歴史秘話ヒストリア 聖徳太子の棺 伝説のその先へ

『歴史秘話ヒストリア』(れきしひわヒストリア)とは、2009年よりNHK総合テレビジョンで放送されているNHK大阪放送局制作の歴史情報番組。

出典:goo Wikipedia

放送日 2017年10月13日(金) 20:00~20:43
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
20:00~

井上あさひが挨拶し、今日は大阪府柏原市にある「安福寺」にて考古学者の猪熊兼勝さんとともにTV初公開となる聖徳太子のものと思われる布を紹介した。2001年にはドラマにもなった「聖徳太子」は古代史上の重要人物として描かれており、現在ではその実像に迫る重要な手がかりが続々と明らかとなっている。そこで今回は太子の死の真実に迫る謎の断片を徹底調査。

キーワード
柏原市(大阪)
聖徳太子
安福寺

episode1 聖徳太子 その真実の姿とは? (バラエティ/情報)
20:02~

聖徳太子の肖像は現在までに7回に渡ってお札に起用され日本最多となっている。「聖徳太子 その真実の姿とは?」と題して聖徳太子のお札の肖像画の元になっている「唐本御影」に太子の時代にそぐわない物が描かれていることが指摘されるようになった。当時の出で立ちは埴輪から判明することが出来、太子の時代では身分の高い人は馬に乗るための服装がスタンダードであったが「唐本御影」で聖徳太子はゆったりとした上着を着ているなど数点の相違点が存在する。「唐本御影」では「笏」が描かれていることから少なくとも太子の時代の約150年後にあたる奈良時代に描かれたことが近年に判明した。

1400年前に聖徳太子が創建されたとされる世界遺産の「法隆寺」。その法隆寺の本尊には国宝の「釈迦三尊像」がある。そして近年になり「釈迦三尊像」に太子の本当の姿を知る手がかりが存在することが明らかとなった。「釈迦三尊像」の光背の裏にある名文には「尺寸王身」という文字が書かれており、「釈迦三尊像」は聖徳太子と同じサイズでつくりたいと願われたものであり、「釈迦三尊像」こそが聖徳太子の肖像の可能性があるなどと東野治之さんが解説した。

「釈迦三尊像」の光背にある名文が太子の時代に刻まれたのか、後の時代に刻まれたのか専門家である鋳物師の小泉武寛さんが分析検証した。銅像に後に文を刻んだ場合は荒々しいタッチとなるが実物の名文は筆を使用したかのような滑らかとなっていることから太子の時代に銅像作製と同時に蝋の型によって刻まれたと推測でき、小泉武寛さんが実証検証した。「釈迦三尊像」の光背にある名文が銅像とが一体なら太子の伝記として第一級史科にあたるなどと東野治之さんが語った。

尺寸王身が太子の時代に刻まれたなら、この仏像に似ていたとしてもおかしくない。法隆寺には太子の等身大と伝わる救世観音像があり、178.8cmである。釈迦三尊像は座り姿で87.5cm、坐像は立像の半分で作られるため立てば175cmと推定される。

奈良・達磨寺も聖徳太子ゆかりの場所である。太子は様々な業績で有名である。寺を建設し、法律を作り、遣隋使も派遣した。太子の時代に改革が行われた証拠が次々見つかっている。達磨寺の雪丸像は太子の愛犬である。

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聖徳太子
唐本御影
法隆寺
釈迦三尊像
救世観音像
奈良時代
世界遺産
達磨寺
聖徳太子像
四天王寺
飛鳥寺
雪丸像
王子町(奈良)

episode2 雪丸は見た!太子の国際戦略 (バラエティ/情報)
20:16~

明神山へ来た。2008年、奈良からここを通り大阪へ至る道が見つかった。道幅は10mと巨大だった。日本書紀に道の記録が残っていて、大道が見つかったことで巨大プロジェクトの存在が証明された。

狭山池では古くからの農業用溜池で、年代は分からなかった。近年、地下から木の導水管が見つかった。長さ69mで大木を切り抜いた、田畑に水を送るものだった。年輪を調べ616年に切られたことが判明した。白石太一郎さんによると聖徳太子、蘇我馬子の活躍した時代は変革の時期だったという。

太子たちが国の大改革に取り組んだ背景は緊迫する当時の国際情勢があった。581年、隋が中国全土を統一、高句麗や琉球に侵攻した。さらに役人を試験で登用したり、仏教を保護するなど強大な体制を短期間で整備した。倭国にとって脅威であり、天皇中心とする中央集権国家の建設を急いだという。

