NHKスペシャル 「全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜」

『NHKスペシャル』(エヌエイチケイスペシャル)は、NHKのドキュメンタリー番組。略称は「Nスペ」。単発のドキュメンタリーを制作・放送していたNHK特集に代わり、1989年4月2日放送開始。原則、毎週日曜日の21:00 - 21:50に放送するが時間枠を拡大したり他の曜日・時間に放送することもある。再放送は、火曜・水曜深夜。多くはハイビジョン放送である。本項では前身である『NHK特集』(エヌエイチケイとくしゅう)についても記述する。

出典:goo Wikipedia

放送日 2019年8月18日(日) 0:35~ 1:48
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
00:35~

昭和天皇は晩年生涯忘れることが出来なかった出来事として「太平洋戦争を終わらせた自らの決断」と「二・二六事件」の2つをあげている。二・二六事件は陸軍の青年将校が重要閣僚ら9人を殺害した事件で、近代日本最大の軍事クーデターと言われる。今年事件を克明に記した機密文書が発見された。番組は今尚多くの謎を残す二・二六事件の全貌に迫った。

キーワード
昭和天皇
二・二六事件
太平洋戦争

全貌 二・二六事件〜最高機密文書で迫る〜 (バラエティ/情報)
00:38~

日本が降伏文書に調印したとき、その映像には日本の代表団の中に富岡定俊少将の姿があった。海軍軍令部の部長だった彼こそが二・二六事件に関する文書を持っていた。密かに保管していたためこれまで明らかにならなかった。大和ミュージアム館長の戸高一成は「資料として第一級のもの」等と話した。これまでは陸軍軍法会議の資料が主な公文書とされてきたが、今回発見されたのは海軍が事件の最中に記録したもの。すべての作戦を統括する軍令部のトップらが確認した事実が記されている。戸高は「これまで資料が出てこなかったことが不思議」等と話した。

二月二十六日午前7時海軍軍令部に電話がかかってくる。連絡を受けた軍令部員のメモには「警視庁」「占領」「死」などと記録されていた。陸軍青年将校らは夜明け前重要閣僚らを次々と殺害しクーデターを企てた。機密文書には「将校ノ指揮ニ依リ機関銃ヲ発射シツツ突入」「拳銃ヲ以テ鈴木侍従長ヲ射撃」「ラッパ吹奏裡ニ引上ケタリ」などと記録されていた。事件の概要を発生当初の段階で正確に掴んでいた。岡田啓介は間違って他の男性が殺害された。天皇の側近斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣らは銃や刀で残虐に殺された。9人が殺害され負傷者は8人にのぼった。決起部隊を率いた青年将校たちは皇道派を支持していた。天皇を中心とした軍事政権を樹立するとして閣僚たちを殺害した。しかし天皇は決起部隊に厳しい姿勢で臨もうとしていた。事件を起こした陸軍の部隊の一部は国会議事堂などが武装占拠し、陸軍上層部は戒厳司令部で対応にあたった。今回の資料から当事者の陸軍と別に海軍が独自の情報網を築いていたことがわかった。海軍は情報をとるため私服姿の要員を現場に送り込み、戒厳司令部にも要員を派遣し情報を入手していた。また現場周辺でも監視するなどネットワークを張り巡らせ情報を集めていた。海軍は事件よりも前に陸軍内の不穏な動きを掴んでいた。極秘文書には事件初日にある密約がかわされていたことが記されていた。

事件発生直後の陸軍大臣官邸で事態の収拾にあたる川島義之陸軍大臣に決起部隊がクーデターの趣旨を訴えたときの極秘文書の記録には、決起部隊から軟弱だと詰め寄られた川島義之陸軍大臣の回答が「陸相ハ威儀ヲ正シ、決起ノ趣旨ニ賛同シ昭和維新ノ断行ヲ約ス」と記されていた。直後川島陸軍大臣は皇道派の幹部・真崎甚三郎陸軍大将と接触。クーデターに乗じて陸軍上層部のなかに軍事政権の樹立を画策する動きがでていたことが資料には記されていた。また別の場所ではもう一つの密約がかわされていた。事件発生当初から断固鎮圧を貫いたとされてきた昭和天皇だったが、極秘文書には揺れ動く天皇の発言が記されていた。昭和天皇は事件発生直後海軍に影響力のある伏見宮軍令部総長に宮中で会っていた。天皇は伏見宮に「海軍の青年士官の合流することなきや」などと問いかけ、伏見宮は「殿下より『無き様』言上」と答えたと記されており、伏見宮は「海軍が決起部隊に加わる心配はない」と語ったのだった。軍部の中には天皇に批判的な声もあり、弟の秩父宮などが代りに天皇に担がれるという情報まで流れていた。事件の対処次第では天皇としての立場がゆらぎかねない危機的状況だった。天皇は海軍に「陸戦隊につき指揮官は部下を充分握り得る人物を選任せよ」と畳み掛けるように注文をつけていった。海軍・陸戦隊は海軍の陸上戦闘部隊で、天皇は陸戦隊の指揮官の人選に注文をつけるほど気を回していた。このあと海軍が天皇の鎮圧方針を支えた。そして天皇は海軍に鎮圧を準備するよう命じる異例の3本の大海令を出した。

