被爆前は大きなお寺など、木造建築が立ち並んでいたという。中島地区のウチ、中島本町と呼ばれた地域の南側。4歳で両親を亡くし、叔父夫婦の家で育った中村さん。自身は原爆投下の前に疎開していたが、中島に残った育ての親たちを失った。脳裏に甦る故郷の光景。問屋や昆布屋がたくさんいたのだとか。その頃の映像を見ると、今にも人の活気ある声が聞こえてくるよう。商店や銀行、娯楽施設などが集まった中島本町は、当時広島で1、2を争う繁華街。元々川を利用した物流の拠点として作られ、”商いの町”として発展したという。たしかにそこは「誇りを持って生きていた」町だった。

在りし日の中島地区を感じさせてくれる映像。原爆ドームを望む元安橋から平和公園の方へ歩いて行くと、かつてそこは中島本通商店街が。見上げれば、戦前の広島の繁華街を象徴する鈴蘭灯が。正面にはおもちゃ屋さんも。他にも様々な店舗が立ち並んでいる。このCG映像は、かつて中島地区に暮らしていた人々の証言を元に、再現されたもの。そんな繁華街の一角にあった、濱井理髪館。そこに住んでいた、濱井徳三さん。案内してくれたのは、原爆の子の像から歩いて15m。実家の理髪店があった場所。今の原爆慰霊碑からもほど近い、中島本町の中心部。当時の理髪店といえば、銭湯と並ぶ大人の社交場。遠慮の無い人間関係ができていた。その中心にいたのは、後に原爆で亡くなる父・二郎さん。自慢のお洒落な父だった。お洒落が似合う町。そこに育った子どもたちは、一銭洋食が一番のおやつ。産業奨励館、今の原爆ドームが一番の遊び場だった。繁華街中島本町から橋を渡った先にある産業奨励館は、広島の経済発展を支える拠点としてそびえ立ち、その建物の中では広島の物産品を展示していたほか、国の行政機関事務所なども入っていた。たしかにそこは「楽しい思い出があふれる」町だった。静かに佇む原爆供養塔。かつては中島本町の象徴的存在だった慈仙寺。大きな山門をくぐって見えてくる広い寺の境内は、子どもたちの遊び場になっていた。被爆直後の慈仙寺の姿を唯一残すのが、慈仙寺跡の墓石。ここは爆心地からわずか200m、爆風で墓石が吹き飛び今もそのまま。周りより此処だけ土地が低くなっているのは、その部分が本来の中島本町の高さだったため。瓦礫などが蓄積した上に土を盛って平和公園を作ったので、少し土地が高くなってしまっている。平和公園を歩く時、その足元には71年前に消えた町がたしかに眠っている。まさに今平和公園の地中から次々に発掘されているのは、当時の暮らしの痕跡。原爆が奪い去っていった町の現実が見えてくる。

キーワード
平和公園
原子爆弾
リトルボーイ
広島平和記念資料館
広島市公文書館
広島市(広島)
原爆ドーム
広島大学原爆放射線医科学研究所
浄法寺
初子
中島本町(広島)
原爆慰霊碑
上西功一
吉岡信一
中島本通商店街
ヒロシマからの伝言
原爆の子の像
原爆
二郎
四国五郎
産業奨励館
爆心地猿楽町復元
原爆供養塔
慈仙寺
広島県
元安橋
濱井理髪館

たしかに そこは町だった〜広島平和公園の下に〜 (バラエティ/情報)
03:38~

平和記念資料館の耐震補強工事に伴う初の発掘調査、去年11月の開始から様々な遺品が出土し被爆前の暮らしをうつしだしている。発掘が進められている平和資料館、そこはかつて中島地区の材木町と呼ばれたエリアで住宅密集地だった。下町の暮らしを伝える遺品たちを特別に見せてもらえた。古い水道管・割れた食器類などその数は約300箱もある。原爆を受けた物は一瞬で高熱線をうけるため、瓦の表面が沸騰して湧くなどの現象がみられる。発掘された遺品の復元作業を進めていくと当時の暮らしが見えてきた。桾木さんは割れたタイルを手に取り「いまあったらモダンな町が残っていただろうなと」当時の町の様子に思いを馳せていた。中でも沢山見つかっているカラフルなものがビー玉だ、これは当時ビー玉で遊んでいた子供が多く住んでいた事を想像させる。

川に囲まれた平和公園、中島地区の人々も川とともに生きていた。平野さんは川を見ると童心に返ったかのように「川ではカニとかエビとか採って、水がきれいで水泳をするわけですよ」と話した。川は遊びの場であり、またケンカの場所でもあったという。中島学校の川を挟んだ対岸には因縁の本川学校があり、よく学校同士でケンカをしたという。平野さんは平和公園を歩くとお父さんとの記憶を思い出す。実家は今の原爆慰霊碑から西へおよそ20メートルにあった平野靴下商、父・茂夫さんは病気で妻をなくし男でひとつで育ててくれた。大好きだったお父さんとの思い出の店が今の慰霊碑のちょうど後ろの辺りに「喫茶アキヅキ」という店がありよくお父さんに連れて行ってもらったという。

「喫茶アキヅキ」が忘れられないというのは鉄村京子さん。鉄村さんは「アキヅキでは子どもにはコレが1番いいってオムライスを食べさせてもらった」と話す。中島地区の東側の天神町に住んでいた鉄村さん、父の連れて行ってもらって食べたオムライスがとびきりのご馳走だった。原爆で焼かれてしまいお父さんの写真すらもう残っていない。鉄村さんのお父さんの思い出は世界館という映画館の端でビンに入った冷やし飴をよくもらったことだという。鉄村さんは当時相撲がとても好きで、中でも力士の双葉山・男女ノ川・安芸ノ海のファンをしていたと話した。鉄村さんにとっての中島地区をうかがうと「今でも時々思い出したり、夢見たりするからよっぽどよかったんじゃろう。」と話してくれた。

