非破壊検査PRESENTS「復興せよ!〜後藤新平と大震災2400日の戦い〜」 2012年1月22日放送回

放送日 2012年1月22日(日) 15:00~16:25
放送局 よみうりテレビ

番組概要

オープニング (その他)
15:01~

東日本大震災から約10ヶ月、宮城県名取市閖上などでは爪あとがあちらこちらに残っている。関東大震災で焼け野原になった一面を蘇らせた後藤新平は、多くの人々と力をつくした。

キーワード
東日本大震災
閖上(宮城)
関東大震災
後藤新平

復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い (バラエティ/情報)
15:04~

六本木ヒルズの森タワーには東京を1000分の1にしたジオラマがあり、家1軒1軒まで再現されている。このジオラマで関東大震災の被害を見ると、銀座や東京スカイツリー、隅田川の地域まで焼けてしまったことがわかる。関東大震災で死者行方不明者は10万5385品にのぼり、東京市は3466ヘクタールが焼失された。

関東大震災は直前に総理大臣が急死した政治的にも最悪のタイミングで起こった。このとき後藤新平がいち早く動き新総理の山本権兵衛に組閣を迫った。後藤は内務大臣に任命され、9月2日の夜には復興に向けてのを基本構想をまとめ上げた。

後藤はまず避難所を準備し炊き出しを行うなど被災者への救済措置に尽力した。緊急の法案もいくつか成立させ、そのスピードは目覚しいものがあった。そして震災から5日後、帝都復興ノ議を閣議に提出した。

後藤新平は幕末の1857年に岩手県奥州市に貧しい武士の長男として生まれた。少年時代はガキ大将であり、やがて医学の道へといき、若干35歳で衛生局長へと駆け上った。相馬事件で無実の罪で入牢し、地位も名誉も棒に振った。41歳の時に台湾総督府民生局長に就任し、49歳の時には南満州鉄道総裁に就任。後藤新平は若い人材を集めて次々と都市計画を実行していった。

復興のための独立機関の帝都復興院の設立が決まり、後藤新平は自ら総裁になりすぐさま人材選びにとりかかった。都市計画のブレーンに佐野利器が起用され、後藤新平に丸善 日本橋店の鉄筋コンクリートの一部を木材で代用し、関東大震災で焼け落ちてしまったことを話した。そこで新しい帝都は耐震で不燃でなければならなく、その役目を買って出た。

後藤新平は経理局長に十河信二を起用をした。土木局長に太田圓三の起用を求められ、9月27日に帝都復興院の幹部人事が発表された。しかしそこに太田圓三の名前はなく、土木局長を任せるには若すぎると後藤新平は判断した。しかし後藤新平は考えた末、太田圓三に土木局長を任せることにした。

「近代日本の橋梁デザイン思想」の著者であり橋のデザインから帝都復興を考察する中井祐さんは、リーダーとしての後藤新平について「ものごとの成否の鍵は人にある」とい信念の元に動いた人物だったとし、ムラ社会の論理を堂々と無死したと話した。

江戸東京博物館には大正時代の街並みを再現した模型があり、深川江戸資料館のセットに入ると家々の隙間の狭さがよくわかる。後藤はその町の改造案を打ち出していたが、予算が足りずに実現しなかった。

当時の国家予算の2倍以上を使い、後藤新平は関東大震災の焼け跡を全部買い上げ、一から新しい街を築こうとした。関東大震災からわずか1ヶ月後、帝都復興院は早くも活動を開始した。

キーワード
関東大震災
後藤新平
山本権兵衛
奥州市(岩手)
相馬事件
銀座(東京)
隅田川
帝都復興院
佐野利器
南満州鉄道
台湾総督府
十河信二
太田圓三
近代日本の橋梁デザイン思想

復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い (バラエティ/情報)
15:26~

帝都復興院は幹部数名を決めたらすぐに走り出し、復興のプロ集団が作られていった。関東大震災の焼け跡を全て買い上げるという後藤新平のプランはあまりにも大きく、金がかかりすぎるものだった。そのころ被災者たちは焼け跡にバラックを建て始め、このままでは街を一新することは難しくなってしまう状況だった。

焼け跡を全部買い上げるという後藤新平の案は実現できなかった。その代わり区画整理が採用され、街並みを作りなおす事業であった。そのためには市民が一割ずつ土地を出しあうのが条件だが、実現までには多くの壁があった。帝都復興院の会議では、伯爵の伊東巳代治は期待していたものと違うとし、区画整理を批判した。復興予算は大幅に削減され、復興計画は後藤新平の理想から大きく外れていった。

