ファミリーヒストリー 「賀来千香子〜大砲鋳造 無念の破壊〜」

『ファミリーヒストリー』(FAMILY HISTORY)は、NHK総合テレビジョンにて2008年から放送されている、ドキュメンタリー番組である。

出典:goo Wikipedia

放送日 2019年6月28日(金) 0:55~ 2:07
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
00:55~

今回のゲストは賀来千香子さん。賀来さんの祖父は自費出版した本に、幕末の頃大分で大砲を作っていたと記している。当時家族は半信半疑のままそれ以上調べることはなかったが、賀来さんはこの一説が気になっていると語った。

オープニングトーク。賀来さんは「すごい緊張している、みなさんが一生懸命調べてくださってありがたい」などとコメントした。

キーワード
賀来速人
すさび

賀来千香子 (その他)
00:58~

大分県立先哲史料館の特別収蔵庫に重要な記録が残されていた。大神姓大系図は賀来家によって作成された一族の記録で、これによると大神家から分家した一族が賀来に移り住み、賀来姓を名乗りだしたという。史料館の職員は千香子さんの直接のルーツは近世賀来氏大祖景吉と大系図に書かれている人物が直接のルーツになると話した。大分・安心院町に千香子さんと同じ景吉の子孫がいることがわかり、取材班は賀来計二さんへの取材を行った。計二さんは地元の銀行を定年退職した後、大神姓大系図を丹念に調べ独自に家系図をまとめてきた。16世紀終わりから、景吉の一族は大庄屋となり、年貢の取り立てのほか、材木業などの商売を手がけるようになった。江戸時代には多くの分家が誕生し、その一つに千香子さんの筋がある。一族のつながりが強いのも賀来家の特徴だった。千香子さんの六代前の惟秀は様々な商売を興していて、その活躍を評し大系図では経済を盛り立てた人物として記されている。

1811年、借金の帳消しなどを求めた文化一揆がおき、翌年には惟秀の屋敷が襲われている。賀来家の金品、米や酒は全て略奪され、屋敷には火が放たれた。六代目の惟秀が死亡後、長男の惟熊が賀来家の頭首を引き継いだ。一揆に遭遇した惟熊はもう一度信頼を得るために村人と同じ目線に立つことを心がけた。惟熊は杉の苗を村人たちに配ることから始めた。計二さんは苗を植えることによって仕事が増え、雇用につながり、ゆくゆくは木材になったりいろんなことに役立つなどと語った。

スタジオトーク。加賀さんは「村人が打ちこわしに来ても冷たい気持ちにならなかったのがうれしかった、感動した」などとコメントした。

1840年、アヘン戦争が勃発し、儒学者である帆足萬里は惟熊に外国船に備えるために火力の強い西洋式の鉄製大砲作りを託した。惟熊は私財の大半を投じて大砲鋳造に挑んだ。1853年、惟熊は村の中心にある神社に反射炉の建設を決め、長男の惟寧は大砲の設計における細かい計算を引き受け、鋳造は次男の惟準が担った。1855年に反射炉が完成し火入れが始まったが、炉内の鉄が溶けず、大砲鋳造に必要な鉄を得ることができなかった。ある日、賀来家に一つの極秘情報がもたらされた。賀来謙亭は佐賀藩が極秘にしていた反射炉の仕掛けを密かに賀来家に伝えた。2年の歳月をかけ、賀来一族と村人たちは民間初の鉄製大砲を完成させた。

スタジオトーク。賀来さんは「まったく未知の世界ですもんね、謙虚に誇らしい気持ちがあります」などとコメントした。

大分県立先哲史料館には賀来惟熊が大砲を鋳造するときにデモンストレーションするために作られたであろう縮小模型が保管されている。反射炉造りには萩藩の者も携わったという記録も残されている。鋳造技術を惜しみなく提供する賀来家に対し全国から問い合わせが殺到したという。

1864年、長州藩が京都で反乱をおこすと幕府は長州征討を命令した。九州全域も大混乱に陥り、賀来家も他人事ではなくなった。1866年、70歳の惟熊は反射炉を自ら破壊した。大分県立歴史博物館の平川氏は「大砲の目的は西洋列強の船に向けられるものだったが、内戦の中で日本人同士の争いに持ち込まれるのは賀来家としては認めることができなかったのではないか」と述べ、大分県立先哲史料館の櫻井氏は「地域を優先して壊したのではないか」と話した。1880年、惟熊は84歳で人生に幕を下ろした。

