NHKスペシャル 女たちの太平洋戦争〜従軍看護婦 激戦地の記録〜

『NHKスペシャル』(エヌエイチケイスペシャル)は、NHKのドキュメンタリー番組。略称は「Nスペ」。単発のドキュメンタリーを制作・放送していたNHK特集に代わり、1989年4月2日放送開始。原則、毎週日曜日の21:00 - 21:50に放送するが時間枠を拡大したり他の曜日・時間に放送することもある。再放送は、火曜・水曜深夜。多くはハイビジョン放送である。本項では前身である『NHK特集』(エヌエイチケイとくしゅう)についても記述する。

出典:goo Wikipedia

放送日 2015年8月21日(金) 1:30~ 2:20
放送局 NHK総合大阪

番組概要

オープニング (その他)
01:30~

戦時中、激戦地ビルマとフィリピンで傷ついた兵士の看護に当たった従軍看護婦に迫る。日本赤十字社には長く非公開とされていた戦時救護班業務報告書が残されていた。

キーワード
従軍看護婦
日本赤十字社

女たちの太平洋戦争 従軍看護婦・激戦地の記録 (バラエティ/情報)
01:33~

奥秋野さんは19歳から3年余りを従軍看護婦として過ごし、今もその時の記憶は鮮烈に覚えている。不眠不休で毎日50人以上の傷兵の治療や看護にあたった。従軍看護婦として国に尽くすことは憧憬の生き方とされた。同じ従軍看護婦だった長谷部鷹子さんは感謝してくれた兵士も明くる日は死んでしまったことを振り返り、涙していた。

昭和16年に太平洋戦争が開戦し、東南アジア各地に戦線は拡大していった。それとともに日本赤十字社には救護班の派遣が要請され、頼藤ツルさんは20歳で従軍看護婦となった。戦時中は軍の求めに応じて看護婦を戦地に派遣することが求められ、その多くは20代前半ばかりだった。中には既婚者や子どもをもうけている人もいて、西内清子さんの知人が乳飲み子を置いて行ったことに涙が出たとコメント。

多くの従軍看護婦が派遣されたのは現在のミャンマーで、日本軍は同地での資源獲得、連合軍の中国への補給路を遮断することを目的としていた。現地の人の協力も得て首都ラングーンを占領し、北部へと侵攻を開始。そして昭和17年に戦時救護班の第一陣として48人がラングーンに到着し、各地には兵站病院が置かれた。だが看護師たちはデング熱といった熱帯特有の風土病にかかり、帰国を余儀なくされる者もいるなど治療に支障を来した。更に兵士たちもマラリアに苦しみ、陸軍省の東條英機陸軍大臣は戦力損耗だと懸念。対するイギリス軍は医薬品の補給体制を整えていた。

日本軍はマラリアの特効薬としてキニーネを外国製に頼ってきたが、開戦によって輸入はストップ。永井日出子さんは上官以外の兵士には飲ませることができないほど貴重な薬だったと語った。ビルマ北部ではイギリス軍が反撃を開始し、頼藤ツルさんは重篤な負傷兵を看護した。看護婦達にとってはこれまでにない事態に直面し、南方戦線での医療責任者だった青木九一郎は兵站病院の増設を求めた。その要求は叶えられることなく戦線は拡大していった。

昭和19年3月、日本軍はビルマから国境を超えて東インドにあるイギリス軍の拠点だったインパールを強撃する作戦を開始。標高4000mのアラカン山脈が立ちはだかる中、十分な補給もないまま山越えの強行軍を強いられた。兵士たちは飢餓、病に加えて激しい攻撃に曝され、従軍看護婦だった長谷部鷹子さんは自分が看護した多くの兵士を看取ることとなった。更にビルマの輸送路はイギリス軍に抑えられ、前線に設置された野戦病院で治療を受けた傷病兵を復帰させるという命令が下り、婦長だった吉田八千代さんはその対応に当たった。兵士も逆らうことなく、命令に従おうとしていたという。

