1964東京オリンピック 第3回「“1億人”に勝利を〜アスリートたちの挑戦」

放送日 2017年10月26日(木) 0:10~ 0:55
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
00:10~

オープニング映像。

“1億人”に勝利を ~アスリートたちの挑戦~ (バラエティ/情報)
00:10~

高橋克実がオープニングの挨拶。東京オリンピックの当時は、外国人に肩を並べられるとはとても思えない時代で、国際社会に復帰したばかりだったという。

当時の日本では、プロレスの力道山などが活躍。人々が強い日本を夢見る一方で、選手達は十分とは言えない設備の中で厳しい練習を強いられていた。元体操女子代表の池田敬子さんは、衝撃吸収設備は一部の強豪国にしかなかったと説明。女性アスリートへの理解も薄かったという。

当時、十分な指導者がいなかったウェイトリフティングの三宅義信は、最新のカメラで自分の姿を撮影し繰り返し研究。1ヶ月の給料が1万円程度だったが、自費で8万円のフィルムを購入したという。しかし、同じ日本人が寝ずにオリンピックの会場を作っている姿を見ると、心が高まったと語った。

東京オリンピックで最も注目を集めていたのは「レスリング」。レスリングは唯一日本が勝てる競技と言われており、日本レスリング協会の会長だった八田一朗は、強烈な個性を持っていたという。当時まだ無名だった吉田義勝は代表に大抜擢され、アリ・アリエフと対戦することになった。

東京オリンピックのレスリング代表に抜擢された吉田義勝は、八田一朗会長の元で猛特訓を受けていた。八田は「八田イズム」と呼ばれる独特の練習法を指導。目標は金メダルの獲得、ただひとつだったという。

広島県・江田島生まれの八田は、柔道にのめり込むも、アメリカでの他流試合でレスリングの選手に大敗。それをきっかけに日本でレスリング競技を始めると、海外への留学や遠征を繰り返していた。しかし戦争が始まり、陸軍兵として中国で6年あまり従軍。そこで八田は、日本の間違った根性、精神論を思い知らされたという。

東京五輪・レスリング代表の小幡洋次郎は、八田一朗の合理的なトレーニングについて説明。現在71歳になった吉田義勝は、母校の日本大学レスリング部を訪れ、当時の試合形式を現役大学生相手に披露した。スピードと柔軟性を活かしたかく乱に勝機を見ていたという。

本場まで1ヶ月、日本レスリングチームは選手村に一番乗り。東京オリンピックに数々の大国が集結する中、日本からは355人が参加した。しかし、陸上や水泳では海外選手が実力を見せつける。そんな中、日本の三宅義信はウェイトリフティングで金メダルを獲得した。

三宅の金メダルは日本の選手を勢い付け、体操女子団体では池田敬子が銅メダルを獲得。このメダルは今でも、日本の女子体操史上唯一のメダルとなっている。

東京オリンピック・レスリングの本番前日、吉田義勝は思わぬアクシデントに見舞われ、高熱に苦しんでいた。依然としてオリンピックへの出場を諦めない吉田だったが、その姿を見た八田一朗は出場を諦めるよう促す。目指していた8個のメダルは、7個でいいと言い聞かせた。

ギリギリで回復を果たした吉田は、病み上がりとは思えない動きで勝ちあがり、大一番を迎えた。当初の戦略通り、アリ・アリエフの攻撃を軽快な動きでかわすと、一瞬の隙をついてポイントを獲得。これが決勝点となり吉田は優勝。レスリングの金メダル第1号に輝いた。日本はレスリングで5つの金メダルを獲得、しかし八田は目標に届かなかったと悔しがっていたという。

大会期間中、八田は銀座のど真ん中にある老舗宝飾店のショーウィンドウにメダルを飾らせた。一番人が集まって、金メダルを展示してもおかしくない場所を選んだのだという。元スポーツ新聞記者の宮澤正幸さんは、戦争には負けたが外国人に勝つことは出来ると語った。

スタジオでは、日本の金メダリスト達を紹介。日本が獲得した金メダルの数は16となり、世界は日本の躍進に驚いたという。元国際オリンピック委員会のアベリー・ブランデージは、日本は確かに復興を遂げ、新しい時代への扉を開けたと語った。

10月24日、東京オリンピックの閉会式で、選手達は方を並べて行進し始めた。平和の尊さを伝え、人々を勇気づけた世紀の祭典だったという。

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