FNSドキュメンタリー大賞 生きるよすがを求めて〜映画監督 村川透のふるさと納税〜

『FNSドキュメンタリー大賞』(エフエヌエス・ドキュメンタリーたいしょう)は、FNN/FNS加盟28局が番組制作の質向上を目指すことを目的に1992年から毎年行っているドキュメンタリー番組のコンテストである。

出典:goo Wikipedia

放送日 2018年9月29日(土) 3:50~ 4:45
放送局 フジテレビ

番組概要

オープニング (その他)
03:51~

東京・目黒区、2017年11月、マンションの一室から引越し業者が荷物を次々と運び出していた。映画監督の村川透は80歳となり故郷に住まいを移すことにした。村川は日本における「ハードボイルド」の生みの親とも言われ、「大都会」など映画・テレビドラマ400本以上でメガホンをとってきた。村川は撮影現場では自分が良しとするモノをひたすら追い求めた。そんな村川が移住の決断した理由は、今まで恩のある故郷に何もしてこなかったことにあり、残りの人生で自分のやり方で故郷に恩返しをするためなのだと語った。

オープニング映像。

キーワード
大都会
蘇える金狼
あぶない刑事
目黒区(東京)

生きるよすがを求めて〜映画監督 村川透のふるさと納税〜 (バラエティ/情報)
03:56~

山形県山形市に移住し、故郷での生活を始めた村川は、東京ではゆったりと妻の喜代子さんと過ごすことは稀であったが、ここでの暮らしでは毎日となって、少しずつ環境の変化に対応していた。1937年、山形県村山市に生まれた村川は戦時中に幻灯機が映し出す時代劇の虜となった。村川は高校卒業するまでを故郷で過ごした。村山市は人口が60年前までは4万人を上回っていたが、現在では2万2437人の人口となっていた。村川は故郷を活気づけるため、誰もが文化・芸術に触れられる場所であり震災で傷んだ家屋を解体し作った私設ホール「アクトザール M.」の運営を開始した。「アクトザール M.」はホール定員60人で、大型プロジェクターなどが完備されている。村川の恩返しは「アクトザール M.」を建設し、運営することだけではなかった。

キーワード
山形市(山形)
村山市(山形)
アクトザール M.

生きるよすがを求めて〜映画監督 村川透のふるさと納税〜 (バラエティ/情報)
04:05~

村川が山形県村山市に私設した「アクトザール M.」は使用目的な自由であり、居住地に関係なく県内外の誰でも使用できる。また運営は村川の趣旨に賛同した人々が携わっており、設立当初よりイベント開催の数は倍以上となっている。運営方法の1つとして村川は時折ゲストを招いてのイベントを開催しており、この日は知人のベーシストである荘司正敏を招いてのジャズ演奏会を開いていた。また「アクトザール M.」の2つ目の運営方法として村川のファンが駆けつけ年に数回村川作品上映会を催しており、映画上映の後には村川のトークショーを行い、撮影秘話などを語っている。そして3つ目の運営方法として地域の住民が自分で企画しイベントを開催しており、その代表格は毎月第4土曜日に開催している「うたごえ合唱会」を主催する安達きわさんは「うたごえ合唱会」を生きがいにする人が多くなることを願っている。「アクトザール M.」ではどのイベントも参加者を楽しませるため様々な思考をめぐらしているが村川は自分でゲストを招いた時以外では積極的に運営に関わることはなく、「誰よりも情熱的に行動し、喜びを作る」という運営哲学を大切にしている。

長年映画とともに生きてきた村川は、長い映画人人生で一度だけ映画界から離れ、30歳を過ぎた頃に喜代子さんの実家が営む敬典工房 正寿堂「山正」にて2年間過ごし、鋳物の製造や事務仕事や営業など何でも取り組んでいた。1959年大学卒業後に日活に入社した村川は、1972年に映画「白い指の戯れ」で監督デビューした。その後、日活はロマンポルノに舵取りをし、村川にも依頼が回ってきたが、村川は自問自答を繰り返した結果、日活を退社した。そんな時に義理の父であり、人間国宝となった鋳物作家でもある高橋敬典が村川に手を差し伸べた。村川は高橋から職人としての哲学を学び、しかし30代から新たな技術の取組に限界を感じていた。そして旧知のプロデューサーから村川に「大都会」の監督オファーが舞い込み、村川は映画監督という職人として誰よりもへこたれずに高橋の教えのように「自分で良しとするものを突き詰める」作品作りを目指し始めた。

