いだてんが駆け抜けた時代 2019年1月6日放送回

放送日 2019年1月6日(日) 17:00~17:55
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
17:00~

東京オリンピックまであと1年半。新国立競技場がある神宮外苑から今年の大河ドラマ「いだてん」を紹介。「いだてん」はオリンピックをテーマにしたドラマで、主人公は日本で初めてオリンピックに出場したマラソンランナー・金栗四三と、1964年の東京オリンピックを実現させた田畑政治の2人。脚本は宮藤官九郎だ。金栗が走るために履いた意外なモノとは?田畑が開会式に込めたメッセージとは?

和久田麻由子アナら出演者によるオープニングの挨拶。中村勘九郎は大河ドラマ初主演なのだが、「金栗四三さんはあまり世に知られていない存在。それをみんなで盛り上げていこうという感じなのでプレッシャーはない」と、為末大が「金栗さんはアスリートの世界でも知られていない。今回のドラマで知る人が多いのでは。スポーツで歴史に名前を残すには金メダルをとるかファウンダー(創始者)になるかしかない」と語った。

金栗四三を語る上で欠かせないのが「足袋」。当時はランニングシューズがない時代で、裸足、わらじ、草履が一般的。そんな時代にマラソンを始めた金栗は足袋を履いて走った。

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オリンピック
足袋

いだてんが駆け抜けた時代 (バラエティ/情報)
17:06~

熊本・和水町の金栗が通っていた玉名北高等小学校では、運動場で子どもたちが走っていた。1891年、明治中期の日本で金栗は8人兄弟の7人目として誕生し、体が弱く泣き虫な子どもであったという。金栗がマラソンランナーへとなった秘密を子どもたちは道徳の授業で勉強していた。金栗は毎日往復12kmの山道を走って登下校するのが嫌であったが、兄の実次の励ましにより走っていた。南関第三小学校では金栗のオリジナルソングを作詞した。

1910年、金栗は東京高等師範学校に入学した。金栗をマラソンランナーに導いたのは校長の嘉納治五郎であった。嘉納治五郎は柔道の創始者で、日本の体育の父とも呼ばれ日本にスポーツを広めた人物である。当時、体育は兵士育成の役割が強かったが、嘉納は心身を鍛えるのに最適と考え、毎年長距離大会を行っていた。新入生の金栗は上級生を抑えて3位となり、嘉納は長距離ランナーとしての金栗の才能に惚れ込んだ。嘉納にはオリンピックに日本人が出場するという夢があり、当時は西洋の国々しか参加していなかった。目指すは第5回ストックホルム大会で、1911年11月にオリンピック国内予選大会が行われた。足袋を履いて挑んだ金栗は2時間32分45秒で完走し、見事優勝となった。しかし、金栗はもし結果が出せなければ国の恥となると考え困惑した。

嘉納は金栗に「日本スポーツ界のため黎明の鐘となってくれ」と声をかけた。金栗は予選会で足袋の底が途中で破れ、はだしで走っていたとのことで、マラソンに耐えられる足袋がほしいとした。そして、日本初のマラソン足袋が作られ、底には厚めの布が3枚貼ってあった。この布は柔道着が最も近い素材ではないかとのことである。

マラソン足袋のレプリカがスタジオに登場した。足の大きさは約25.5cmで、中村勘九郎さんも足のサイズが25.5cmであるという。親指の付け根のふくらんだ部分の母指球が減っており、右足の方が蹴り足であったことが分かるとのことである。この足袋では石畳などで滑ってしまっていたのではないかとした。

大悟さんが”大悟さんのクセがすごい偉人伝”を披露した。金栗は気を紛らわせるために「さっちゃん」を歌ったり、楽になるために”2度吸って2度吐く”という呼吸を編み出した。当時は教科書がなく、ほぼ独学で金栗は走り方を研究していた。

