戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった 2015年3月9日放送回

放送日 2015年3月9日(月) 21:00~23:04
放送局 毎日放送

番組概要

オープニング (その他)
21:00~

高尾山麓の湯の花トンネルでは、空襲で多くの命が失われた。今日は東京大空襲があった夜だが、空襲はあらゆる場所で起きていた。

米軍戦闘機の機銃掃射の映像が流れた。旧日立航空機変電所は機銃掃射の弾丸を受け、弾丸は建物内部に達した。ロケット弾は建物を貫通する威力だ。動くものはすべて標的となり、低空の空襲を行った。空戦ではいくつもの機体が炎に包まれる。どのようにこれらの映像は撮影されたのか。

「ガンカメラ」で機銃掃射が撮影された。音声は後付で、機銃の引き金を引くと撮影が開始され、パイロットは仕事ぶりをチェックされていた。現在では日本の様々な場所が戦場だったことを示す貴重な資料だ。都城市の空襲について坂口フミ子さんが証言した。

中央線の惨劇について、機長な証言を元にドラマ化した。中央線を襲ったパイロットをつきとめ、悲劇の真相が明らかになる。

キーワード
高尾山
都城市(宮崎)
いちき串木野市(鹿児島)
八尾市(大阪)
中央線
湯の花トンネル

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
21:08~

70年前、福島今町駅は周辺の家とともに激しい機銃掃射を受けた。木造2階建ての旅館には今も2階のあちこちに穴が空いている。死者が出たにもかかわらず串間市にこの空襲の記録は残っていない。この街が戦場だったことを示すのは、人々の記憶とガンカメラ映像だけ。

岩手県釜石市の沿岸に連合軍の船が押し寄せ、激しい砲撃を始めた。1945年、本州で初めての艦砲射撃。製鉄所で働いていた千田さんは「急に飛行機が低空で来て私と姉の周りをバチバチと機銃掃射を受けて、何年経って考えてみても機銃掃射が一番怖かった。」と話した。

鹿児島県薩摩川内市では市の中心部にある川内小学校に戦闘機が低空で迫り、焼夷弾も落とされ火の海になった。当時小学校1年生だった砂獄英俊さんは「夏だから白を着ていて、目立つから全部脱げと言われた。」と話した。児童7人が犠牲になった。豊永一郎さんは70年経った今も9歳だった弟の変わり果てた姿が脳裏から離れない。滄浪小学校は3年前に閉校し、毎年行われていた子どもたちへの語り継ぐ会ももうない。

ロケット弾が放たれた先には飛行機が隠されていた。この飛行場では日本軍がパイロットの養成を急ぎ特攻の訓練を行っていた。そのため猛烈な空襲の標的となった。この場所は今は福島第1原発がある。汚染水タンクが立ち並ぶ一角に石碑だけが残っている。隣の福島・浪江町も狙われた。

千葉・鴨川市の鴨川シーワールドには年間およそ90万人が訪れる。この街も戦場だった。

キーワード
串間市(宮城)
釜石市(岩手)
浪江町(福島)
鴨川市(千葉)

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
21:17~

機銃掃射を受ける内房線太海駅では民家からも炎と煙が上がる。千葉県鴨川市郷土資料館の高橋誠さんは「映像だけで衝撃を受けた」と話した。隣町の個人のわずかな記載から空襲があった日を特定できた。

アメリカ国立公文書館には膨大な量のガンカメラ映像が保管されている。しかしほとんどの映像がいつどこへの空襲なのかわかっていない。この日大分市の男性の自宅に、公文書館に依頼していたガンカメラ映像が届いた。男性は仲間と映像の分析にとりかかった。豊の国宇佐市塾の3人でこれまでに960分もの映像を分析し、北海道から沖縄まで139もの市町村が空襲されたことをガンカメラ映像から特定した。彼らが最初に特定したのが大分・宇佐飛行場。

宇佐市には不思議な形をした倉庫のようなものが点在している。豊の国宇佐市塾のメンバーは、ガンカメラ映像の米軍機が機首を上げた時に一瞬映る山並みの風景を手がかりに場所を特定した。メンバーはまた日米双方の記録と、飛行場の損傷具合から空襲の日にちを断定。影が真下に伸びていることから正午過ぎのものと断定した。

ガンカメラに映る建物が住宅街に今も残っていた。そこは当時パラシュートの倉庫とされていた建物。その建物には機銃掃射の後が残っていた。建物は貴重な戦争遺跡として宇佐市が買取り、保存している。そこにあったパラシュートは開くことはなかった。戦争末期、宇佐飛行場は特攻隊の基地になった。開くことのないパラシュートを携えた154人の若者が命を失った。海までずっと直線が続く道路はかつて滑走路だった。宇佐では500名近い人間の命が奪われた。

