ブラタモリ 「#129 鳴門」

『ブラタモリ』(英称:BURATAMORI、通称:ブラタモ)は、NHK総合テレビで2008年から断続的に放送されている日本の紀行・バラエティ番組。司会を務めるタモリの冠番組でもある。ステレオ放送、解説放送・ステレオ2音声(2016年4月30日放送分から実施)、文字多重放送、ハイビジョン放送を実施[※ 1]。 レギュラー版の放送時間は、第3シリーズまでは毎週木曜22:00 - 22:48[※ 2]であったが、第4シリーズからは毎週土曜19:30 - 20:15(いずれもJST)へと変更された。パイロット版や特番の放送時間は#番組の推移節などを参照。

出典:goo Wikipedia

放送日 2019年4月23日(火) 23:50~ 0:35
放送局 NHK総合大阪

番組概要

鳴門 (バラエティ/情報)
23:50~

今回タモリと林田理沙は徳島県鳴門市の鳴門海峡に来ている。鳴門海峡は徳島県の鳴門と兵庫県を結ぶ大鳴門橋のすぐそばにある。鳴門市市民環境部の森清治が歴史を教えてくれる

渦潮が有名で大きいもので直径20メートル、海流の流れも時速20キロメートル、両方共世界一、海がある音から鳴門という地名が生まれたとも言われている。渦潮ができる原理は太平洋側の満潮の海水は6時間かけて瀬戸内海側に流れ込む、この時太平洋側は干潮になっておりこの干満の差で潮流が激しくなる。海底は起伏に飛んだ複雑な地形で激しい流れが変化し大きな渦潮が生み出される。

大鳴門橋は1985年に架けられ、本州と四国をつなぐ3つのルートで大鳴門橋は全体の半数量を占めているので四国の玄関口と言える。

大鳴門橋ができる1000年前から鳴門は四国の玄関口になっている。しかしなぜ渦潮がある海の難所があるので玄関口になったのか。

鳴門は渦潮があるのに四国の玄関口になった不思議を解き明かしていく。

キーワード
大鳴門橋
鳴門市(徳島)
鳴門海峡
淡路島
瀬戸内海

オープニング (その他)
23:56~

オープニング映像。

キーワード
鳴門市(徳島)

鳴門 (バラエティ/情報)
23:57~

タモリと林田理沙は鳴門海峡から南に7キロ程移動。撫養城近くにはマンションが多く、波が穏やかになっている。波が穏やかになる小鳴門海峡が四国の玄関口と言われる理由のカギを握る。

江戸時代に描かれた絵図には多くの船が鳴門海峡と避け穏やかな小鳴門海峡を通っている。ここならどこからでも安全に四国にやって来られる。撫養という港が作られ多くの旅人がここから四国に上陸してきた。海の難所を玄関口にしたものは恵まれた地形のおかげだった。

さらにもう一つ鳴門が四国の玄関口になれた理由がある。 撫養街道は昔、多くの人が撫養港からこの街道を通って四国の中に入ってきた。港と陸上交通との接続が抜群だったことが鳴門が四国の玄関口になったもう一つの理由である。

撫養街道は四国全土に繋がる幹線道路、この街道のスタートになったのが鳴門が四国の玄関口になった大きな理由である。

実はこの辺りはもともと海、足元の悪い低湿地で街道を通しにくい場所だった。港から繋がる街道を通した理由は高まりが連続してあったためである。撫養街道は一段高い場所に通っているため水はけがよく歩きやすくなっている。ここだけ高くなっている理由は断層である。

撫養街道は断層によって地面がズレ高まりができた結果、低湿地でも街道を通すことができた。中央構造線になっている。

中央構造線は全長1000キロ以上に及ぶ日本で最も長い大断層、日本列島の広い範囲に渡り複雑な地形を生み出している。鳴門にある高まりもそれによって生まれたものである。

徳島大学教授の石田啓祐さんは徳島の地質を研究するため岐阜県から移り住んで45年のスペシャリスト。中央構造線の運動で山が隆起、その山裾が鳴門から四国の内部まで伸びる街道になった。

さらに中央構造線は鳴門を四国の玄関口にするための別の役割も果たしているという。

タモリは中央構造線を歩きテンションが上がっている。中央構造線沿いを旅する人がいて、伊勢神宮や豊川稲荷などもあるという。

中央構造線に沿って先程の場所から500メートル程、西にやってきた。讃岐山脈と妙見山は元々繋がっていたが、撫養街道のところだけ山が切れているので四国の玄関口になった。なぜ山が切れたのか。