金栗は初の海外遠征のストックホルムで採取した花を押し花にして集めていたという。1912年、金栗は船と列車を乗り継いでストックホルムに向かい、道中をイラストや地図で詳細に記録した。6月2日に17日間かけてストックホルムに到着し、白夜を初めて体験するなどコンディションは最悪であった。7月6日、第5回ストックホルム大会が開幕し、各国の選手団2000人以上が参加する中、日本は団長の嘉納と選手は2人だけであったことから、金栗は生きた心地なしであった。そんな中、金栗はマラソンの練習途中に花を摘んでいた。押し花の多くは金栗の故郷の熊本でもよく見かける植物であった。中でもオオイヌノフグリの仲間が特に好きであったという。

金栗は「道ばたの野ばらをつみてわが部屋にいけて眺むるここちよきかな」として、押し花をすることで心を休めていたと考えられる。7月14日のマラソン当日、ゼッケン番号822の金栗は後ろから5番目と出遅れてしまった。金栗は外人がスタートから速く走ることが初めての経験で慌てたという。そして、折り返し地点でコンディションを崩し、コースを外れて行方不明となってしまった。見つかったのは翌日のことであった。

為末大は、オリンピックでウォーミングアップをして競技場に入る時に、だいたいコーチと行って背中をとんとしてもらって入るが、自身もコーチがいなかったが、その瞬間に一番孤独を感じる、あの瞬間だけなんでコーチを付けなかったんだろうといつも思っていたと明かした。中村は、大河ドラマ「いだてん」のストックホルムロケではオリンピックが開催されたスタジアムで撮影したといい、不思議な感覚になったと語った。

その後金栗は二度オリンピックに出場するが、満足の行く結果にはならなかった。その後マラソン選手の育成に力を入れ、マラソン足袋の改良にも力を注いでいく。そのシューズは金栗足袋と呼ばれ、足にフィットするよう紐がついている。特に注目スべきは靴底。ゴムで補強され、日本のマラソン選手はその後何十年もの間このシューズを履くほど柿的なものとなった。金栗は日本ではまだ舗装されていない道が多かったためにその足袋をお風呂場で試したという。

日本人選手その後の活躍では1920年のアントワープ大会ではテニスの男子シングルスの熊谷一弥が初銀メダル。アムステルダム大会では男子三段跳びで織田幹雄が初金メダル。ロサンゼルス大会では男子水泳で金メダルを5つも獲得した。その世界一の水泳チームを率いた総監督田畑政治を阿部サダヲが演じる。静岡県浜松市の図書館では去年貴重な金栗四三と田畑政治が一緒に写真を撮っていた資料が見つかった。田畑政治は東京にオリンピックを招致して立派な大会をやりたいというのが私の夢であり、大袈裟に言うなら私の人生最大の目標だったと答える。

田畑政治の経歴は異色で、水泳選手としての現役生活はわずか四年。10代の頃病気にかかち医師から競泳の選手を諦めるように宣告されならば指導者で日本一になってやると闘志を燃やした。田畑は東京帝国大学を卒業し新聞社の政治部記者となり、人脈をフルに活用して水泳の連盟を立ち上げた。田畑が特に力を入れたのは世界の実力を選手達に肌で感じさせること。当時アメリカ選手を日本を招いて日米対抗戦を開催した。次の目標は東京でオリンピックを開催することだった。1931年には日本はオリンピック招致に名乗り出、代表は金栗をオリンピックに参加させた嘉納治五郎。当時30代だった田畑は嘉納のもとで学んでいく。日本側がオリンピック委員会たちを説得するために特にアピールしたのが明治神宮外苑競技場。スポーツを国民に普及させるために作り上げた東洋1の競技場で、説得が実を結び東京で1940年にアジア初のオリンピックが開催されることになった。しかし1937年に日中戦争が始まり、海外からの批判が殺到。窮地に追い込まれている時に嘉納治五郎が死去した。求心力を失った日本はオリンピック返上を決定した。戦後わずか二ヶ月で嘉納治五郎の志を継いた田畑が立ち上がった。ロサンゼルス大会で大勝利した時、田畑はスポーツのちからを目の当たりにしていた。