1945年8月6日午前8時15分人類史上初の原子爆弾投下、町は一瞬で消滅した。アメリカ軍が撮影した当時の映像には疎開先で助かった子どもたちが我が家があった場所で遺品を探す姿が写っている。平野さんもまたその1人だった、帰るとトタンの上に父の遺骨があり「これお父ちゃんよ」と言われたが現実を受け入れることができず涙も出てこなかったと話す。焼け野原で集めたものの中に唯一今も大切にもっているヤカンがある、このヤカンの中に父の遺骨を入れ疎開先に持って帰ったという。原爆が落ちた時15歳だった鉄村さんは勤務先に向かう時に被爆、命は助かったが当時家にいた母と弟たちは原爆で命を失った。辺りを掘って探したが骨も見つからなかったという。もし原爆が落ちていなかったら?という質問に「(人生は)180度変わっとると思うよ」と鉄村さんは答えた。

家族を中島地区に残し親戚の元に疎開していた濱井さんは家族4人を失い、戦災孤児となった。もし原爆がおとされずに家族が生きていたらもっと幸せに過ごせていたのではないかと語る濱井さん。「みんなと同じように大学にも行きたかった、親や兄姉の温もりももらいたかった」と濱井は話した。濱井さんが向かったのは家族のお墓、ここには複雑な思いがあるという。家族の死をなかなか受け入れることができず、被爆70年をむかえた去年ようやくお墓を建てることができたという。濱井さんは今でももしかした家族が帰ってくるかもしれないという思いを持ち続けている。被爆者の平均年齢は80歳を超え今私達は大きな課題に直面している。

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中区(広島)
木材町
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中島学校
本川学校
平野靴下商
喫茶アキヅキ
繁夫さん
カニ
エビ
材木町(広島)
旧太田川
世界館
双葉山
男女ノ川
安芸ノ海
天城旅館
オムライス
冷やし飴
天神町(広島)
鹿野つね子さん
滋さん
八千代町(広島)
天神町(大阪)
木材町(広島)
濱井二郎
イトヨさん
弘子さん
玉三さん
中島本町(広島)

たしかに そこは町だった〜広島平和公園の下に〜 (バラエティ/情報)
03:57~

原爆の記憶が風化していく中、オバマ大統領も広島の地で「1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません」「私たちは変わることができる」などと演説した。

二度と過ちを繰り返さないために動き出している人がいる。原爆で消えた街にくらす鉄村京子さんの娘・清野久美子さん58歳。清野さんは被爆体験伝承者養成事業(被爆者の体験や平和への思いを受け継ぐ人を3年の研修で養成、講話活動実施する)をうけ活動している。伝えるのは母の体験。公演後には天神町の慰霊碑に立ち寄り声をかける。清野さんが被爆体験を伝承する理由として、「被爆者の子どもとしてここの話しをしていかなければ」などとのべた。清野さんは新たな挑戦として訪れたのは英会話教室。広島を訪れる外国人にも伝えるために去年から通っている。今年4月から伝承活動を開始している。清野さんは日本に平和がなにもしないで続くとは思わない、何があったかを正しく伝えるのが一番いいかな、などと語った。

若者にも使命感に突き動かされた人がいた。広島県立五日市高校の放送部。中心メンバーとして活動しているのが、3年生の木村さんと柳さん。彼女たちは今年広島市で開催される全国高等学校総合文化祭で配る平和公園の地図作りをしていた。その地図は原爆前の暮らしが見える地図を作るという。

キーワード
原爆
オバマ大統領
広島県
平和記念資料館
広島市
天神町(広島)
中区(広島)
日本
五日市高校
全国高等学校総合文化祭
平和公園
佐伯区(広島)

たしかに そこは町だった〜広島平和公園の下に〜 (バラエティ/情報)
04:05~

原爆で消えた街・中島地区の本当の姿が知りたい。市内の高校生が話を聞きに行ったのはで理髪店を営む家に育った濱井徳三さん。平和公園をめぐりながら初めて耳にする人々の暮らし。知れば知るほど当たり前のように見ていた光景が違ってみえてくる。公園内にあるゲストハウスは爆心地に近い中島地区で唯一残った被爆建物。話を聞いて資料を調べて中島地区に触れていった五日市高等学校・3年の柳日菜子さんと木村智子さん・この日、2人が手をとめたのは平和公園に数多くある慰霊碑のひとつ。刻まれているのは原爆で亡くなった生徒たちの名前。原爆で消えた街を地図にして伝えたい。自ら取材をしより知る中で2人にはより強い思いが芽生えていった。木村さんらは「こういう町があったんだとかこういう人が住んでいたと知ってもらうことで原爆がなにを奪ったのかを知るきっかけになるなと思うので記憶の継承は避けては通れないと感じました」などと語った。

原爆を経験した人たちの言葉。平野隆信さんは「戦争や核の恐ろしさを忘れないことが大事」。鉄村京子さんは「故郷や家族への愛を忘れない」。中村恭子さんは「戦争が何を奪うのか平和公園に来ればわかる」。

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原爆の子の像
広島平和公園
平和記念資料館
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五日市高等学校
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中区(広島)
材木町(大阪)
天神町(大阪)

エンディング (その他)
04:13~

エンディング映像。

  1. 8月13日 放送