よみがえる藤田嗣治〜天才画家の素顔〜 2018年10月7日放送回

放送日 2018年10月7日(日) 15:50~16:39
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
15:50~

今から100年前のフランス・パリで大人気となった日本人画家の藤田嗣治。今年マイヨール美術館で藤田嗣治の展覧会が開かれ多くの人が訪れた。藤田が描いたのは猫と乳白色の肌の女性たち。日本では藤田の作品は長い間見ることができなかった。第二次世界大戦中に戦争画を描いた藤田は戦後、戦争責任追及の矢面に立たされ日本を去った。やがてフランス国籍を取得し日本には戻ってこなかった。近年、藤田の素顔に迫る新たな資料が公開されている。フランスの自宅には録音テープが埋もれていた。それは遺言とも言うべき言葉だった。

キーワード
パリ(フランス)
藤田嗣治
マイヨール美術館
第二次世界大戦
戦争画

よみがえる藤田嗣治〜天才画家の素顔〜 (バラエティ/情報)
15:54~

藤田嗣治は26歳のときにフランスに初めてきた。エコール・ド・パリにはピカソやシャガールなども集った。藤田嗣治は現在の東京都新宿区に生まれ、父は軍医総監を務め、東京美術学校で西洋画を学んだ。藤田嗣治はフランスに来て2日目にピカソを訪れた。藤田は日本で想像する以上の絵画の自由さ、新しい形に躊躇なく飛びつく革命、日本で習得した作風を全部放棄する決心をしたとのちに語っている。当時はアカデミーで習うのが普通だったが、独学で学んだ。

1914年第一次世界大戦が勃発。藤田はパリに留まった。日本の家族に宛てた手紙には画家としての覚悟が記されていた。1918第一次世界大戦終結。その年は藤田はジュイ布の裸婦で注目を集めた。これまでの裸婦とは違い、墨と使ったり、女性の肌の色が評価された。パリ市立近代美術館のソフィーさんは「ジュイ布の裸婦がパリに衝撃を与え、エロチシズムを強調した裸婦はない。他にも多くの日本人はいたが、誰かになるという固定観念があり、藤田はそれを超えたから成功した」と語った。藤田は皮膚の色についてカンバスその物が既に皮膚の味を与えるような質のカンバスを考案することに着手したと後に述べている。

その発想は日本の浮世絵にあった。その後、裸婦などの作品を次々と制作し、サロンなどに出品した。藤田はFOUFOUお調子者いう意味のあだ名で親しまれた。

日本の画家たちは藤田を非難した。しかし、藤田は酒は飲めず、宴の後も筆をとるなどしており普通は14時間、仕事を励む際には18時間だったという。上野で「没後50年 藤田嗣治展」が開かれている。裸婦と違った絵があった。

1929年世界恐慌で絵の値段は暴落。藤田は乳白色に変わる絵の模索を始め、やがて日本に戻った。そして、画家が名門符号の個人的愛玩のみに奉仕することなく、大衆のための奉仕も考えなければならないと思うと藤田は述べており、秋田の行事はこれまでと違った作風となった。当時、日中戦争が勃発し政府は戦いを記録した戦争画を求め、国民の戦意高揚のため全国各地で展示された。藤田は51歳で参加し、画家たちの中でリーダーになっていく。

当時の自画像はトレードマークの髪型を変えていた。藤田の戦争画は初期と後期で印象が違っており、当時藤田は「日本にドラクロアなどのような戦争画の巨匠を生まなければ成らぬ」と語っていた。ソフィー・クレブスさんは藤田の戦争画について、フランスの歴史画を参考にしていると解説。青森で展示された藤田の戦争画をみた女性は跪いて拝んだ様子を見た藤田は深く感動したという。

1945年終戦。GHQは戦争関係者の責任を追求する中で、戦争画を描いた画家たちの中でも議論になり、誰が責任を取るべきかのアンケートを取ると後輩が藤田の家を訪れ、罪を引き受けてくれと涙ながらに懇願されたという。その後GHQは戦争画家を追求することはなかったが、藤田は日本を離れることを決意していた。終戦の4年後にニューヨークへ。そこで描いた「カフェ」は以前藤田がいたときのパリのカフェではなく、それよりも以前の19世紀末で20世紀の辛い現実を描いたものではなく、純粋に絵を描くことに専念できた環境に戻ることを願っていたとソフィー・クレブスさんは解説した。

藤田は1950年パリに戻った。かつての画家仲間はおらず、メディアは1人の亡霊と批判した。その後、フランス国籍を取得、日本国籍を抹消。その4年後にはキリスト教の洗礼を受けた。藤田が死んだあとも批判した。藤田はフランス郊外に移り住んだ。戸田恵梨香がその家を訪れ、藤田が自作した食器などを見て回った。レコードは日本曲、食事は日本食だったという。最上階はアトリエになっている。

テープレコーダーには藤田自身の肉声が録音されており、その音声は世界初公開した。

藤田は最後に礼拝堂の設計段階からデザインの指示を出した。壁画はフレスコ画。藤田にとっては初挑戦となる画風だった。礼拝堂が完成してから2ヶ月後、病に倒れ、その1年後81歳で世を去った。壁画の一部に最後の自画像を描いていた。

藤田嗣治の写真を映しながら、エンディング。

キーワード
藤田嗣治
エコール・ド・パリ
モンパルナス(フランス)
モディリアーニ
シャガール
ピカソ
東京美術学校
自画像
キュビスム風静物
巴里城門
第一次世界大戦
パリ市立近代美術館
ジュイ布の裸婦
ベルギー王立美術館
裸婦
タスピリーの裸婦
舞踏会の前
没後50年 藤田嗣治展
上野(東京)
日中戦争
秋田の行事
ルーブル美術館
ドラクロワ
武漢進撃
アッツ島玉砕
民衆を導く自由の女神
失われた時を求めて
プルースト
カフェ
カルナヴァレ美術館
ヴィリエ・ル・バクル(フランス)
ホテル・エドガー・キネ
フレスコ画
ランス(フランス)
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