キーワード
後藤新平
帝都復興院
伊東巳代治
区画整理

復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い (バラエティ/情報)
15:37~

後藤新平は予算削減を受け入れるか議会解散かの選択を迫られていた。後藤は一刻も早く復興を進めるため、予算削減を受け入れることを決めた。

予算削減を受けて復興院では計画の立て直しが行われた。後藤は当時の心境について「窮迫する市民の現状に鑑み忍び難きを忍びてしばらく議会の修正に同意を示す」などと残していて、次の議会に予算の復活をかけていた。

復興予算は7億円から4億6800万円にまで縮小され、後藤新平は次の議会でそれを取り返すつもりだった。しかし議会の初日、虎ノ門事件が起こり、その結果内閣は総辞職し、後藤新平も大臣を辞任した。帝都復興院は廃止され、太田圓三らは一緒に辞めることを考えるが、予算の復活を図れなどと今後について後藤新平らは談義した。

復興局と東京市などによって区画整理が進められた。市民にはパンフレットが配布され分かりやすく説明された、一番強く反対したのは江戸っ子の町・神田駿河台だった。

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後藤新平
太田圓三
佐野利器
帝都復興院
十河信二
虎ノ門事件
関東大震災
総辞職
神田駿河台(東京)
区画整理

復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い (バラエティ/情報)
15:48~

後藤新平は表舞台を去った後も各地で公演し市民の理解を得、それは復興への強い後押しとなった。一番反対の強かった神田駿河台から区画整理を始め、その後各地でも順調に進んだ。区画整理がされた街は道が真っ直ぐとなり見通しが良くなった。後藤は感謝すべきは市民だと話した。

区画整理と同時に橋の再建が始まった。技術だけでなく芸術的な部分を大事にしていた太田圓三は、画家たちに掛けてみたい橋を描かせ、そのような計算できない橋を作りたいとした。

太田圓三は静岡県伊東市に生まれ、幼いころから文学を好んだ。大学では土木工学を選び、20代で欧米に留学もした。中井祐は太田圓三について、文化成熟の土台としての都市づくりとして帝都復興を捉えたと話、デザイン性に優れた永代橋や清洲橋の設計に繋がったと続けた。

大正13年、太田圓三は親友の十河信二が復興局から鉄道局に戻されてしまったことを聞いた。

キーワード
区画整理
後藤新平
神田駿河台(東京)
太田圓三
永代橋
清洲橋
十河信二

復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い (バラエティ/情報)
15:58~

太田圓三は復興局から追放されてしまった十河信二と酒を酌み交わした。

復興局員たちが寝る間も惜しんで動いていた最中、2人の職員が業者から多額の賄賂を受け取ったとして送検された復興局疑獄事件が起きてしまった。太田圓三にまで疑いがかかり、親友の十河信二が捕されてしまった。世間の目は冷たく、太田は仕事も手に付かなくなった。

大正15年3月、精神的に衰弱した太田圓三はナイフで心臓を刺し自殺してしまった。十河信二が保釈されたのはその2ヶ月後で、十河は深い悲しみに涙した。

キーワード
復興局疑獄事件
太田圓三
十河信二

復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い (バラエティ/情報)
16:12~

東京大手町の官庁街はかつて復興局があった場所で、すぐ近くにある太田圓三が手がけた神田橋のたもとには太田の記念碑がある。平成17年には復興局員の名簿が見つかり、今回は特別にその名簿の名前が映された。

日本橋や神田駿河台、隅田川にかかる相生橋など、関東大震災からの復興を遂げる当時の街並みと今の街を比べた。中井祐はこの復興についてチームの力が要因となっていると話、今回の東日本大震災についてもチームとしての総合力が問われているとした。

昭和5年3月26日、帝都復興完成記念式典が行われた。しかしそこに後藤新平の姿はなく、後藤の最後の姿について復興局4代目長官の堀切善次郎は、昭和4年の4月2日に突然姿を表し、復興に貢献した人物の名前を記したものを置いていったと回想している。後藤は4月13日に死去した。

キーワード
太田圓三
永代橋
清洲橋
蔵前橋
厩橋
吾妻橋
横浜開港記念館
相生橋
大手町(東京)
後藤新平
堀切善次郎
神田橋
日本橋(東京)
神田駿河台(東京)
日比谷(東京)
お茶の水(東京)
銀座(東京)
隅田川
東日本大震災

エンディング (その他)
16:21~

エンディング映像。

  1. 1月22日 放送