しかし敗戦国の日本は戦後初のロンドンオリンピックに参加が認められなかった。大胆にも田畑は水泳の日本選手権をオリンピックの水泳競技と同じ日程で行うと発表した。多くの日本人が神宮プールに詰めかけた。1500メートル自由形決勝でトップを泳ぐの古橋廣之進。驚異的な記録を出しオリンピック優勝者よりも早かった。この結果は日本人に自信と勇気を与えた。日本は国際舞台への復帰を果たした。残る最大はオリンピックを東京に承知すること。オリンピック委員の説得する上で大きな役割を果たしたのは小学6年の教科書。五輪の旗という文書があり、日本人は誰もが平和な祭典であることを理解し、待ち望んでいることを訴えた。1964年オリンピックは東京に決定。金栗がオリンピックに初めて参加してから半世紀、ついに自国で開催できるまでになった。東京オリンピックの総責任者となった田畑。その貴重なインタビューが残っている。田畑は聖火をアジア各国に回そうと提案した。1964年に東京オリンピック開会式が行われ、国立競技場として生まれ変わった場所で聖火リレーの最終ランナーは現れた。そのランナーは8月6日に広島で生まれた青年で原爆を落としたアメリカに忖度し、周囲が反対する中、田畑は自説を貫き通した。その事実を知った外国人は列を乱して駆け寄った。田畑は平和だからこそオリンピックができるが、オリンピックをすれば平和になるわけではないとしている。

東京オリンピックについてのVTRが終わってスタジオトーク。為末大が東日本大震災の後にファンドレイズした話をして、スポーツの持つ力について語った。VTR最後の聖火ランナーのシーンは良いシーンだった、金栗さんは聖火の最終ランナーを狙っていたのでは?、金栗四三さんと田畑政治さんは何を話したのかなどと振り返った。

国立競技場は100年前にスポーツの普及のために建設されたが、戦中は学徒出陣の壮行会が行われた。1964年の東京オリンピック開催で本来目指したスポーツの殿堂になった。それが来年のオリンピックで生まれ変わる。設計を担当した建築家の隈研吾さんは10歳だった1964年の東京オリンピックの時に、代々木競技場第一体育館を訪れたのがきっかけで建築家を志したという。隈さんはデザインをする上で1964年という時代との対比を重視した。当時は高度経済成長期だったが、今の日本は少子高齢化で別の豊かさを探す時代なので、そういう時代には木の持っている「やさしさ」を主役につくったという。新しい国立競技場は日本全国から集められた木材が競技場を包み込む。

ゲストたちが金栗四三&田畑政治を通して東京オリンピックを特集した番組の感想を語った。

キーワード
金栗
RUNNER 人生をかえた十二キロ
和水町(熊本)
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メギ
セイヨウメギ
ゲンノショウコ
ゲラニウム
オオイヌノフグリ
ベロニカ
大河ドラマ「いだてん」
田畑政治
熊谷一弥
織田幹雄
浜松市(静岡)
金栗四三
東京帝国大学
日中戦争
東京オリンピック
東日本大震災
ファンドレイズ
金栗四三さん
学徒出陣
第二次世界大戦
国立競技場

エンディング (その他)
17:53~

大河ドラマ いだてんの番組宣伝。

千鳥のノブは「いだてん」に今回の出演者が参加するのもいいと提案するが、千鳥の大悟は、為末大が出演すると抜く可能性があると笑いを誘った。

NHKオンデマンドの告知テロップ。

キーワード
いだてん
NHKオンデマンド

番組宣伝 (その他)
17:54~

私は左手のピアニスト~希望の響き 世界初のコンクール~の番組宣伝。

ザ・プロファイラー 夢と野望の人生の番組宣伝。

グッと!スポーツの番組宣伝。

歴史秘話ヒストリアの番組宣伝。

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