テレメンタリー 2017「あの日のりんご 〜北朝鮮唯一の残留日本人〜」

『テレメンタリー』は、ANN系列のドキュメンタリー番組である。タイトルは「テレビドキュメンタリー」からの略称による造語。タイトルの後には年号が入る(例:『テレメンタリー2017』)。

出典:goo Wikipedia

放送日 2017年10月15日(日) 4:55~ 5:25
放送局 朝日放送

番組概要

オープニング (その他)
04:55~

オープニング映像。

あの日のりんご ~北朝鮮唯一の残留日本人~ (バラエティ/情報)
04:55~

中距離弾道ミサイル 火星12を発射した北朝鮮。あなたは北朝鮮にどんなイメージを持っていますか?戦後、ずっと北朝鮮に住み続けている日本人がいることを知っていますか。北朝鮮で唯一の残留日本人として知られる女性の単独取材に成功した。国家と国家、その対立に翻弄され続けた一人の女性の生涯を追った。

アメリカとの軍事的緊張がエスカレートしていたことし8月、厳しい経済制裁下にあるはずの平壌では、真新しい高層ビルが次々と誕生していた。核ミサイル開発などに貢献した科学者たちのための住居だという。フォトジャーナリストの伊藤孝司さんは、長年北朝鮮の知られざる実情を伝えてきた。平壌から車で約5時間の咸興市に着いた。日本の植民地時代に科学コンビナートが作られ数万人以上の日本人が住んでいた。今回伊藤さんは粘り強い交渉の結果、ある取材の特別許可を得ていた。普段は外国人が立ち入ることが出来ない裏路地を進んでいく。着いたのは6階建ての団地。北朝鮮でこうした一般住宅での取材が認められることはめったにない。

朝鮮名 リ・ユグム、日本名 荒井琉璃子さん(84)。荒井さんはこの団地で息子と孫夫婦、そしてひ孫の5人で暮らしている。日本語を話すことはほとんどできない。戦後残留していた日本人のほとんどが高齢化で亡くなる中、唯一その存在がわかっているのが荒井さん。日本の植民地となった朝鮮半島には最大で75万人の日本人が住んでいた。荒井さんは1933年京城(現在のソウル)で生まれた。終戦間際の1944年、父の転勤で、中国との国境の町・会寧に移り住む。日本の敗色が濃厚となる中、荒井さんの父は徴兵され、中国へ送られることになった。荒井さんは「父はもう自分が帰って来られないことがわかっていたみたいで弟と私を強く抱き寄せた」と振り返る。1945年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻。事態が緊迫する中、多くの日本人が南へと避難を始めた。荒井さん一家も野宿を繰り返しながら逃避行を続けた。運良く列車に乗れたが、咸興駅で降ろされ、旅館や遊郭に収容された。収容所を管理していたのはソ連軍で、飢えと寒さと伝染病で多くの人が死んでいった。2012年に伊藤さんが咸興市で撮影した映像では、避難中に死亡した日本人の遺骨が畑から大量に見つかった。荒井さんと同じ時期に咸興で避難生活を送っていた、愛知県豊橋市の久木村久さんは「(みんな)がりがりにやせていった」「2月に兄が死んだ」「あっけない死に方でした」等と話した。

荒井琉璃子さんも避難生活中に、腹違いの弟と妹を亡くした。荒井さんが弟と妹を埋葬した場所に来ると、今でも当時のことが鮮明に蘇るという。遺体を埋葬した場所の隣には、りんご畑があった。継母はそこで風呂敷2つ分のりんごをもらい、荒井さんと弟に渡し「日本までの旅費が必要だから、2人でこのりんごを売ってきて」と言ったという。2人は市場に行きりんごを売り始めた。ところが大勢の人混みの中、2人ははぐれてしまう。荒井さんは弟を必死に探して、弟と一緒にいた場所に戻って待った。その時荒井さんのもとに朝鮮人の男性が寄ってきて声をかけた。朝鮮人の男性は妻と子供がいる自宅に荒井さんを連れて行った。翌朝、再び市場に行き弟と再会できた。荒井さんは自分だけ暖かい寝床で寝ていたとは言えず、野宿したと嘘をついた。過酷な収容生活が続く中、朝鮮半島から帰国する日本人が続出していた。荒井さんはこの日本人の集団から取り残されてしまった。荒井さんは「弟はお姉ちゃん早く行こうよと急かしていたのに、私はりんごを全部売ってから行くと言い張ってしまった」などと振り返った。

翌年の1946年、北朝鮮からの正式な引き揚げ事業が実施される。しかし朝鮮人の家庭に身を寄せていた荒井さんにその情報が届くことはなかった。1954年、日本赤十字社が朝鮮赤十字会に残留日本人の安否確認を依頼した。自力で脱出できた人に続き、所在が確認できた36人が帰国。荒井さんもこの時に帰国できるはずだった。しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発。荒井さんの住んでいた咸興もアメリカ軍の激しい爆撃を受けた。この時荒井さんが日本人であると記載された住民登録も焼失してしまう。これ以降、荒井さんの存在は歴史の影に埋もれてしまった。

荒井さんにはもうひとり育ての親がいる。家に止めてくれた家族の知人、キム・コウブンスンさん。彼女は自分の息子2人とともに、荒井さんを育ててくれた。荒井さんは中学を卒業後、織物工場に務める。そして、荒井さんの父親と同じ職業の鉄道員が夫になる。今はひ孫の成長を見守るのが一番の楽しみだという。北朝鮮の学校では、日本の植民地時代の被害を徹底的に教えている。荒井さんの孫のトン・ウンスクさんは「先生の話を聞いたときは気分が悪かった、帰ってからおばあさんには何も言わなかった」と明かす。荒井さんが一度日本の親戚に手紙を送った所、弟から手紙が届いたことがある。弟は自力で朝鮮半島南部まで行き日本に帰ったのだという。その後再会の望みを果たせぬまま、弟は亡くなった。

この日、荒井さん宅に女性達が集まっていた。実は中本愛子らもここに暮らす日本人だという。

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あの日のりんご ~北朝鮮唯一の残留日本人~ (バラエティ/情報)
05:16~

1959年在日朝鮮人の帰還事業が開始。この時、在日朝鮮人の男性と結婚していた約6800人の日本人妻と子供達が北朝鮮へ渡った。咸興には現在37人の日本人妻がいる。荒井さん宅に集まった中本愛子さんたちは、端川発電所のダム建設をしている労働者たちに日用品を送るボランティア活動をしているという。彼女たちが去年結成した交流会・咸興にじの会がある。当初は北朝鮮に渡って3年が経てば日本に里帰りできると言われていた。しかし、日朝交渉が進展しない中、一時帰国できたのはわずか43人。待ち焦がれながらも果たせぬ帰国への想い。伊藤さんは咸興を離れる前日に虹の会のメンバーを食事会に招いた。食事の後歌を披露しあう事になった。荒井さんの番になり歌った歌は「今日の幸せは誰がくれたのか、首領様がくれたよ、労働党がくれたよ」と言う歌詞の歌だった。荒井琉璃子さんは「後悔はしていない、今の私はとても幸せに暮らしている、後悔はしていない」と話した。

米朝関係が緊迫しているにもかかわらず、咸興の浜辺では地元住民が休日を楽しんでいた。最後の取材中、荒井さんは唯一思い出したという日本の歌を歌った。荒井さんは「早く国交を正常化して故郷を訪問できるようにしてほしい」と話した。いつか彼女が日本後を踏む日は来るのか。

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エンディング (その他)
05:23~

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