極秘文書には第一艦隊、第二艦隊の動きが詳細に記録されていた。天皇の大海令を受け、全国に部隊を展開する大規模な作戦だった。大分で演習中だった第一艦隊は、戦艦4隻を始め潜水艦や戦闘機などの飛行機隊全体で東京を目指し、鹿児島沖の第二艦隊は大阪に急行。二月二十七日午前8時、陸戦隊が東京湾の芝浦ふ頭い到着した。極秘文書にはこのときの兵器一覧表が残されている。二・二六事件は海軍は全面的に関わる市街戦まで想定されていた。陸戦隊だった中林秀一郎さんは出動したときのことを「一番海軍に入って嫌な気持ちがした」等と話した。決起部隊の大半は陸軍第一師団の所属だった。第一師団の参謀長の「決起部隊亦日本人陛下ノ赤子」「決起部隊ヲ暴徒トシテハ取扱居ラズ」という言葉を海軍は記録していた。クーデターに理解を示すかのような幹部の発言に海軍は危機感を抱く。海軍は第一師団が決起部隊に合流し全面対決になることを警戒していた。午後2時軍令部に決起部隊から電話があった。この事実は極秘文書によって初めて明らかになった。海軍の内部にも決起部隊に同調する人物がいた。小笠原長生元海軍中将は天皇を中心とした国家を確立すべきだと主張し皇室とも近い関係になった。事件発生直後小笠原は伏見宮のもとを訪ね決起部隊の主張を実現するよう進言していた。小笠原は有力な海軍大将らに働きかけを続けていたことが文書には綴られている。海軍に接触を求めてきた決起部隊は電話でもののわかる海軍将校に一人でくるよう求めてきた。決起部隊に派遣された岡田為次海軍中佐が語った決起の趣旨を否定せず相手の出方を見極めようとする言葉が記録されていた。海軍は鎮圧の準備を進める事実を伏せ、決起部隊から情報を集めていった。午後9時、戒厳司令部に派遣されていた海軍軍令部員から真崎甚三郎陸軍大将が石原莞爾陸軍大佐と会い極秘工作に乗り出したという情報が入ってきた。2人が話し合ったのは青年将校らの親友を送り込み決起部隊を説得させる計画だった。これによって事態は収拾するという楽観的な見通しを持っていた。従わない場合は切り捨てることを内々に決めていたことも文書で明らかになった。一方海軍は情勢を厳しく考え、決起部隊が説得に応じず深刻な事態に陥るとみていた。

事件発生三日目の二月二十八日午前5時天皇は奉勅命令を出、直ちにもとの部隊に戻らせるよう命じた。しかし戒厳司令部に派遣された海軍軍令部員は小藤恵陸軍大佐の電話を聞き、決起部隊に奉勅命令を伝えなかったという天皇の動きに反する事実を知る。奉勅命令を伝えずにあいまいな態度を取り続けたが、小藤とのやりとりや態度などから決起部隊は自分たちを天皇が反乱軍と位置づけたことを知った。奉勅命令をきっかけに事態は緊張していく。決起部隊と面会を続けていた岡田中佐は交渉が決裂したと報告。決起部隊は海軍とも敵対関係になり、絶望的な状況に追い込まれる。陸軍、陸戦隊は鎮圧に傾き、決起部隊との戦いが現実になろうとしていた。市街戦で催涙ガスなどが使われる可能性があるとして陸戦隊にはガスマスクが配られた。決起部隊は陸軍に首謀者の一人磯部浅一が天皇の本心を知る手がかりとして、近衛師団の山下誠一大尉との面会を求める。2人は文部大臣官邸で面会。山下は決起部隊に攻撃命令が下りたときはどうするか磯部に問うと磯部は天皇を守る近衛師団に銃口を向けることはできないとしたが、近衛師団が攻撃した場合「反撃する決心」と答えた。山下は説得を続けるも溝は深まった。そして磯部は山下に「昭和維新を確立するまでは断じて撤退せず」等と話した。山下大尉の息子・山下忠雄はこの資料を初めて読み「知らない人じゃないから悲しみのほうが強かったと思う」等と話した。ともに天皇を重んじていた2人が再びあうことはなかった。決起部隊は「天皇に背いたわけではない」と市民に主張を始める。文書には現場の緊迫した状況が記録されている。幸楽で群衆に対し自分たちは間違っていないと訴え、事件の詳細を知らされていない市民は「腰を折るな」「国民は感謝している」などと発言したと文書には記されている。