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村山市(山形)
アクトザール M.
日活
白い指の戯れ
高橋敬典
大都会

生きるよすがを求めて〜映画監督 村川透のふるさと納税〜 (バラエティ/情報)
04:17~

「アクトザール M.」の隣には茅葺きの離れを改装した小さな部屋があり、希望があれば誰にでも開放されている。村川はこの部屋を「ふくろう郷」と名付け、少年時代に飼っていたふくろうへの罪滅ぼしの意味を込め、「アクトザール M.」の守り神をフクロウとした。1976年、村川はテレビドラマ「大都会」で監督復帰を果たした。村川の現場の先を読む勘の鋭さや苦労を厭わない姿勢を多くの映像業界の人達が目に止め必要としていた。村川は陰影を匠に取り入れた映像、バックミュージックを意識したシーンづくり、脚本に囚われず役者の個性を取り入れたアドリブでヒット作品を量産し続けた。そんな作品の一つである「あぶない刑事」で主演を努めた舘ひろしは村川には普通の風景をかっこよく撮る才能に溢れていたなどと語った。シーンを止めず撮りきる長回しは村川作品の代名詞であるが、その長回しを最初に実現したカメラマンの仙元誠三とはケンカが絶えなかった。そんな仙元誠三も現在では山形県南部に移り住んでおり、この日、病気になったという仙元誠三を見舞うため村川が訪れていた。村川は「アクトザール M.」で仙元とともに何かを一緒にしたかったが、この時は仙元の病状から思いを胸のうちにしまっていた。

「アクトザール M.」の2階には松田優作をモチーフにしたイラストが飾られている。村川は松田優作が出演したジーパン刑事の作品に衝撃を受けており、ドラマ「大都会」で復帰した理由の一つに松田優作と共に仕事ができることにもあった。しかし当時の松田は傷害事件を起こしたとして映画やテレビから姿を消している状態にあり、村川は誰もが避ける中で松田を絶対に出演させるのだと制作に挑んだ。ある日「アクトザール M.」にて開催したイベントでは村川・仙元・松田が世に送り出してきた傑作の鑑賞会を行っていた。村川は監督でありながら言われた通りにしか演じられない役者は嫌いであり、作品のテーマを外さなければセリフでさえ変えても構わなかった。それを常に体現し続けたのが松田優作であり、村川は松田の全てを信頼していた。村川は松田のようにいつまでも生き生きと死ぬまで好きなことをやっていくのだと語った。

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村山市(山形)
アクトザール M.
大都会
松田優作
最も危険な遊戯

生きるよすがを求めて〜映画監督 村川透のふるさと納税〜 (バラエティ/情報)
04:31~

「アクトザール M.」のイベントは約20人のボランティアスタッフが中心となって運営している。一方で「アクトザール M.」のイベント参加者は高齢者が多いため、次の世代に繋ぐような交流が欠かせなくなっている。また「アクトザール M.」では資金面も常に課題にあった。春の訪れまえに「「アクトザール運営会議」が行われ、運営中心メンバーと村川が参席し、「アクトザール M.」を若い人に使ってもらうための案や村川に頼らない運営方法についてなどを話し合った。その結果、「アクトザールの会」という任意の運営組織を創設し、会の協賛金で運営してみることに決定した。

この日、「アクトザール M.」には若いママさんによるサークルの集まりが開かれ多くの子供達も訪れていた。イベントのひな祭りを主催した代表である滝口祐子さんは以前から商店街で皆が集まれる場を求めていたなどと語った。1週間後、今度は「アクトザール M.」にてホワイトデーのイベントが開催された。ちょうどこの時に村川にテレビ局から2時間ドラマの監督オファーが入り、映画監督としてもまだまだ現役であった。村川は43年前に故郷を立つ前立ち寄った山脈の高台に訪れ、当時のワクワクした気持ちと、現在の気持ちが重なっているようだなどと語った。村川不在となった「アクトザール M.」ではスタッフ各々が自分の役割を全うし、この日開催した「うたごえ合唱会」では歌だけではなく踊りも取り入れる試みが行われ、「アクトザール M.」に込めた村川の思いは着実に拡がっていた。そして東京にてドラマの撮影に挑んでいた村川は自分が倒れる瞬間まで名一杯頑張り続けるだけなのだと語った。

キーワード
村山市(山形)
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