NHKアーカイブス “喪失”からの“再生”〜カンボジア 映像が切り拓く未来〜

『NHKアーカイブス』(エヌエイチケイアーカイブス)は、NHK総合テレビジョンが2000年4月9日に放送を開始したテレビ番組である。2017年度より、『あの日 あのとき あの番組 〜NHKアーカイブス〜』(あのひ あのとき あのばんぐみ エヌエイチケイアーカイブス)に改題・リニューアル。NHKで過去に放送されたドキュメンタリーやテレビドラマの中から優れた作品を選出し、経年劣化した映像をデジタル処理で修復して、解説を加え放送する。

出典:goo Wikipedia

放送日 2016年11月6日(日) 13:50~15:00
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
13:50~

スターや映画監督が集まった東京国際映画祭。ここで注目を浴びたのが日本を含むアジア3カ国で作ったオムニバス映画「アジア三面鏡 リフレクションズ」で、日本からは行定勲監督が「鳩Pigeon」、フィリピンからはブリランテ・メンドーサ監督「SHINUMA Dead Horse」、カンボジアからはソト・クォーリーカー監督「Beyond The Bridge」が参加した。

映画の撮影に先立ち、クォーリーカーさんはカンボジアの歴史を残したフィルムを探すため埼玉県川口市にあるNHKアーカイブスを訪れた。カンボジアにはほとんどフィルムが残っていないという。クォーリーカーさんが産まれた1970年代には激しい内戦が続き、文化遺産なども失ったのだった。クォーリーカーさんは自らの映画「シアター・プノンペン」で、残された映画フィルムを手がかりに家族の過去を探る少女を描いた。それはクォーリーカーさん自身の様子でもあった。

2016年はカンボジアの内戦終結から25年。クォーリーカーさんは映画にNHKで保管されている記録映像を使いたいと考えている。過去と現在の橋渡しをする必要をクォーリーカーさんは訴えた上で、映画作りのプロセスで過去の資料映像を見るのがもっともつらいと話す。カンボジアの多くの人は悲惨な内戦の歴史を負の遺産として忘れたいと思っている。そんな歴史から目をそむける若者たちに記録映像を見せたい、そうすることで内戦終結25年を歴史と向き合う記念の年に出来ると、クォーリーカーさんの挑戦は始まったのだった。

2016年はカンボジアの内戦終結から25年になる。スタジオでは内戦化のカンボジアで産まれ、その歴史と向き合っている映画監督のソト・クォーリーカーさんを招き、過酷な体験をしていたアジアの人たちの歴史について考えていく。国際的に高い評価を得ているクォーリーカーさん、映画を作り始めたきかっけについて「世界の映画はカンボジアの歴史を情報として扱うだけで、深い思い入れがあると思えなかった」とし、「カンボジア人としてもっと知りたい、見たい、自らの視点でこの国を見たいと思った」と明かした。また今の若い人達はカンボジアの歴史はあまり知らず関心もないのだと話した。

キーワード
行定勲監督
アジア三面鏡 リフレクションズ
東京国際映画祭
ブリランテ・メンドーサ
ソト・クォーリーカー監督
川口市(埼玉県)
シアター・プノンペン
カンボジア

“喪失”からの“再生”〜カンボジア 映像が切り拓く未来〜 (バラエティ/情報)
13:59~

カンボジア内戦の歴史を紹介。カンボジアは長い間、フランスの植民地だったが1953に独立を果たす。元首のノロドム・シアヌーク殿下は独立の父として国民の絶大な人気を集めた。シアヌークは国内産業の育成のため交通整備に力を入れ、その目玉が橋の建設で入札を勝ちった日本企業は日本政府からの援助も得ながら3年がかりで橋を完成させた。この橋は感謝を込めて「日本橋」と呼ばれている。雨季でも渡れるようになりカンボジアは発展していく。

しかしシアヌークらカンボジアの人たちを悲劇に導く自体が起きる。北ベトナムと南ベトナムで争ったベトナム戦争だ。南側に立った米軍は、北ベトナム軍が駐留していることを理由にカンボジアまで攻撃しインドシナ戦争へと拡大したのだった。そして1970年シアヌークが外遊中に国内でクーデターが起こり、政権を握ったのは親米政権のロン・ノル大統領だった。米軍はシアヌークを共産主義の手先と流布し始めるが、シアヌークを支持する民衆たちが容認するはずもない。シアヌークは誕生したばかりの中国の共産勢力と手を組むことになる。この中に後に政権を担うポル・ポトの存在があった。