日本軍の補給と兵站を蔑ろにしたインパール作戦で5万人の兵士が犠牲となり、太平洋の戦線でも戦況は悪化した。アメリカ軍は日本軍への進撃を開始し、昭和19年9月に空母部隊がマニラ湾の輸送船団を強撃した。当時16歳という最年少の看護婦だった木村美喜さんや川崎啓子さん、奥村モト子さんらは負傷兵の惨状を目の当たりにした。昭和20年1月にアメリカ軍がルソン島に上陸し、南方第12陸軍病院一帯は激しい爆撃に見舞われた。報告書では筆舌に尽くし難い死傷者数を出したといい、防空壕に避難していた川崎さんは病気で入院していた仲間の看護師を失った。皮膚片などは壁に飛散し、川崎さんは一緒に避難させるべきだったと後悔している。

日本軍はルソン島北部に撤退を開始し、各地の兵站病院も軍とともに移動するように命じられた。重症患者とともに看護婦達が逃げ延びた場所は使われなくなった金鉱山の坑道で、多くの兵士が死亡していく中で看護婦達は悲しみといった感情を押し殺して看護に当たった。一方でミャンマーでは日本軍は壊滅状態にあり、後方と位置づけられていた兵站病院のある地域が最前線と化した。防空壕で頼藤ツルさんは戦車や爆撃といった轟音を聞くなか、死んでも捕虜にはならないという覚悟だった。

ビルマ各地の兵站病院に撤退命令が下り、戦時救護班の看護婦達は20日の行軍の末に軍医や衛生兵とともにチャウチーパウ村に辿り着いた。兵士達は情報漏れを恐れて案内をしてくれた現地の人を殺害したり、食料も徴発した。当時18歳だったパウサさんは日本軍によるミャンマー独立に期待していたが、横暴すぎる日本兵士たちの振る舞いを憎悪した。ビルマ各地の村ではゲリラが組織され、日本軍に蜂起。永井日出子さん、岩本あや子さんらは銃弾が飛び交う中で逃げる中、9人の看護婦が死亡した。

フィリピン・ルソン島ではアメリカ軍による上陸作戦が開始し、日本軍司令部は島北部へと追い詰められた。日本軍兵士にとって生きて捕虜になることは許されず、重症患者ですらその対象だった。奥村モト子さんら看護師は病人の静脈に空気を注射し、殺すように指示を受けた。その後も逃避行は続き、飢餓感や病に苦しむ中で徹底抗戦を強いられた。木村美喜さんは横たわった兵士の死体を埋葬し、川崎啓子さんは気の毒さと情けなさを感じながら遺体から食料を抜き取ったと語った。渡邉民子さん、木下とみよさんも国への忠誠心をかなぐり捨て、自分の命を優先したとコメント。

戦時救護班の業務報告書には誰もが日々の仕事へ邁進する決意を繰り返して記していた。だが戦場では看護婦としてのプライド、人としての尊厳を打ち砕く現実が待っていて、何人もの看護婦が犠牲となったのか確かな記録は残されていない。頼藤ツルさんは戦地での時間は無益で、帰国後の暫くは人の死にも感情移入できなかったという。黒瀬サツ子さんは戦争を止めようとする人がいてくれたら悲劇は起こらなかったと話した。そして西内清子さんは戦後に元患者だったという人と再開しお世話になったと感謝されたが、十分な看護ができなかったと気が咎めて何も言えなかったと語った。

キーワード
従軍看護婦
日本赤十字社
太平洋戦争
戦時救護班
ミャンマー
マラリア
デング熱
兵站病院
陸軍省
東條英機陸軍大臣
キニーネ
青木九一郎
インパール作戦
インパール(インド)
アラカン山脈
野戦病院
マニラ(フィリピン)
南方第12陸軍病院
ルソン島
チャウチーパウ村(ミャンマー)
パウンデー(ミャンマー)
シッタン川
フィリピン

エンディング (その他)
02:18~

エンディング映像。

スポット

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