事件発生四日目の二月二十九日。決起部隊が皇族に接触しようとしているという情報が前夜から飛び交い鎮圧側は混乱に陥る。決起部隊のトラックが包囲網を破ったという情報も入り、鎮圧部隊は皇族の邸宅周辺に戦車を配備するなど警備を強化。決起部隊は天皇を直接補佐する閑院宮参謀総長の邸宅前に現れた。閑院宮を通じ天皇に決起の思いを伝えることに一縷の望みを託していたが閑院宮は現れなかった。早朝陸軍は鎮圧の動きを本格化させる。周辺住民に避難を支持し、住民は避難所に急いだ。一触即発となり東京が戦場になろうとしていた。決起部隊の元兵士・志水慶朗氏は当時の状況を振り返り「日本の兵隊同士どうして撃ち合わなきゃいけないんだろうと感じた」等と話した。鎮圧部隊の元兵士・矢田保久氏は「戦地と同じ心理」「一発撃ったら絶対に止まらない」等と話した。海軍陸戦隊は攻撃準備を完了させた。「攻撃目標は道路上の敵」進撃命令はラッパ符『進め』」 「一挙に敵を撃滅す」などと当時の作戦内容が極秘文書に記されていた。第一艦隊は芝浦沖で命令を待っていた。海軍軍令部は艦隊から国会議事堂を砲撃する作戦の実行も想定していた。極秘文書に対処にあたっていたと記されている矢牧章中佐は「どんどん撃ったら千代田区がなくなってしまう」などと艦隊が攻撃することになったときの重大さを証言している。鎮圧方針を示してきた天皇は陸海軍の大元帥としての存在感が高まっていた。ついに鎮圧部隊による攻撃開始時刻が8:30に決定し、戒厳司令部がラジオで流した緊急ニュースの内容が極秘文書には残されていた。最後まで抵抗を続けていた安藤輝三の部隊に鎮圧側は攻撃を決めた。そして極秘文書には最後に残った部隊の指揮官の安藤が銃で自殺するまでの一挙手一投足が記録されていた。事件の責任は決起部隊の青年将校やそれに繋がる思想からにあると断定され、暗黒裁判とも呼ばれた軍法会議にかけられ。首謀者19人を処刑した。陸軍は組織の不安は取り除かれたと強調したが事件への恐怖心を利用し政治への関与を強めていった。また天皇は自らの立場を守り通し、クーデター鎮圧の成功は天皇の権威を高めることに繋がった。

事件後日本は戦争への道を突き進んでいく。軍部は天皇の権威を利用し軍国主義を推し進め、国民に命を捧げる事を求めていく。太平洋戦争では日本人だけで310万人もの命が奪われ、壊滅的な敗戦を迎える。昭和天皇は晩年生涯忘れることが出来なかった出来事として「太平洋戦争を終わらせた自らの決断」と「二・二六事件」の2つをあげているが、河西秀哉氏は「二・二六事件が戦争の一つの契機になってしまったといろんな思いを持った可能性もある」等と話した。海軍は二・二六事件の記録を一切公にすることはなかった。極秘文書6冊のなかに海軍が事件前に掴んだ詳細な情報が記録されていた。事件発生の7日前東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に機密情報をもたらしていた。文書には襲撃される重臣の名前が、続くページには首謀者が明記されていた。海軍は二・二六事件の計画を事前に知っていた絵がその事実は闇に葬られていた。その後起きてしまった事件を記録した極秘文書では不都合な事実を隠し組織の姿を守ろうとしていた。83年の時を越えて蘇った極秘文書は戦争への道を歩んでいった日本の姿を私達に伝えている。

キーワード
富岡定俊少将
二・二六事件
太平洋戦争
岡田啓介
斎藤実内大臣
高橋是清大蔵大臣
渡辺錠太郎陸軍教育総監
鈴木貫太郎侍従長
昭和天皇
川島義之陸軍大臣
真崎甚三郎陸軍大将
伏見宮軍令部総長
秩父宮
高松宮
名古屋大学
芝浦埠頭
小笠原長生
防衛大学校
岡田為次海軍中佐
石原莞爾陸軍大佐
小藤恵陸軍大佐
磯部浅一
山下誠一大尉
幸楽
東久邇宮
閑院宮参謀総長
神戸大学
警視庁
安藤輝三
北一輝
西田税
海軍省
高橋蔵相
香田清貞
栗原安秀
岡田首相

エンディング (その他)
01:47~

エンディング映像。

番組宣伝 (その他)
01:47~

「NHKスペシャル」の番組宣伝。

  1. 前回の放送
  2. 8月18日 放送
  3. 次回の放送