シアヌークと連携したポル・ポト派がカンボジア民族解放戦線として勢力を拡大していく。これを防ごうと米軍はますますカンボジアへの介入を始める。しかし民衆の支持がないため、親米のロン・ノル政府はおいつめられていく。プノンペンと地方をつなぐ日本橋も1972年に破壊されてしまう。シアヌークが追われてから5年後の1975年ポル・ポト軍がプンノンペンを制圧。住民は農村へ移住することが命じられ、反対するものは射殺。土地や財産は没収され原始共産主義が目標とされた。

しかしポル・ポトはさらに驚くべきことに知識人や技術者達が殺されていたことが後にわかった。ポルポト政権に殺されたのは約170万人でカンボジアの人口の3分の1に及ぶ。恐怖のポルポト政権は次第に弱体化し、中国ソビエトアメリカなど大国を背景にする勢力が同じ民族で殺し合いへと発展していき平和は訪れなかった。紛争は21年間に及んだのだった。

カンボジアの歴史を振り返りスタジオトーク。ソト・クォーリーカーさんは私にとっては見るのがつらい映像だと語り、「栄光から奈落に落ちていく時期の姿」だと話した。またこの悲劇をまるで歴史の傍観者の様に感じてせつなくなることもあると語った。司会の森田は、カンボジア内戦のことを我々はポルポトのことばかりクローズアップするが、大国や隣国の思惑に翻弄されてきた歴史があると語った。

ここでもう1人のゲストとして日本映画大学の教授で、内戦化のカンボジアで援助かつそうをしていた熊岡路矢を紹介。熊岡は内戦時の状況を目の当たりにし、「カンボジアは大国による代理戦争の場所にさせられていた部分を感じた」と話した。また日本も他人事ではなく、カンボジアに使われた空爆の爆撃機などは沖縄基地から発進していたので日本も責任を問われる立場だと思うと語った。

歴史を振り返る時の記録について。クォーリーカーさんはカンボジアには当時の内戦の映像や飼料は残されておらず、ほとんどが廃棄されたとのこと。また保管状況も悪く、NHKアーカイブスの方が映像がしっかり残されていると説明した。

1975年放送のNHK特派員報告 カンボジアホテルの映像を紹介。

番組ではプノンペンを舞台にカンボジアの内戦の経緯を説明し、かつて静かで穏やかだったプノンペンの街が、軍人さんが至る所に居る街になったと紹介。そしてメコン河に陰を落とすカンボジアホテルを紹介。このホテルはシアヌーク殿下による国際ホテルの建設により建てられ始めたが、殿下は追放され外観だけ出来上がっている状態となっている。そして1階と地下は難民収容所になってしまっている。

3人の子供を抱えた24歳の女性もカンボジアホテル で暮らしている。女性は小さな村で農業を営んでいたが、家は戦火で焼かれ村を捨て夫についてきたが、夫は負傷し陸軍病院に入れられたのでここへやっってきたのだという。ここには電気も水道もなく1家族あたり2畳ほどの場所を与えられるのみで、夜になると砲声が聞こえてくる。

民族解放戦線はプノンペンの周囲、数キロまで迫ってきている。しかし国連で争われた代表権で、ロン・ノル政府と解放戦線のどちらを代表を認めるかの投票ではロン・ノル政府がわずか2票差で勝ったが、双方とも相手を圧倒的に打倒することができないまま泥沼の戦いが続いている。

収容所の中に設けられた小学校の様子を紹介。子供達を3つに分けてわずか1時間の授業をするのだが、しばしば先生がやってこずに休校になることもある。先生たちの給料も安く、連日アルバイトに回れなければ生きていけないのだった。しかし学校にも行けない子供もおり、爆撃で家は焼け両親も死亡。焼け跡から逃れた子供の背中には永久に消えない傷が残っている。生きる術は街に出ての物乞い。傷跡を見せるためにいつも上半身裸でいるのだった。

