ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介が巡る、ある日本人医師の物語 2017年2月5日放送回

放送日 2017年2月5日(日) 15:00~16:25
放送局 よみうりテレビ

番組概要

オープニング (その他)
15:01~

数々の歴史的事件の中心地となったベルリンを佐々木蔵之介が訪ねた。70年前、研究者として、またひとりの医師として人生を終えたある日本人、肥沼信次がいた。東日本大震災の3ヶ月後、ドイツのヴリーツェンの市民から75万円の義援金が送られた。それは肥沼信次への感謝の気持ちだった。第二次世界大戦でのドイツ敗戦後、発疹チフスが蔓延している中、肥沼が現れ、治療にあたった。その足跡を佐々木蔵之介が巡る。

オープニング映像。

キーワード
ブランデンブルク門
東日本大震災
肥沼信次
ベルリン(ドイツ)
ヴリーツェン(ドイツ)
発疹チフス

ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語 (バラエティ/情報)
15:05~

戦前の日本はドイツを手本にして発展していた。とくにベルリンは世界最先端の都市だった。肥沼信次は8年ベルリンで過ごした。佐々木蔵之介は博物館島を訪ねた。1830年から芸術と科学の聖域とされ次々と博物館が建てられた。佐々木蔵之介はベルリン大聖堂に入った。第二次世界大戦で大きな被害を受けたが1993年に改修工事が終わった。

つぎに、新博物館を紹介。1859年に建造され、展示品は古代エジプトに焦点をあてている。4000年前のものなど数々の貴重な展示品を見ることができる。古代エジプト美術の最高傑作とされる「ネフェルティティの胸像」を紹介した。館長は、第二次世界大戦での銃弾のあとを紹介した。戦争の傷跡はあえて残しているのだという。ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会は、空爆で破壊され、今も無残な姿のまま保存されている。

佐々木蔵之介は、広場のクリスマスマーケットに行き、名物のカレーソーセージを食べ、シュトレンを購入した。2016年12月19日、クリスマスマーケットに大型トラックが突入、12人の命を奪った。

肥沼の偉業が明らかとなったのは、東西冷戦が終結したあとのことだった。シュプレー川のそばには今もベルリンの壁が残され、絵が描かれている。100名のアーティストによって描かれたもので、ギャラリーとして保存されている。

ベルリンの壁に最初に絵を描いたというアーティストのアトリエを訪ねた。壁が崩壊する前に描いていたという。当時禁じられており、知り合いも投獄されたという。壁が崩壊したあとは、ヨーロッパの自由に敬意をはらう意味で描いていると話し、佐々木蔵之介に絵をプレゼントした。

ベルリンの壁崩壊によって、肥沼信次の消息が尋ね人というかたちで伝わった。日本の親族がこの記事を目にした。1908年、肥沼は八王子に誕生、町医者の跡取りとして育てられた。しかし中学生のころ、アインシュタインの来日で、強い憧れを持った。日本医科大学で医師免許を取得し、東京大学の放射線医学の研究者の道を歩み、1937年にベルリンへ留学した。

佐々木蔵之介はフンボルト大学ベルリンを訪ねた。肥沼はここで放射線医学を研究した。肥沼の経歴を調査したというシュヴァルツ博士が、大学内を紹介した。フンボルト大学ベルリン大学は、アインシュタインは教授として勤めており、森鴎外、北里柴三郎も学んだ。肥沼は、非常に優秀な研究者だったという。

1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦がはじまった。大学の文書保管室に保存されていた肥沼の関係書類を紹介した。学長が肥沼を教授に推薦した文書などがあった。しかし、ドイツの敗戦で、論文が完成せず、教授になることができなかった。

1944年8月20日、ヒトラーは、ユダヤ人を排斥するなど、アーリア人至上主義をとっていた。その中、肥沼は日本人の優秀さを訴え、人種差別に挑戦的な発言をしていた。

大量殺戮の実験場 ザクセンハウゼン収容所へ

キーワード
肥沼信次
博物館島
ベルリン大聖堂
新博物館
パ・ディ・イセト将軍の棺
タレカプの木棺
ネフェルティティの胸像
カイザー・ヴィルヘルム記念教会
カレーソーセージ
シュトレン
ベルリンの壁
イーストサイドギャラリー
レオニード・ブレジネフ
エーリッヒ・ホーネッカー
肥沼栄治さん
肥沼梅三郎
肥沼ハツ
アインシュタイン
日本医科大学
東京大学
フンボルト大学ベルリン
森鴎外
北里柴三郎
ヴァルター・フリードリヒ
ヴィルヘルム・レントゲン
アドルフ・ヒトラー
山極勝三郎
湯川秀樹
シュプレー川

ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語 (バラエティ/情報)
15:31~

ベルリンのバイエルン地区は、旧西ベルリンの中央に位置する住宅街だ。アインシュタインも住んでおり、かつて裕福なユダヤ人が住んでいた。この地域内にはユダヤ人への差別について書かれた80種類もの看板が残されている。フリードリッヒシュトラーセ駅からは、かつて多くのユダヤ人が強制収容所に送られた。