讃岐山脈と妙見山が切れた理由を紹介。讃岐山脈は砂と泥の地層でできており、切れている部分は泥でできていたので本来繋がっていた山が切れた。それなので山を超えることなく四国に入れるようになった。なぜこのように都合の良い地層があるのか。

縦模様の地層ができた理由は中央構造線に押され曲がる、そして中央構造線の左横ずれが起こったので終曲になった。

讃岐山脈にプレートの力が加わり押し上げられる。さらに中央構造線が横ずれ運動を起こし地層が曲がりながら上がっていった。そのため地層が縦模様に見えるようになった。小鳴門海峡も泥岩の多かったところが侵食されて安全な水路になった。渦潮ができる鳴門海峡の複雑な地形も泥岩が削れれてできたものだった。

旅人たちは何を求めて四国にやってきたのか。

一同は撫養街道を西に12キロ進んだ。そこには霊山寺という四国霊場 八十八ヶ所霊場の一番札所がある場所がある。

お遍路とは空海が修行した88の霊場を巡る旅、全長1200キロで歩けば40日ほどで全て巡るとお遍路といって願いが叶うとされている。大勢の人が押し寄せるようになったのはお遍路の玄関口だったからでもある。

霊仙寺は鳴門が四国の玄関口だったためにお遍路の1番になった。山下正樹さんはお遍路の達人と言われ13回も歩きだけで回られている。山下さんとお遍路体験をすることになった。最初のコースは歩きやすい撫養街道の近くが選ばれている。昔は長い道のりを旅する途中で命を落とす人が多くお遍路の白衣は死に装束、亡くなった場合は杖を墓標代わりに立てるという意味があった。まずは鐘を鳴らして弘法大師に挨拶、続いて本堂で名前を書いたお札を納めることから札所の名が付いた。参拝で本尊に祈りを捧げ、弘法大師を祀る大師堂で祈りを捧げる。一同は接待所というお遍路さんにお接待をする場所に来た。

お接待とはお遍路さんをもてなす四国独特の文化、決まった形はなくお遍路さんをサポートするため、飲み物・食事・宿などを提供する。お接待をする理由はお遍路には同行二人という考え方があって、お遍路さんへのお接待は弘法大師をもてなすことにもなる。お接待を受けた感謝のしるしにお札を渡す。

一同は撫養街道を4キロ戻り大谷という所にやってきた。鳴門が四国の玄関口になってお遍路さんが鳴門にもたらせた焼き物。大谷焼という陶器である。

大谷焼は200程前、九州から来たお遍路さんが鳴門に伝えた技術が元で生まれた。お接待を受けたお遍路さんはお返しに知識を伝える習わしがあった。徳島の名産である藍を発酵させるために大谷焼が役に立った。

藍がめは大きいため、寝ろくろと言って2人1組、下の人は足を使った蹴ろくろ。お接待の文化は意外なことに繋がる。

一同は西に5キロ移動。第一次世界大戦で戦ったドイツ兵1000人を捕虜として鳴門に収容され3年近く入れられていた兵舎跡地に到着。ドイツ兵捕虜を地域の方は温かく迎え入れた。

鳴門の人達がドイツ兵捕虜を温かく迎え入れた。そのお返しに捕虜たちはパン・ソーセージ・チーズ・バター・西洋野菜の作り方などを伝えた。さらにその交流は戦争が終わり収容所がなくなった今も受け継がれている。高橋敏治さん高橋春枝さん夫婦は半世紀以上ドイツ兵捕虜の慰霊碑に供養や清掃活動をしてきた。その2人のお墓は慰霊碑の方向に向いた形をしている。

鳴門は日本で第九が初めて歌われた場所と言われ、アジアでも初めてと言われている。鳴門 第九を歌う会は今も演奏会を続けている。

森清治さんは第九の歌詞には全ての人々が兄弟になるという部分がある。お接待のように全ての人を温かく迎え入れる、共に生きていくということではないかなどと解説した。

タモリは「断層はよかったな、中央構造線初めて歩きましたよ、長年思ってたことですからね、やっぱり断層すごい」などと感想を述べた。

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鳴門 第九を歌う会

エンディング (その他)
00:33~

エンディング映像。

次回予告。

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鳴門市(徳島)
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