プノンペンには物乞いが増えている。兵役を除いて仕事の口が減っている中で孤児や老人はどうすることもできない。カンボジアホテル の1階から2階に通じる階段の下が、物乞いの子供のねぐらだ。昼過ぎから暗くなるまで歩き回り日本円で100円を稼いだ。背中の傷が今では彼の仕事のただ一つの元手になっている。

子供3人を連れて、夫が入院する陸軍病院に見舞いにやってきたカンボジアホテルで暮らす女性。夫のスホンさんはようやく失明は免れたが、家族のために何もできない。

村を追われて戦火を逃れてプノンペンにやってきた難民は、まず受付場で登録しなかればならない。ここでは1日1人あたり350グラムの米が支給されるが、それも難民収容所に行くまでのわずか数日だけで、あとは自活の道を探さなかればいけない。おもちゃも何もない託児所では子供達は異様なまでに静かだ。

今も朝のメコン川には昔と変わらない営みが見られる。しかしカンボジアホテルの前には今朝も既に幾人からの難民たちの姿がある。

1975年放送のNHK特派員報告 カンボジアホテルのエンディング映像。

ソト・クォーリーカーさんはVTRを振り返り、「映像の中にいた少女のようにホテルにおり、1973年当時あのあたりはとても静かで野菜や花をとっていた。こんな歴史があるとは知らなかった。ホテルにいた子どもたちが内戦を生き延びることができなかったことを思うと」と言葉を詰まらせた。熊岡氏は現地を取材した際は孤児が多かったと話した。

ソト・クォーリーカーさんの父はパイロットだった。プノンペンはここ最近、球速に開発が進み、内戦の影響で中年以上が減り若者の多い町となっている。クォーリーカーさんは、若者たちが辛い歴史と向き合わない限り本当の豊かさは訪れないと考えている。その想いは、カンボジアの典型的な島をデザインした日本の器に影響されている。

カンボジアの内戦が終結して25年、クォーリーカーさんが映画の舞台に選んだのは日本の企業が作った日本橋だった。台本を書く前に脳裏に浮かんだ映像をスケッチブックに描いた。撮影が始まり、主人公は1960年代にカンボジアに赴任した日本人男性。カンボジアの若者たちも撮影に参加した。助監督のタンニャーさんはイギリス留学から帰ってきたばかりだった。

クォーリーカーさんは、母であるタン・ソトと毎日のように顔を合わせている。ソトさんは内戦で全ての財産を失った。ソトさんは「自分の過去はあまりに生々しく、忘れられない」と涙ながらに語った。この日、クォーリーカーさんは映画制作にあたり父親が殺された村を訪れた。

この日は助監督のホン・ソカロさんが編集作業のためクォーリーカーさんを訪ねていた。クォーリーカーさんはドラマの中に記録映像を入れていた。記録映像の重要さをメディアを学ぶ学生たちにも感じてもらおうと、王立プノンペン大学で講演を行った。

クォーリーカー監督作品「Beyond The Bridge」を紹介。1960年代に日本橋の建設に従事した日本人青年とカンボジア女性らを描く。

ソト・クォーリーカーさんは、「カンボジアの歴史は家族の歴史でもあり祖国の歴史でもあり非常に深いもの。受け入れるのは辛いが、良い歴史も悪い歴史も受け入れようとしている。他の人にもシェアしてこそ意味を持つ」と話した。熊岡氏は、この映画をもって今までできなかった世代間の対話が生まれ、親と子どもの世代で話し合える映画となったと話した。クォーリーカーさんは、橋という具体的なモノと金壺という哲学的なモノを通して悪い過去を隠そうとせず受け入れ良い未来を作っていくことを学んだと話した。また、カンボジアのために経験と記憶を若い人に伝えて貢献したい、世界の人に生きる意味を伝えたいと話した。

キーワード
カンボジア
ノロドム・シアヌーク
ベトナム
リチャード・ニクソン
ロン・ノル大統領
ポル・ポト
日本映画大学
NHK特派員報告
シアヌーク
プノンペン(カンボジア)
ロン・ノル
メコン川
アオム・チャンニー
プノンペン大学
Beyond the Bridge

エンディング (その他)
14:59~

エンディング映像。

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