明日へ−つなげよう− 「悲しいけれど生きる〜帰還した人々と柳美里の創作劇〜」

放送日 2019年3月7日(木) 2:35~ 3:18
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
02:35~

人気のない一本道が続く福島県南相馬市のとある集落で自転車を漕ぐ作家の柳美里さん。毎年5月になると赤いツツジが1週間ほど咲き誇るが、ここは除染作業で出た放射性廃棄物の仮置き場からほど近く、柳さんは「赤が防壁のようにも見える。醜いものに対抗している」と話した。育てているのは避難先から戻ってきた住民でツツジの庭は残せたが先祖代々の家屋は痛みが激しくやむなく解体。この庭以外に心の支えとなるものは今は何もなく「この先のことを考えると疲れる。自殺だね」と話した。柳さんは原発事故後住民たちを尋ねては抱えている想いを聞き取ってきていて、この秋演劇に取り組んだ。脚本は住民が体験したエピソードで構成し、住民たち自らが演じる。あの日から7年半、心の奥底に閉じ込めてきたものが言葉となって吐き出されていく。原発事故で苦難を強いられ傷ついた福島人たちの再生の物語。

キーワード
南相馬市(福島)

悲しいけれど生きる~帰還した人々と柳美里の創作劇~ (バラエティ/情報)
02:38~

福島第一原発から16km離れた南相馬市小高区では避難指示が解除され3割の住民が戻っている。ここに暮らす小説家の芥川賞作家の柳美里さんは原発事故で多くの住民が避難を強いられたことがきっかけで3年前に家族と共に移住してきた。柳さんは震災の翌年には南相馬に通い、自分にできることは一人ひとりに耳を傾けることではないかと臨時災害FMに毎週出演した。この7年で600人の住民から話を聞いてきていて、柳さんは600人に聞けば600通りある、次第に現地に住まなければ本当の苦しみはわからず相槌すら打てないのではと考えるようになり移住を決意。今年4月には交流の場を作ろうと自宅を改装して小さな書店をオープンさせ、この秋創作劇を上演するために自宅裏の倉庫を劇場に作り上げた。脚本作りに加わったのは意外な顔ぶれの南相馬に戻ってきた住民達で育った待ちの記憶などを聞いて、事故前の何気ない思い出を脚本にする。柳さんは「奪われたのはささやかで取るに足らない者の繰り返し。それを芝居で再現したい」と話した。

10月、初めて行われる柳美里さんの芝居練習で脚本の第1項が出来上がった。劇は住民が自らの体験を語りそれに合わせて俳優が演じる。台本にはセリフが書かれているが自分の言葉に言い換えても良く、ツツジの庭を手入れしていた石川さんが柳さんのセリフが気になっていて変えてもらっていた。40年前から庭でツツジを育ててきた石川さん、事故前は集落の人々の憩いの場だったが、原発事故後に目と鼻の先に除染廃棄物の仮置き場が置かれ。今は訪れる人は少なくなった。柳さんは「40年後を想像して増やして生け垣を作った。その中に原発事故はなかった。40年の人生とプライドがツツジの赤、それを芝居の中に赤を表現したい」と話した。ツツジの手入れは避難生活で中断したが去年再び満開の花を咲かせたが、避難生活で自宅を長期間空けたため動物に荒らされ150年続いた武家屋敷の家屋は諦めざるを得なく国が負担する制度を使って泣く泣く解体した。石川さんは「重機が解体する時は涙がこぼれた。悲しさと悔しさがあった」と話した。今、石川さんは別の集落にある復興公営住宅に1人で住んでいて、若い頃に結婚したが離婚していてその後一人で過ごしてきた。原発事故で集落の人達とはばらばらになり今は近くに古くからの知り合いはいない。あの頃に戻りたいと看板に書いてあり「今の付き合いと昔のこの頃に戻りたい、言葉にならない気持ちがある」などと話した。

劇に出演する一人の矢島さんは避難指示が解除された1年後に戻ってきた。18歳で視覚障害を抱えるようになり、今は光を僅かに感じられる程度で、集落から音が消えて矢島さんは道に迷うようになった。この地区でも子を持つ若い世代が避難解除に基準になった放射線量の値に不安を持ち戻ってきていない。矢島さんは5年間避難先で暮らし溶け込もうとしたが国や東電から賠償金をもらっていることにやっかみを言われ、戻ってくれば友達が誰かいるかと戻ってきたがいなかった。原発事故と復興政策の影響でばらばらになってきていて、分断と言われ家族でさえも互いの気持ちや悲しみを語れずにいる。