ガンカメラ映像の数が突出して多い地域は南九州。鹿児島では2度の大規模空襲で3300人以上が死亡した。河野俊子さんは「爆風でそこにいた人がぴたっと壁に飛ばされてひっついていた。女の人だと思う。真っ黒焦げだけど。」と話した。(鹿児島・垂水市などの映像)。連合軍は宮崎と鹿児島の合わせて3か所から同時に上陸し地上戦を実行しようとしていた。その後関東にも進出し最後は東京を包囲する。上陸決行のXデーは1945年11月1日。日本の無条件降伏を引き出す狙いだった。

キーワード
宇佐飛行場
アメリカ国立公文書館
豊の国宇佐市塾
宇佐市(大分)
垂水市(鹿児島)
都城市(宮城)

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
21:30~

1945年の鹿児島県枕崎市白沢は繰り返し空爆による水柱が立ってた。そこを尋ねると美しくのどかな風景があった。現在は周辺に民家が立ち並んでいた。白澤豊さんは当時は集中砲火が毎日あったと語った。この頃すでに沖縄は連合軍の手に落ちていた。主要攻撃場所のついでに白沢が狙われたと白澤豊さんは語った。

1945年の宮崎県都城市の妻ヶ丘中学校では極度の食糧難から校庭も畑にしていたと伝えた。

連合軍の上陸予定地点だった鹿児島県の志布志市。上陸の情報を得た日本軍はこの付近に地下施設を作っていた。地下要塞は総延長16kmになると伝えた。砂浜では竹やりを訓練する女性の姿があったと伝えた。

このあとは「一体これは?」を放送。

キーワード
白沢(鹿児島)
沖縄県
都城市(宮崎)
志布志市(鹿児島)
志布志湾

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
21:36~

阻塞気球は地上と繋がれた鎖に戦闘機がぶつかると墜落する仕組みになっていて日本軍も重要な場所にあげていた。防衛研究所の資料には設計図があり、当時気球を作っていた会社の社史には写真が掲載されていた。

実際に阻塞気球を再現してみる。素材を切り貼りし、1ヶ月半の期間で完成した。ヘリウムガスを入れていく。当時は入手が容易な水素を使用し爆発の危険もあったという。大きさは2階建て校舎と変わらない大きさになった。当時は上空300メートルまであがっていたという。

しかし阻塞気球の効果は専門家の間では疑問視されていた。アメリカのB29は上空1万メートルからの攻撃が可能で阻塞気球の高さが足りないことと、日本軍の気球の配備数は限られ、進入を防ぐ一定数に満たなかった。また素材は絹と天然ゴムを4枚貼り合わせており費用は2000万もした。

このあと狙われた鉄道。

キーワード
ヘリウムガス
天然ゴム
B29
阻塞気球
藤倉ゴム工業

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
21:44~

戦闘機は兵隊と軍需物資の輸送網破壊の目的で鉄道を狙った。当時の鉄道は日本軍にとって戦争継続の生命線だった。政府が発行した週刊誌では鉄道を軍事優先に国民の利用を控えるよう訴えていた。大政翼賛会が発行した記事には鉄道は兵器だとの見出しがあがっていた。国鉄の記録では900両の被害があり貨物車のみでなく2200両以上の客車にも銃弾は打ち込まれた。

中央線高尾駅は3度の機銃掃射を受け現在も後が残っている。空襲を受けた湯の花トンネルでは最多の犠牲者を出したという。現在の東京大田区で暮らす黒柳さん一家の姉妹はその列車に乗っていた。

キーワード
都城市(宮崎)
大政翼賛
久留米市(福岡)
日立市(茨城)
盛岡市(岩手)
那智勝浦町(和歌山)
諫早市(長崎)
旧淺川駅
湯の花トンネル

中央線の惨劇(本編1) (演技/演奏)
21:51~

昭和20年の8月5日10時30分、長野の祖母の元に疎開するために、疎開列車が新宿駅を出発。乗客に毎日新聞記者の森正蔵や筑摩書房創立者の古田晁がいた。ただこの日アメリカ軍のP-51が関東地方に迫っていた。

キーワード
森正蔵
古田晁
長野県
P-51

中央線の惨劇(本編2) (演技/演奏)
22:06~

疎開する列車の中で女学校の友達からもらった手紙を読み返した。手紙には再会を楽しみにしているという内容だった。またそこでセーラー服を着て再会するという約束をしたと伝えた。その時敵機が来て列車が銃撃された。

