FNSドキュメンタリー大賞 黒声(クルグイ)の記憶

『FNSドキュメンタリー大賞』(エフエヌエス・ドキュメンタリーたいしょう)は、FNN/FNS加盟28局が番組制作の質向上を目指すことを目的に1992年から毎年行っているドキュメンタリー番組のコンテストである。

出典:goo Wikipedia

放送日 2016年11月17日(木) 2:50~ 3:45
放送局 フジテレビ

番組概要

黒声の記憶 (バラエティ/情報)
02:51~

奄美群島は8つの島からなっており奄美にはいつも歌が溢れているが、この島から消えてしまった歌がある。30年ほど前、奄美竪琴を弾いていた盲目の里国隆は毎日路上に座って物を売っていた。里の人生を追うと浮かび上がってきたのは奄美と沖縄の知られざる戦後史だった。

昭和40年頃の鹿児島・奄美市にある永田橋界隈は商店が立ち並び賑わっていた。その一角で里国隆は毎日のように竪琴や三味線を弾きながら島唄を歌っていた。築地俊造は民謡日本一に輝いたこともある奄美を代表する歌手で築地のようなきれいな声を白声、太いだみ声を黒声という。築地も大きな影響を受けた里国隆は典型的な黒声だった。里の残された写真を見てみると竪琴を傍らにおきダンボール上には樟脳が山ほど置かれていた。樟脳とはクスノキから作る防虫剤で奄美の特産品だ。

里国隆は大正7年に奄美・笠利町で生まれた。国隆は生後間もなく失明しており、5歳の頃から祖父に島唄と三味線を徹底的に教えられた。盲学校もない時代で国隆は唄者になるしかなかった。当時、奄美には物売りや大道芸人がわたってきたため竪琴の音を聞きく機会があった。国隆は家族にも告げず1人の樟脳売りについていくことを決めた。

奄美を飛び出した里国隆の足跡が沖縄・国頭村安田に残っていた。当時を知る古堅安英は国隆が1人で歌いながらやってきたと話す。国隆は村の小学校で行われた出征兵士を送る会で唄を披露している。映画も娯楽もない国頭村安田で国隆の唄は大流行したという。3年半に及んだ太平洋戦争だが昭和20年春に沖縄は壮絶な地上戦に巻き込まれ日米合わせて20万人以上が犠牲になった。

当時の奄美大島の人達は山の上の方まで芋を埋めたものの食料は絶対的に不足し子どもたちも飢えに苦しんだ。沖縄は本土より早く復興しており奄美の人たちは島を捨てて廃墟とかした沖縄を目指し、内山照雄もその内の1人だった。しかし雇用は沖縄の人が優先で奄美の人は使わないとはっきり言われることもあったという。奄美の女性の中には売春をする人もおり南海日日新聞は「沖縄の夢という口車に乗るな」と警告した。沖縄で苦しむ奄美の人に飛び込んできたのは里国隆のうたう黒声だった。

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八月踊り
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日本の放浪芸
国頭村安田(沖縄)
太平洋戦争
南海日日新聞
朝花節

黒声の記憶 (バラエティ/情報)
03:06~

宮里千里さんは沖縄・那覇市の商店街で歌う里国隆と出会い録音を申し出た。沖縄伝統の祭りや伝統芸能の音を記録している。宮里さんが聴かせてくれたのは里国隆の歌う「朝花節」。代表的なシマ唄で宴席などで声ならしのために唄われる。テープには唄以外にも本人や周辺の声が収録されている。

昭和28年(1953年):奄美群島が本土に復帰した。しかし加計呂麻島出身の内山照雄さんに言わせると“。非琉球人”として外国人扱いされ、模合という沖縄独自の相互扶助の仕組みで暮らしていたという。

ある日里国隆が若者たちに取り囲まれてしまい、喜界島出身の山城武次さんが彼らから救い出した。その日から国隆は山城さん宅の居候のようになった。妻・ヤス(徳之島出身)さんによると、国隆の周囲には女性の姿が絶えなかったという。生きるために国隆は英語の歌や「流転」などの流行歌も盛んに歌っていた。