太子が摂政を務めた倭国は良好な関係を築こうと遣隋使っを派遣した。隋側の記録で第1回では皇帝に面会した倭国の使いは、神話をもとに倭国の王は偉いと主張した。そして成果もなく追い返され失敗した。この話しは日本側の記録に残っていない。7年後、2回目の遣隋使を派遣。すでに冠位十二階は定まっていた。冠の色で身分の違いを表し、秩序立っていた。また新書を携え、隋に対等の外交を求めた。すると皇帝は激怒するも、申し出を認め返礼の使者を遣わした。大阪、奈良の大道は、隋の使者のルートをもとに築かれた可能性があり、大道沿いには太子ゆかりの寺もある。施工の指示をしたのは太子だったと考えられている。

隋に習い国作りを始めた聖徳太子、国の礎となる思想も取り入れた。それが仏教である。隋から経典を取り寄せ自ら講義したと記録にある。講義で使ったという「法華義疏」があり、太子直筆と考えられている。「修行者がすべきなのは静かなところで座禅すること」と説いたものに、太子は「人里離れたところで座禅しているだけでは仏の教えを広めることはできない」と反論している。

大阪・太子町「叡福寺」は直径50mの丸い古墳がある。賽銭箱に線香立てと寺のようで、仏教との親しい関係が見える。墓には聖徳太子は生前、厩戸皇子と呼ばれ、太子と呼ばれるようになったカギが隠されている。

キーワード
雪丸
明神山
日本書紀
聖徳太子
大和川今池遺跡
松原市(大阪)
堺市(大阪)
導水管
蘇我馬子
狭山池
小野妹子
四天王寺
渋川寺
法隆寺
中宮寺
小墾田宮
飛鳥寺
聖徳太子 勝鬘経講讃図
法華義疏
叡福寺
叡福寺北古墳
太子町(大阪)

episode3 謎の棺が語る 聖徳太子 死の真相 (バラエティ/情報)
20:26~

太子の棺が墓の中にある様子を目にした人やたちがいる。名だたる高僧らが太子の墓に参拝し、記録を残していた。空海が記したと伝わる最古のスケッチでは墓の内部の様子がわかる。ここから太子の不思議な死の状況が浮かび上がった。内部は棺が3つで、太子、母、后のもので、1つの墓に3人が葬られる珍しい状況である。特殊な状況を理解するヒントが、釈迦三尊像の銘文である。内容は母が亡くなり、続いて后、太子が亡くなる事態だった。3人がほぼ同時に亡くなり、原因は伝染病だったと推測される。

太子の墓内部をCGで再現した。構造がほぼ同じな岩屋山古墳をベースとした。中には3つの石の台があり上に棺が乗る。奥に母、右に太子、左が后である。太子の棺は幅100cm、長さ210cmと推測できる。今回公開された断片の幅は98cmでほぼ一致した。

太子の墓から北西の5kmにある安福寺で保管されていた安福寺夾紵棺、考古学者の猪熊さんはこれが太子の実像に迫る手がかりで、太子の棺だという。2007年、科学調査で7世紀のもので、明日香あたりの可能性があるという。布は絹で土を混ぜた漆の上に布を貼り、上に透明な漆を繰り返していたという。同時期に作られた似たものが、斉明天皇・藤原鎌足の棺で2件確認されている。2つは麻でできていた。一方謎の断片は絹で完成に1年近くかかると試算された。

断片だけで10キロあり、全体で100キロを超えそうだという。棺と太子が亡くなった時、葬る方法など矛盾があるという。

太子は突然亡くなり、作るのに1年かかる棺に収めたのはどういうことか。猪熊さんは、7世紀後半、太子が亡くなって50年程後、太子を見直そうというとき新しく3人の棺を作り直したと推測している。なぜ見直すことになったのか、太子の死後、蘇我入鹿暗殺の始まる大化の改新、壬申の乱と国が混乱した。人々は仏教を中心に国を建て直そうとした。そして仏教を広めた厩戸皇子に聖徳太子の名を送り、国再生のシンボルにしたのではないか推測される。

聖徳太子が亡くなり半世紀後、国が混乱から立ち上がろうとした時、新調された棺が運ばれたのではないかとされる。

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空海
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一遍
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柏原市(大阪)
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岩屋山古墳
明日香村(奈良)
天智天皇
天武天皇
持統天皇
蘇我入鹿
壬申の乱
日本書紀

エンディング (その他)
20:39~

法隆寺で毎年夏、市民を対象に仏教講座が開かれている。テキストは法華義疏である。膨大な量の経典に注釈を加えた太子の格闘のあとが法華義疏から見られる。

エンディングテーマ:“into the world” Kalafina

井上あさひの”歴史ことはじめ”をホームページで公開中、番組ホームページのテロップ。

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歴史秘話ヒストリアの次回予告。

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法隆寺
法華義疏
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