明日へ−つなげよう− 証言記録▽岩手県山田町 地元スーパー 復活への150日

放送日 2018年8月26日(日) 10:05~10:53
放送局 NHK総合大阪

番組概要

明日へ つなげよう 証言記録 東日本大震災 町民の台所を救え ~地元スーパー 復活への150日~ (バラエティ/情報)
10:05~

リアス式海岸が続く岩手県沿岸の山田町、震災前には2万人近く暮らしていた。漁港から200mのスーパーマケットびはんは60年前に山田町はじめてのスーパーとして開業した。3代目の経営者間瀬さんは大学卒業後に大手スーパーで修行を積んで地元に貢献したい商売を通じていいものを大きくしたいと帰郷し父親から店長の仕事を任された。3年が経ち、地元の食材を活かした間瀬さんの経営が軌道に乗り始めた矢先に東日本大震災が起き、山田湾から湧き上がるように津波が押し寄せ、堤防を突き破り町に流れ込んだ。間瀬さんは客を避難させ間一髪で近くにある高台に逃ていて、「街全体が飲まれてショック、どうしようもない。店が心配なので見ていて、天井の高さぐらいまで波が来て飲まれてしまった、それが一番ショックだった」と話した。津波の直後、町のあちこちから火の手が上がり、一晩中津波火災が燃え広がり、翌朝山田町の中心部は瓦礫の荒野になり家屋の4割が失われる大惨事だった。スーパーは幸い火災は免れたが津波による被害は甚大で、早朝店に駆けつけた間瀬さんは瓦礫の山をかき分け店内に入ると全部店の奥に押されているような見る影もない店の姿で、しばらくすると近隣住民が食べ物を求めて集まってきて、肉などがあったのでバケツリレーで店の真ん中に出して好きなように持っていってもらった。間瀬さんは生きないといけないという気持ちのほうが大事と語った。店内からまだ使える品物を探し出した間瀬さんは張り紙をして、何もかも流された被災者に無料で食べ物を提供した。震災直後、山田町では約5000人が避難を余儀なくされ、一部の避難所には翌日からおにぎりなどが届いたが、自宅で孤立する1万人を超える人々に支援物資は届かなかった。道路が寸断されて町の外に出ることが難しい中、間瀬さんのスーパーも2日間で食料がそこを尽きかけていて、間瀬さんはこのままじゃダメだ食べ物を持ってこなきゃいけない。その日のよる興奮して眠れなくて、自分は一体何をしたらいいのかずっと考えて、壊れた道路を迂回し盛岡に向かい、中央卸売市場の担当していた仲卸の田村さんは全く連絡が取れなかった間瀬さんが突然尋ねてきて驚き、すぐ商品が欲しいと、県内どこでも欲しがっていてすぐ食べられるりんご等柑橘系を10品ほど注文し、今すぐ必要だと間瀬さんの熱意が通じ、田村さんはすぐ食料品を配達すると約束した。間瀬さんは「うちがやらないでどこがやるんだ、山田の食を担ってきた地元を思う心」と話した。山田町にとんぼ返りした間瀬さんは駐車所にテントを張って青空市を準備しそこに田村さんの車が到着、間瀬さんは「車・荷物が来たと感動してみんなで喜んだ」と話した。日が立つに連れて震災直後から各地に広がった買いだめが影響し、思うように商品が届かなくなった。

間瀬さんは電話で助けを呼ぼうとしていて、焼き鳥店秀吉を経営する渡邉さんは名刺交換を娘が行った間柄だったが、山田町の現状を聞くと乗馬クラブに向かい、馬運車を車代わりに使おうとしていて、エンジンが震災でなくなったガソリンではなくディーゼルであったことが功を奏して動かすことができ、仕入先に頼み込んで食料を確保するといっぱいに詰め込んでいった。渡邉さんは馬運車で運んだことから一時は町の人から落胆されたが、食料が出てくると喜んでいたと振り返っていた。