里国隆の肉声をラジオ沖縄に残っていた。「帰ってきた半琴弾きの国隆」という番組のものである。

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加計呂麻島(沖縄)
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山城武次さん
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流転
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徳之島(沖縄)
ラジオ沖縄
帰ってきた半琴弾きの国隆

黒声の記憶 (バラエティ/情報)
03:19~

お世話になった夫妻の前から姿を消したあとも国隆の放浪生活は続いた。奄美市では街のあちこちから島唄が流れてくる。歌者の築地俊造さんは島唄を観光客にサービスしてた。女将の西和美さんも歌者のひとりだ。築地さんと西さんは島唄でかけあった。実は歌で掛け合うのが島唄の真髄だ。築地さんは国隆のリズム感を自分のものにしようと教え請うた。リズムとアドリブ力が国隆の中で融合した。国隆は、島唄の歌詞を大胆に変えた。奄美の島唄研究の第一人者である小川学夫さんは国隆の歌を早くから評価していた。小川さんは「妥協しなかったですね。かなり自信があったと思う。プロの凄さがあった。決していい声で綺麗に歌うものではなかった」と語った。

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奄美市(鹿児島)
里国隆
六調
黒だんど節

黒声の記憶 (バラエティ/情報)
03:26~

昭和50年、国隆はある音楽関係者の目にとまりレコードデビューした。知名定男さんは国隆のレコーディングに立ち会い衝撃を受けた。知名定男さんは「体中の毛が立ちましたね。」と語った。国隆がレコードデビューしたのは1970年代。若者は反戦歌を歌っていた。昭和50年に録音された東京・日比谷野音公演の音声が紹介された。国隆を反戦歌手と見るむきもあった。しかし国隆は、「戦争前に勝つ唄を作った。勝つために作ったが、なんの間違いか分からないが負けたので今度は負けた唄を作った」と語っていた。食べるための唄で主義思想とは無縁の唄だった。

昭和38年、国隆は奄美に戻り市営住宅で暮らしていた。17年のさすらいの旅だったレコードデビューしても国隆は国隆だった。国隆には連れ合いが出来ていた。原田健一さんは、新潟大学で教授をしている。原田さんは「音楽的にはリズム感が凄いんだけど、彼の見ている世界が全然違うというインパクトがあった」と語った。原田さんが撮影した国隆の唄う様子が紹介された。原田さんは国隆を「心のヒーロー」と表現した。一度は捨てた古里・奄美に帰ってきた国隆。実は微かに光を感じる程度には見えていたという。古里の優しい光を求めて帰ってきのかもしれない。

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奄美市(鹿児島)
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日比谷野音
新潟大学

黒声の記憶 (バラエティ/情報)
03:35~

大阪此花区高見にはおよそ350世帯の奄美出身者がいる。牧志徳さんは加計呂麻島生まれ、後ろ髪ひかれるみたいにして奄美があり、せつない時などに島の人の中に流れている旋律はシマ唄だと語る。昭和60年兵庫県尼崎市でコンサートが開かれた、牧さんはコンサートを振り返りシマ唄が支えになって力になったと語る。

里国隆は那覇市でのライブを終え、その足で老人ホームを訪れた。理事長の濱田直隆さんは沖縄でのライブ後の訪問は突然決まったもので、驚いたと話す。濱田直隆さんは里国隆からいずれ老人ホームに入ろうと思うと聞いたことを語った。

里国隆は66歳でこの世を去った。里国隆は今、故郷笠利町で眠っている。笠利町には大笠利わらべ島唄クラブがある、中村武廣さんはヘタでも良いシマ唄が好きになりまた島でいっしょに唄ってくれたら一番良いと語る。

盲目の唄者里国隆、どんなときも笑顔を見せていた。

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那覇市(沖縄)
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笠利町(鹿児島)
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