在日韓国人の二世として日本で暮らしてきた柳美里さん、自分が抱えてきた悲しみと南相馬で出会った人たちとのそれとがダブって見えた。柳さんは戦後日本にやってきた韓国人の両親のもとに生まれ、父は些細な事で暴力を振るい、母は娘の人格を否定するような言葉を浴びせた。小学校にはいるといじめを受け、バイキンと呼ばれ給食をよそると捨てられたり校庭で服を脱がされた。柳さんは次第に悲しいと強く感じるようになったがその気持ちは誰にも言えず、自暴自棄になって自殺を何度も考えた。柳さんは「いじめを受けている時は感情を表に出すと更にいじめられると思っていたので自分を固めていた。自分の中の悲しみの水位が増していき、自分の中で自分で溺れそうになる状態のときもあった」と話し、そんな時であったのが演劇や小説。自分が抱えているものを文章に変えて伝えていき、自分の悲しみが流れ誰かの悲しみに触れ、少しずつ死にたいという気持ちが消え生きることができるようになった。

10月2日、練習2日目。本格的な練習が始まり、石川さんはこの日も台本のセリフに縛られ自分の言葉で気持ちを表現できなかった。翌日、石川さんは俳優達を自分の庭に案内し、裏山からの光景は目を背けたくなるような光景の除染廃棄物の廃棄場があり、田畑がもとに戻るまで10年かかる。練習3日目、事故後荒れ果てた庭を初めて目にした時の場面で自分一人では拭うことの出来ない悔しさを露わにした。柳さんは「原発事故さえなければという言葉は台本に無い。家族がいないので70歳を超えて孤独。1番人にとって辛いのは一人だということで悲しみを聞いてくれる人がいない。だから石川さんに演劇が必要」と話した。原発前事故前のささやかな思い出を語る練習を繰り返し、矢島さんは視力を失うことがわかった日の悲しみを語り、それぞれの日常を失った悲しみを受け止め合っていく。矢島さんは「不思議な感じ、その時のことが鮮明に思い出されるような。みんな忘れられない思い出があると感じて涙も滲んできて笑いもあり楽しくなってきている」と話した。

柳さんにはこの演劇に取組きっかけになった人がいて、クリーニング店を営む高橋さん。柳さんが南相馬に通い始めた頃の友人で、父が70年前に起こした会社の2代めで事故後店や工場を閉め家族とともに一旦避難したが家業は捨てられないと戻って店を開けた。夫や息子たちからは理解を得られず、高橋さんはその時のどうにもならない記憶を短歌に表現してきた。従業員の暮らしを守るためには仕方がない選択で7年がたった今も家族との間にわだかまりが残っていて、そのことに柳さんも気づいていて「強くなきゃいけないという立場があり、弱い部分を誰も見てもらえない。心のなかに沈殿している悲しみをいっぱい抱えている」と話した。高橋さんの稽古は家族と離ればなれになる場面を中心に行われ、台本のセリフに引っかかる部分を感じ伝えていた。翌日、高橋さんは自分の短歌集を手にしていて、ありのままの気持ちを一緒に演じる俳優に伝えた。高橋さんは家族に対して感じた率直な気持ちを語ってみたいとしていて、わだかまりを解く一歩になればと思っている。翌日の練習で孤立したことの想いをぶつけた。

俳優と地元の出演者による初めての全体演習で他の人達が抱えてきた想いに触れた。高橋さんは涙を流し「石川さんの気持ちがこみ上げてくる。悲しみを共有できたって共有してるのは悲しみ、8年目で残っているのはそういう悲しみ」と話した。練習の後、高橋さんは一番好きな場所に俳優を案内し、一度は失われた田畑も人の手が入り少しずつもとに戻ってきている。高橋さんは「荒れ田になっているのは原発事故のことを思い出す。形が違ってくると少しずつ遠くに行く感じはする」と話した。高橋さんは家族とのつながりを取り戻そうとしていて「原発事故さえなければというのがものすごくある、それを話すことでそのこだわりを終わりにしようと思った。こう言う悲しみを他の人に味あわせてくないと語ろうと思った」と話した。

10月15日の本番初日は大勢の観客が集まった。それぞれが自分の言葉で震災前の思い出を語っていき、日常を失った悲しみを語る。高橋さんは今まで言えなかった悲しみをそのままぶつけた。劇の最後はそれぞれの悲しみを弔う儀式を行い、抱えてきた悲しみを観客とともに悼んだ。原発事故さえなければと語っていた石川さんは原発事故の傷跡を受け止められるようになり、復興公営住宅から引っ越し、ツツジの庭がある元の自宅へ向かう。石川さんは「演劇をやって私一人ではない。みんな悲しみ苦しみは同じ。自分ばかり悲しんでいるわけにも行かない。来年のツツジは去年よりも良いと思う、こういうのを見て心が癒やされるので来る」と話した。家族との間にわだかまりを抱えていた高橋さんは仕事を休んで家族のいる仙台で孫と遊ぶことにした。高橋さんは「家族と繋がることを意識しないとダメ。人のつながりで生きていると思ったらやり直せばいいだけ」と話した。どんなに時が過ぎてもあの日を背負い続ける人たち、消えることのない悲しみとともに生きようとしている。

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