びはんストアの青空市を頼りにしていた保育所も多く、山田第二保育所所長の中村さんは親たちの生活再建を減らそうとしていて、青空市では豚汁などの温かいものを利用したことで給食を復旧できたが、一方で在庫を抱えられない問題もあった。

震災から1か月が経ってからも復旧は進んでいなかったが、間瀬さんは震災前から空き家となっていた県立病院でスーパーを始めないかと医師で青空市を活用していた近藤さんから提案されていて、建物がないと冷蔵品などの商売もできないのでありがたいと話していて、建物の別棟を間瀬さんは店舗として借りることになったものの、商品陳列や生鮮食品を扱うための生鮮ケースを 購入する資金は残っていなかった。しかし、青森県むつ市のマエダからケースを譲り受けたことで事業を始めることができたのだった。

2010年、びはんはマエダが加盟するグループの一員になった。東北各地の地域スーパーが提携し、商品を共同で安く仕入れようと立ち上げたネットワーク。青森へは間瀬半蔵が自ら運転して冷蔵ケースなどを受け取りに行った。青森のスーパーから50個以上の商品棚を譲ってもらった。新品だと100万以上の冷蔵ケースも無償で5台手に入れた。4月下旬、びはんの新店舗は病院にオープン。病院の廊下に食料品が並べられた。スタッフは元従業員。震災直後、再開の目処がたたず、全員解雇されていた。震災から2か月、山田町では復旧作業が本格化。ボランティアや作業員が集まると、食事の問題がでてきた。びはんの新店舗には調理場がなく、自前で製造できなかった。その話を聞いたマイヤ釜石店が弁当や惣菜を提供することになった。びはん新店舗店長の高橋は毎日釜石に通って弁当や惣菜を仕入れた。マイヤの惣菜担当のスタッフは10名ほど。毎日残業を続けて惣菜を作っていた。マイヤ釜石店店長は、「正直従業員から不満の声はあった。店長として山田の客が困ってると想像できた。」とコメント。マイヤは刺し身や肉の加工なども引き受けた。マイヤ店長は、「あの時は損得勘定もなにもない。商売を続けなきゃいけない一心でびはん側も対応した。」とコメント。

震災から1ヶ月後には間瀬半蔵は津波で破壊されたスーパーを自力で再興する宣言をしていた。間瀬半蔵は、「再興できる。難しくない。」とコメント。間瀬半蔵の父親は震災で体調を崩し息子の決断を受け入れられなかった。父親は、「再建するにしても、生きてる店がなかった。全部営業できなかったのでガックリした。」とコメント。間瀬半蔵は焦りと使命感に押しつぶされそうな日々を送った。間瀬半蔵は、「一人で運転中は泣いていた。気持ち的につらくなるし、なくしたものもある。龍昌寺の階段に座ってる時に亡くなった人が背中を押してくれた気がした。」とコメント。地元の建設会社の社長は間瀬半蔵の再建を請け負った。津波で破壊されたスーパーが完成した当時の責任者だった。間瀬半蔵の祖父の初代社長が建設会社社長に頼み、地元建設会社が再建に取り組むことに。地元建設会社社長は、「初代社長の地元意識に動かされた。大きな施設を任されるのは光栄だった。」とコメント。調査をすると建物の生命線である鉄骨の柱は無事だったので、工事費用を抑えることができた。

5月初旬、スーパーの再建工事が始まった。貫洞さんの声かけで地元の建設業者が総出で取り掛かった。震災で亡くなった方が多い中お盆は大切であり、必要なものを揃えられるためにお盆までに間に合わせたいと間瀬さんは考えた。山田町のお盆には木の実や果物を詰め合わせた「はしばみ」というお供え物が欠かせない。びはんでも毎年販売してきた。武藤アヤさんは皆さんの供養のためにと、スーパーのオープンに合わせ500個の「はしばみ」を用意した。工事は毎日遅くまで行われた。