佐々木蔵之介はザクセンハウゼン記念施設・博物館を訪ねた。ゼフェレンス博士が出迎え、案内した。ここでは様々な大量殺戮の実験も行ったという。鉄条網には強い電流が流れ、自殺するものもいたという。実際に銃殺や絞首刑が行われた場所を伝えた。ここでの目的は、効率の追及と殺害側の負担を軽くすることだったという。

ベルリンの中心部にあるユダヤ人犠牲者のための記念碑を伝えた。

1944年に肥沼が日本の家族に宛てた手紙を紹介した。1945年4月13日、ドイツ外務省から日本大使館へベルリン脱出をうながす電話が入った。帰国者名簿には肥沼の名前もあったという。しかし、肥沼は現れなかった。大使館員らはベルリンを去った。その後の消息はわからなかった。

肥沼の足跡を追い ヴリーツェンへ

キーワード
フリードリッヒシュトラーセ駅
バイエルン地区(ドイツ)
オラニエンブルク(ドイツ)
ザクセンハウゼン記念施設・博物館
ルドルフ・ヘス
ホロコースト
虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑
肥沼信次
大島浩駐ドチツ日本大使

ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語 (バラエティ/情報)
15:44~

1945年5月8日、ドイツが敗戦した。佐々木蔵之介はヴリーツェンを訪ねた。肥沼について調査していたシュモーク博士の案内で、肥沼の墓を訪ねた。肥沼はベルリンを離れたあと、子供をもつ女性と、女性の姉がいるエーベルスヴァルデという街に避難した。肥沼はソ連に監視され、ヴリーツェンに移ったという。

ヴリーツェンには、多くのドイツ人が難民となって流入、発疹チフスが蔓延していたという。ソ連軍は伝染病医療センターを開設したが、医者はいなかったという。そこで、肥沼が声をかけられ所長に任命されたという。薬も医療器具もないまま、あらゆる手をつくして治療を行った。

肥沼が住んでいたアパートを訪ねた。しかし、ほとんど家には帰らなかったという。薬を手に入れようとあちこち出かけていたという。どんなことも困難を受け止め、看護婦らに冷静に指示を出していたという。肥沼が働いた伝染病医療センターは現在市役所になっている。佐々木蔵之介は市長と面会した。市役所の地下は当時のままだといい、案内してもらった。

市長は、肥沼の功績をたたえ、肥沼ルームという部屋を作り、当時の医療器具などを展示していた。東日本大震災の際、学生たちから自発的に義援金を集めようとアイデアがうまれたと話した。

伝染病医療センターに友達が入院し、何度も通い、肥沼との交流を深めたという住民を訪ねた。もともと病院ではなく、ベッドもなく床に藁を敷いていたという。肥沼はとても前向きで陽気だったが、ストレスがたまると拳をにぎりしめてクソ!と言っていたと話した。

1945年10月、肥沼は夜、往診もしていた。娘が発疹チフスになったときき、2日かけ野戦病院を訪ね、わずかな薬をゆずりうけ、9歳の少女の発疹チフスが回復したという事例を紹介した。

肥沼にもチフスの病魔が…

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肥沼信次
ヴリーツェン(ドイツ)
エーベルスヴァルデ(ドイツ)
ヨハンナ・フィードラー
エリカ・ヴォイツェク
発疹チフス

ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語 (バラエティ/情報)
16:06~

肥沼は、戦争で夫を失ったシュナイダーとその娘クリステルと暮らしていた。当時家政婦をしてたエンゲルさんから、優しく親切だったと話を聞いた。1946年2月、肥沼は発疹チフスに感染した。それでも医療センターの人達に知られないように接していたという。1946年3月に亡くなった。最後に、故郷の桜を見せたかったと話していたという。1993年、弟の栄治さんからヴリーツェンに桜が贈られた。

その後、ヴリーツェンは復興し、活気を取り戻した。肥沼の亡くなった3月8日は、市民らが墓に花を手向けている。

肥沼が紡いだ絆とは…

キーワード
肥沼信次
ヨハンナ・フィードラー
肥沼栄治

ドイツが愛した日本人 佐々木蔵之介が巡る、ある医師の物語 (バラエティ/情報)
16:19~

東日本大震災の3ヶ月後、ヴリーツェンから被災地に義援金が届いた。学生たちの自発的な募金活動だった。授業で肥沼について学び、日本を身近に感じていたという。

キーワード
聖ヨハニッター中・高学校
東日本大震災

エンディング (その他)
16:20~

佐々木蔵之介は、今回の旅を振り返り、肥沼さんの偉業を伝える人間がいたと感じた、このことを伝え続けることを勉強させてもらったなどと話した。

エンディング映像。

  1. 2月5日 放送
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