スタジオトーク。賀来さんは「0から積み上げたものを壊すってすごいですね」などとコメントした。

明治に入り、惟熊の長男・惟寧は農業に従事し、三男・三綱は神主に、四男は郵便局に勤務した。大系図には千香子さんの高祖父・惟準は私財を投じて地元に小学校を設立したと記されている。惟準は大砲事業から撤退し賀来家が村人の収入を奪ってしまった責任を痛感していたという。惟準は自ら教壇に立ち、報酬はほとんど受け取らなかったという。1897年、惟準は71歳で亡くなくなり、墓は大勢の教え子の寄付で建てられた。

次男の惟準には子どもがおらず、養子を迎えている。千香子さんの曽祖父・権三郎は税務官となり全国を転勤した。権三郎の5人の息子たちは次々と亡くなっていて、末息子の速人の教育には人一倍熱心だっという。速人は1922年に現在の一橋大学を卒業し、三菱銀行に就職した。営業成績は優秀で、支店長まで上り詰めた。速人の趣味は絵画と俳句で、銀行内に絵が飾られるほどだったという。父・昭一郎さんは速人から「お取引先には下から目線で接しろ」と繰り返し言われたと語った。

母方・奥津家は江戸時代より土建業を営んでいたという。1887年、東海道線が新橋から国府津まで開通した。蒸気機関車が砂を落としながらその摩擦を利用して走るという情報を得た奥津勘次郎は砂を売る商売を始め、川砂で得た莫大な資金を元手に国府津駅前に商店を開業した。1934年、奥津家に千香子さんの母・ヨシ子さんが誕生、近所でも評判のおしとやかな女性に成長した。1957年、ヨシ子は賀来昭一郎と結婚し東京・世田谷区に新居を構えた。翌年、長男・稔晴が誕生し、3年後に千香子さんが誕生した。

スタジオトーク。賀来さんは「両親が出るのは恥ずかしい」などとコメントした。

1974年、女子美術大学付属中学校へ進学した千香子さんはバドミントン部へ入部した。千香子さんは母の期待に応え、中学・高校では勉強とバドミントンを両立させた。高校3年生の時、千香子さんはスカウトを受けモデルをやってみたいと思いを打ち明けた。母親のヨシ子さんは猛反対したが、父・昭一郎さんは「裏方の方に注意しなさい、挨拶するとそれが絶対将来いいんじゃないか」とアドバイスを送った。千香子さんは短大入学と同時にモデル業を開始、父の言いつけを守り、どんな現場でも謙虚な姿勢を貫いた。卒業後はプロのファッションモデルとして雑誌の表紙を飾るまでになった。千香子さんは民放ドラマでいきなり主役に抜擢され、次第に母親の協力も得られるようになった。

スタジオトーク。賀来さんは「おかげさまで先祖に恥じないように頑張らなきゃなっていうふうに思いました」などとコメントした。

自身のルーツを知った賀来賢人さんは「風のうわさで鉄砲商人と聞いていたが全然違いましたね、自分じゃなくて他方にベクトルを向けられるパワーは尊敬するし、そういう方が自分の先祖にいらっしゃることを知れただけでもうれしい」などと語った。

賀来家のルーツ、大分県宇佐市の小学校では郷土の歴史を学ぶ授業が行われている。宇佐市立佐田小学校では賀来家の歴史を6年かけて勉強しているという。

スタジオトーク。賀来さんは「お子さんたちがああいうふうに思っていてありがたい、びっくりした」とコメントした。

キーワード
大分県立先哲史料館
大神姓大系図
安心院町(大分)
文化一揆
賀来惟熊
アヘン戦争
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大分県立歴史博物館
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萩市(山口)
萩反射炉
賀来速人
東京高等商業学校(現一橋大学)
国府津(神奈川)
奥津勘次郎
酒匂川
賀来稔晴
奥津エイ
女子美術大学付属中学校
白き牡丹に
花燃ゆ
4号警備
宇佐市立佐田小学校

エンディング (その他)
02:06~

ファミリーヒストリーの次回予告。

番組宣伝 (その他)
02:06~

「鶴瓶の家族に乾杯」の番組宣伝。

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