三陸沿岸の漁業の町、岩手県山田町では東日本大震災から7年半経ちかさ上げ工事が終わった市街地には店舗や住宅が建ち始めている。復興の目玉として活気づく駅前の商店街に引っ越してきたスーパーマケットのびはん。この日のおすすめは山田町特産のとれたてで今が旬のホヤ、店員はホタテよりも旨味があるアカザラ貝やマンボウなどをおすすめした。老舗のスーパーびはんは豊富な食材で街の暮らしを支えてきていて、利用者は「魚なども新しいものもあるしいろんなものがあるのでここの店で間に合っている」「あって当たり前だったが震災を経験するとありがたい」などと話した。山田町は震災時に高さ7mの大津波に襲われ、波は堤防を突き破りスーパーに押し寄せた。スーパーの店内は棚や商品も押し流されて瓦礫の山になっていて、再起不能と思われたその矢先に店長の間瀬さんが店の再建を宣言。街の復旧の見通しも立たない中で一歩先んじた決断で「町はぐちゃぐちゃでつらくなってくる。ここからどうていこうというときに亡くなった人たちが背中を押してくれてるような気がした」と話し、犠牲者のためにも早く店を再建したいという想いが地元の人々を動かし、建設業者は「早く復旧してほしかったので協力は惜しまなかった」と話した。台所を支えてきたスーパーマケットのわずか5か月での再建はどのように実現したのか、被災者の命綱となった地元スーパー復活の物語。

オープン当日。店では震災で解雇せざるを得なかった従業員を再び雇うことができた。店の前ではオープンを待ちわびる人の列が。店内にははしばみなどお盆を彩る品々も多く陳列された。店の賑わいや客の声に、スーパーは物を売るだけでなく地域のコミュニティの場になっていることをすごく実感したと間瀬さんは話した。レジに並ぶ列は閉店まで途切れることがなかった。三陸沿岸で最も早くスーパーの再建を成し遂げた間瀬さん。毎年3月11日には被災地に立ち、人とのつながりを大切にするという思いをかみしめているそう。スーパーは今後も山田町の復興を支える拠点として人々と共に歩んでいく。

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豆腐
むつ市(青森)
青森県
大船渡市(岩手)

明日へ つなげよう (バラエティ/情報)
10:48~

西日本豪雨から1ヶ月半に。51人が犠牲になった岡山・倉敷市の真備町は明治以降で10回を超える水害に見舞われてきた。地元で郷土史を研究する男性の教訓を生かせなかった後悔と決意を取材した。

森脇敏さん(77)は自宅が水に浸かり、避難生活を余儀なくされている。町の歴史に詳しい郷土史博士として知られる。自ら資料を集めるなどして町の歴史を調べてきた森脇さん。蔵書や資料はほとんどが水に浸かった。町内の寺には明治26年の水害で犠牲になった200人以上を供養する塔が建てられている。高さはこの時の水位と同じく約4m。水害の歴史を後世に伝えている。その事を知っていた森脇さんだが、今回これほどの水害になるとは想像もしなかったという。森脇さんは今回の水害を目に見える形で残す活動を始めた。どのくらいまで水が押し寄せたのが調べている。郷土史博士として教訓を伝える努力を続ける格好だ。

今暮らしている地域の歴史を見直し、改めて後世に伝えていく試み。畠山智之さんは「私達も一人一人も実践しなくてはいけないなと感じた」など述べた。

番組URL「http://www.nhk.or.jp/ashita/」の露出。

東日本大震災の被災地である宮城・東松島からの声を紹介。東松島に移住して7年になる太田将司さんは「この町のおいしいものを作るすてきな人たちの思い。それを伝える食べ物つき情報誌を作っています。食べておいしい、読んで楽しい情報を伝えていきたい」などと伝えた。遠藤伸一さんは震災の流木を使ってキーホルダーやアクセサリーを作っている。被災した沿岸部ではモニュメントの制作も手がけたことなども伝えた。

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