中央線の惨劇(本編3) (演技/演奏)
22:14~

列車が空襲を受けている車内では多くの人が銃撃された。空襲を受けて妹の方は生き残ったが姉は銃撃で死亡した。車内は地獄だったと伝えた。何も考えられなかったと伝えた。

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
22:20~

救済に使われた戸板では救助にあたった方達が状況を話した。大人の人は水を欲しがっていたと語り今でも水という言葉は耳に残っているという。当時の女性車掌の丹野玉子さんは空襲警報の中、駅を出たことを悔やんでいる。トンネルがいっぱいあったから入っちゃえばという思いがあった。同乗していた車掌の和田栄子さんは命からがら帰って制服をタライで洗った時、張った水が赤くなり肉片が浮かぶと話し、その方がこの無念さを忘れないでくれと残した気がすると思いを語った。

キーワード
森正蔵さん

中央線の惨劇(本編4) (演技/演奏)
22:23~

列車から生き残った美恵子は家に戻った。どうやって家に戻ったのかは覚えてないと語った。その後、父と美恵子は姉の遺体を確認した。どうして列車が狙われたのかと伝えた。姉の死亡から10日後に戦争は終わったと伝えた。

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
22:29~

あれから70年、中央線の惨劇を生き残った美恵子さんを佐藤浩市が取材。当時と同じ大田区の家で暮らす。美恵子さんは、犠牲となった姉は姉なりに責任感を持っていたが顔を上げるとシーンとしていたと話した。家にあったぶどう棚は母が戦後全て切り払ったといい、母は「なぜ娘をあの列車に」と長く苦しんだという。

犠牲となった女性の親友だった郷田さんに、かつての母校で現・東京都立雪谷高校で取材…。

キーワード
大田区(東京)
中央線
東京都立雪谷高校

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
22:35~

あれから70年、中央線の惨劇で犠牲となった女性の親友だった郷田さんに佐藤浩市が取材。別れる直前に交換したサイン帳には「今度私が生まれたら野辺の花になりませう」と記されていたという。現場のふもとには碑が建てられ、毎年慰霊祭が開かれる。美恵子さんは、戦争は勝っても負けても悲しいことがおきていると話した。

現場のふもと・湯の花トンネル付近には碑が建てられ、毎年慰霊祭が開かれる。美恵子さんは、戦争は勝っても負けても悲しいことがおきていると話した。佐藤浩市は、戦争になぜはないが、70年経った我々の世代はあえて探す必要があると話した。

アメリカ国立公文書館に映像が収められている。そこで列車が撃たれた際の映像を探した。列車が撃たれている映像はあったが、中央線を銃撃した映像はなかった。そこで撃ったパイロットを探すことにした。中央線を撃った部隊の特定に成功した。そのパイロット達が同窓会を行うということで、そこで元パイロットを探した。パイロットは空襲では相手の顔はミエないと伝えた。アブナー・アウスト氏は地上で動くものを標的にしていたと伝えた。標的はパイロット次第だったと伝えた。ビル・エバーソール氏は列車は撃ったが貨物車だったと語った。同窓会では中央線を撃った人は見つからなかった。

キーワード
中央線
湯の花トンネル
アメリカ国立公文書館
硫黄島

戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった (ニュース)
22:52~

ロサンゼルス郊外のロバート・グラント氏を尋ねた。彼の父のジョン・ジョセフ・グラント大尉があの日列車を撃った一人だと伝えた。ロバート・グラント氏は父について、厳しい父親だが器が大きい人だと語った。ジョン・ジョセフ・グラント大尉は硫黄島から妻に手紙を送っていた。そこには娘への思いが語られていた。手紙には望んで戦争に行ったのではないと記載していた。また列車銃撃についての様子の記載もあった。ロバート・グラント氏は感情には見せないけど内面では傷ついたと思うと語った。

キーワード
ロサンゼルス(アメリカ)
ジョン・ジョセフ・グラント大尉
硫黄島

エンディング (その他)
22:59~

民間人は撃ってないと撃った側は自分に言い聞かせないといけなかったのかもしれないと伝えた。しかし実際には民間人が亡くなっている。戦後70年経っているが世界の色々な所で戦争は起こっていると伝えた。ジョン・ジョセフ・グラント氏は妻に日本の美しさを伝えた。また「あの人達を銃で撃つなんて僕にはできない」と書き送っていたと伝えた。

キーワード
ジョン・ジョセフ・グラント氏
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